月がきれいですね

 中秋の名月の夜、タクシーに乗り込んできたのは、若くて精悍な顔立ちの漁業関係者の男性だった。彼は20代後半か30代前半だろうか。腕には日焼けの跡があり、潮風に晒されたような肌が特徴的だ。まだ仕事の匂いが残っているようで、彼は少し疲れた様子だが、目はどこか希望に満ちていた。



 乗り込むなり、彼は「今日は満月だから、きっと満潮だろう」とつぶやいた。私はバックミラー越しに彼の顔を確認し、どこかで聞いたことがあるセリフだなと思いながら、目的地を聞いた。



「海辺の家までお願いします」と彼が告げたので、私はすぐに車を発進させた。道中、しばらく沈黙が続いたが、彼は再び思い出したように話し出した。



「満潮の時に海辺に行くと、潮が近くまで寄ってきて、なんだか特別な感じがするんです。だから今日は絶好の日だと思って、海辺の家に行こうと思ったんです」



 私はその言葉に少し違和感を覚えた。確かに中秋の名月は美しい月夜だが、必ずしも満月とは限らない。そして、満月でなくても潮の満ち引きに直接的な関係があるわけではない。彼が若い漁業関係者であれば、少なくとも潮の満ち引きについてはよく知っているはずだが、彼の話には少しの誤解が混じっているようだった。



「今日は満月じゃなかったと思いますが……」と私は軽く指摘した。



 その言葉に、彼は驚いたように顔を上げた。「え? でも、中秋の名月って満月なんじゃないんですか?」



「そう思う方も多いですよね」と私は答えた。



「でも、中秋の名月の日は、必ずしも満月とは限らないんですよ。暦と月の満ち欠けの関係で、名月の日が満月に近いことはあっても、実際には満月じゃないこともあるんです」



 彼はしばらく考え込むように沈黙した。「そうだったんですか……それじゃあ、満潮も違うのかもしれないな」



 その一言に私は気づいた。彼は満月と満潮が完全に連動していると思っていたのだ。そこで、さらに詳しく説明することにした。



「確かに、満月や新月の時に潮が大きく満ち引きしますが、満潮そのものは月の満ち欠けだけに影響されるわけじゃありません。天体の位置や季節、風の向きや強さなんかも影響するんです。今日は、たぶん満潮の時間帯とはズレてるかもしれませんね」



 彼は軽く眉をひそめながら、「ああ、そうか。潮のことは漁の準備で気にしてたはずなのに、今日はなんだかそれが頭から抜けてました」と少し恥ずかしそうに笑った。



「漁に出る時は潮のタイミングが大事ですからね」と私は微笑んだ。



「ただ、名月の日だからと言って、必ず満潮とは限らないんです。天気や風も影響しますし、今夜はその条件が揃っていないかもしれません」



 「なるほど、そういうことだったんですね。今日はのんびりと月を眺める日にしようかな」と彼は笑みを浮かべた。



「それもいい選択ですね」と私は返した。



 助手席で流れる静かなラジオの音が、夜の車内に優しく響いていた。タクシーはゆっくりと海辺の道へ進み、月の光が柔らかく照らす中、次の目的地へと向かって走り続けていた。

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