小さく可愛らしい画家
それは、穏やかに晴れ渡った土曜日のことだった。雲ひとつない青空の下、私はいつものように駅前のタクシー乗り場で客待ちをしていた。太陽が燦々と照りつける中、時折、風が心地よく体を撫でる。今日も特に変わり映えのしない一日が始まるかと思っていたが、ふと一人の女性が子供を連れてこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
彼女は30代半ばといったところだろうか。少し疲れた表情で、どこか焦った様子が見て取れる。子供の手を引きながらも、焦りを感じさせる足取りで、その一歩一歩に緊張感が漂っていた。
「どちらまででしょうか?」私はいつもの調子で尋ねた。
「大木病院まで。あの、場所分かりますよね?」と、少し不安げに女性が返事をする。
乗り込むや否や、彼女は心配そうに前かがみになり、私を見つめている。彼女の言葉には、これまでの経験から何かしらの不安を感じさせるものがあった。多分、過去にタクシーで何か不便を感じたことがあるのだろう。そんな気配を察知しながら、私は安心させるような落ち着いた声で応えた。
「もちろんです、ご安心ください。大木病院までは慣れていますよ」
私の返答を聞いた瞬間、彼女はほっとしたように表情が和らぎ、背もたれにゆっくりと体を預けた。だが、まだその顔にはどこか緊張感が残っていた。私は慎重に車を発進させながら、バックミラー越しに彼女とその子供の様子を確認した。
「前に、病院を知らない運転手さんに当たってしまって……その時は大変でした」と彼女がため息混じりに呟く。
私はそれに頷きつつも、かつて自分が新人だった頃を思い出していた。道を覚えるのに苦労したあの頃。地図を見ながら焦り、乗客に迷惑をかけないように必死だった日々。それでも、経験を積むことで自信をつけ、今では地元の道をほぼ完全に把握できるようになった。だが、彼女のような乗客に不安を与えてしまう新人運転手の気持ちもよく分かる。
「こら、
後部座席に目をやると、小さな男の子がシートベルトを引っ張っては放し、遊んでいる。まだ幼い彼は、無邪気で元気いっぱいだ。その姿に、微笑ましい気持ちになりながらも、母親がどうにかして彼を落ち着かせようとしている様子に少し苦労しているのが見て取れた。最終的には無理やりシートベルトを締められ、彼は頬を膨らませ、反抗心を隠すことなく不満げにじっとしている。
車内が再び静まり返り、ラジオから流れるクラシック音楽だけが背景音となっていた。そんな中、不意に男の子の声が響いた。
「おじさん、僕ね、画家なんだよ!」
不意打ちを食らった私は、一瞬驚きながらも微笑みを浮かべ、興味深げに答えた。
「画家さんか、それはすごいね。絵を描くのが好きなのかい?」
「うん! 学校の写生大会で一位を取ったんだ!」
その言葉に、自然と感心の声が漏れた。
「それはすごいなぁ! 一位だなんて、頑張ったんだね」
後部座席に座る母親は、少し疲れたような表情で笑みを浮かべた。
「この子、どこへ行ってもその話ばかりするんです。自慢ばかりで、聞き飽きちゃいました」
母親はそう言いながらも、その目にはほんの少し誇らしげな光が宿っていた。息子が自分の才能を誇りに思っている姿を見ると、やはり親としての喜びを感じるのだろう。私は軽く笑ってから、冗談交じりに返した。
「でも、誇れることがあるってのは、素晴らしいことですよ」
「ええ、そうですね。だけど、最近は自分の絵にサインまで入れるようになってしまって」
「サインを? プロの画家みたいですね」
「ただ、サインが少し変わっていて、『!』とアルファベットの『О』を組み合わせたものなんです」
母親の話に、私は少し驚きつつも興味をそそられた。サインというと、名前の一部を使うことが多いだろうが、感嘆符を使うとはなかなかユニークだ。子供の想像力は無限だなと感心しつつ、そのサインの意味が何なのか考え始めた。
信号待ちの間、私は考えを巡らせた。「感嘆符」という言葉が頭に引っかかる。ふと、思いついた。
「失礼ですが、もしかしてお名前は『アマダ』ではありませんか?」
母親は驚いた表情を浮かべた。
「ええ、そうですが、どうして分かったんですか?」
私はにっこりと微笑みながら、説明を始めた。
「実は、『!』は感嘆符と呼ばれますが、『雨だれ』という読み方もあります。そして、息子さんのサインは『アマダレオ』という形になっているんじゃないかと思いまして」
その説明に、男の子は目を丸くして驚き、母親も驚きながら納得の表情を浮かべた。
「すごい……。まるで探偵みたいですね」
母親の言葉に少し照れくさくなりつつも、私は軽く笑って答えた。
「ありがとうございます。でも、探偵事務所を開くつもりはまだないですよ」
少年は笑いながら、「おじさん、名探偵になっちゃうかもね!」と冗談交じりに母親に言った。
車内は自然な笑いに包まれ、そのまま和やかな雰囲気で大木病院に到着した。母親はお礼を言いながら降りて行き、私はその背中を見送りながらふと考えた。今日も一つ、小さな謎を解決できた。こんな日々が続くなら、探偵の仕事も悪くないかもしれないな、と。
次の客はどんな話を持ってきてくれるのだろう。私は車を発進させながら、次の出会いを少し楽しみにしていた。
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