第11話 お題「香水」 桜の香の君
ふわりとどこからか、風に乗って甘くて優しい香りが漂ってきた。
まるで桜の花が花開く時の様な、香り。
多くの人々が行きかう街中の歩道で、周りには桜の木など一本もない。
それでもどこからかふわりと香り、信号待ちをしていた男の鼻腔を擽った。妙にまとわりつく様なその甘く独特な香りに、近くにいる女性が付けている香水の香だろうかと辺りを見回す。
だが、周りにいる人間の多くは自分と同じ男性で、このような甘い香りを好んで身につけそうな人間を見つける事は出来なかった。
ではこの香ってくる優しい香りはなんなのだろうか、と思う。
自分の周りではなく、もっと遠くから香りが運ばれているのだろうかと男は思うが、生憎と香水にしても本当の桜の香りが風と共に運ばれているのだとしても、ここまではっきりとした香りが他の匂いと混ざることなく届く事は考えにくかった。
そしてもし本物の桜の香だとしたら、この信号から相当離れた場所にある公園にしか桜はない。それに、と思いながら男は首に巻いたマフラーをその手袋をはめた指先で触れる。
人の間を吹き抜ける風は冷たく、その風には粉雪が混ざっていて街の中を白く染め始め、吐く息も白く揺蕩っていた。
こんな寒い日に本物の桜の香りがするのは考えられなかった。
ずっと寒い日が続くから、いち早く春の気分を味わいたくて、桜の香の香水を身に纏っている人がどこかにいるのだろうかと男は考え、改めて桜の香水の香りだろうと思い直す。
そして、男はマフラーで口元を隠してふふっと笑う。
そう言えば昔、この香りとよく似た香りをとても寒く雪が背丈を超える程積もった日に、その身に纏っていた人がいた事を男は思い出したのだ。
その人は存在そのものも春の陽だまりの様な、明るく咲く桜の花の様な人だった。
大学を卒業した後、進路は別々になり、その人は男とは全く違う県へと引っ越していった。だからその人が今どこでどうしているのか男は知らない。
それに何より特に仲が良かった訳ではなく、男が一方的にその人を知っていただけの可能性が高い。
講義で何度が隣になり、軽い雑談や講義に対する話を少しばかりしただけの相手だ。
その人が、真冬の講義の時に今香ってくるような桜の香水を身に纏い、隣の席に座った事を男は懐かしく思い出す。
『……なんの香水?』
その時、ふんわりと香るその甘さのある優しい香りに思わず男がそう聞いた時にその人は微笑んで『桜』と答えたのだった。
『まだ冬なのに?』続けてそう聞けば、『桜が恋しくて』と悪戯っぽく笑ったのが男の中では甘酸っぱい思い出となっている。
気が付けば信号は赤から青へと変わり、周りにいた人達がぞろぞろと雪が解けて濡れた道を歩いていく。
慌てて周りの人に合わせて男も歩き出し、マフラーに顔を埋め足元を見つつ、前からくる人間達を避けながら道路の向こう側へと向かう。
そんな男の鼻腔に、先程よりも強く桜の香が漂い、弾かれた様に男は顔を上げた。と、男の頬に桜の香水を焚き詰めた様な長い髪の毛の先がふわりと触れ、思わず男はその場で足を止める。
「……え」
驚き後ろを振り返るも、頬に当たった様な長い髪を持った人は一人もそこにはおらずまるで狐に化かされたような面持ちとなり男は目を瞬く。
途端、車からのクラクションが鳴り響き、ハッとするとすでに信号は青から赤へと変わっていて男は慌てて信号を渡り切る。
そして渡り切ったところでまた振り返り、道路を走り去る車の流れの向こう側、先程まで自分が立っていた場所を目を細めて見る。
何故かそうしなければいけない、と男はそう思っていた。
暫くそうして反対側を見ていると、また信号が変わり、青となった瞬間男は反対側へと走り始める。
さっきまで確かにいなかった筈の長い髪の人が、そこに立っていた。
「……君は……!」
駆け寄り、そう声を掛けると、その人は昔と変わらず陽だまりの様な、満開になった桜の花の様な温かい笑みをその整った顔に浮かべる。
「こ、こっちにいつ帰ってきて……」
走ったことでいささか上がった息を整えながらそう聞くと、その人はまた微笑み、男の鼻腔に強く桜の花の香水の香りが漂った。
「か、髪、伸びたね」
何も言わないその人に男は何を話していいか分からなくなりそんな言葉を口走り、すぐにしまったと思う。
そもそも目の前の人が自分の事を覚えている保障なんてどこにもない……と男は気が付き、こんな質問気持ち悪いだけだろ、と自分自身に内心毒づく。
だからきっと微笑むだけで何も返事をしてくれないんだと思い直し、改めて一つ咳ばらいをすると口を開いた。
「あ……と、覚えてないかもしれないけど、大学の時良く同じ教授の講義を取ってて……。その君とは何度か席が隣で、少し話した事もあるんだ。僕の名前は……」
そこまで言ったところで目の前にいる人は、まるで覚えているよ、といったように男に微笑み、また桜の香りが強くなった。
そしてその人は自身のスラックスのポケットに手を入れるとそこから何かを取り出す。
男は釣られるようにその手のひらの上にあるものを見て、目を瞬いた。
その人の手のひらの上には桜の花びらが小さな可愛らしい瓶の中に液体と共に詰められていて、男はなんだろうかと思う。
「これ……」
何? そう男が尋ねようとした時、その人の手が男の手を取りその上にそれをそっと置くと、また微笑んだ。
まるで貰ってくれ、と言っている様に感じもう一度男は目を瞬く。
手の中に置かれたその小瓶を自分の目の位置に掲げてまじまじと眺め、改めてその人に男が色々な事を質問しようと視線を戻したが、そこにはもう誰の姿もなく、ただ様々な人が寒そうに首を竦めて早足で歩道を歩いているだけだった。
その事に三度目の瞬きをした後、もう一度手の中にある小瓶を見つめる。
それを見つめていると男の瞳に何故か涙が盛り上がり、上気していた頬に流れ落ち、冷気に冷えて頬から顎までを冷やしていった。
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――アイツ、桜が咲く時期まで頑張るって言ってたけど、ダメだったんだってさ。
春に行われる今までは参加した事の無かった大学の同窓会に参加した男の耳にそんな言葉がざわめきに紛れて聞こえてきた。
ビールを口に運んでいた手が止まり、その話をしているグループへと男は目を向ける。
――元気になったら会いたい人がいる、ってそれが最期の言葉になったってアイツのお母さんにこの前聞いて、堪んないよな。
男は耳をそばだててそんな会話を盗み聞きする。
男の頭の中は、まさか、と言う言葉が氾濫し、ポケットに忍ばせていたあの小瓶を取り出した。
それはあの時あの人に渡された小瓶で、中身は桜の香水だった。
その小瓶の蓋を男が開けると、ふんわりと桜の香りが辺りに漂う。
――あ……、今なんか漂ってきた匂い、アイツが好きだった匂いだ。はは……、アイツも、ここに来てんのかな。
男の耳にグループの中の一人のそんな言葉が聞こえ、その後半は涙声になっていた。
その涙声を聞き、男は小瓶に蓋をし少し眺めた後、席を立つとその涙声の男の前にその小瓶を黙って置き、その場を後にした。
外には桜がまっていた。
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