三章 交際開始
前納理緒との交際が始まり、悠司の生活は変化の兆しを見せた。
仕事が終わると、会社の人間と極力遭遇しない場所で待ち合わせを行い、それからデートに出掛けるようになった。
休日には、朝から二人で遠出も行った。都内や横浜にある定番のデートスポットに赴いた。
理緒の住む場所は、南横浜であったため、悠司の居住区と比較的近く、待ち合わせも不自由がなかった。
理緒とのデートは楽しかった。相手はとても成熟した精神を持っているため、女性とデートなどしたことがない悠司を、ちゃんとエスコートしてくれた。
何より、こんな美人を横にして歩いていることが、とても誇らしかった。男とすれ違うと、時折、彼らは理緒の顔に目を奪われた様子を見せた。それが悠司に大きな喜びを与えた。雄として勝った気分になるのだ。
お陰で、私生活に張りが生まれ、充実した毎日が訪れた。作成途中の漫画原稿は順調に進み、新人賞へと応募する原稿も、アダルト漫画の原稿も完成寸前まで進めることができていた。
美人の恋人ができるだけで、こうも物事が好調に進むとは思いもよらなかった。
悠司は思う。安定した職業があり、順調に夢も追っている。そして綺麗な女性と付き合っている。この今の環境こそが、ようやく訪れた幸せかもしれないと。
ただ、相変わらず、ちょっとしたことで赤面し、動揺する性質は変わらなかった。理緒はやはりそれに対し、何ら反応を示さなかったが、悠司としては克服したい課題である。
これから先、彼女と初体験を済ませることができれば、この症状もなくなるだろう。
昨夜ネットで調べたが、社会人カップルが交際を始めて初キスに至るまでの平均が、デート三回、初セックスは五回らしい。
キスとセックスは同時に行われることも少なくないので、初セックスの方はもっと早い数値になるかもしれなかった。
理緒とのデート回数を考えれば、そろそろだろうと思う。まだ手を繋いだり、キスをする素振りすらないが、向こうもいい大人なのだ。意識はしているはず。あと少しすれば、理緒の方から誘ってくるかもしれない。それがなかったら、勇気を出して自分から誘ってみよう。
悠司は、早くそのときが訪れるのを楽しみにしていた。
仕事が終わり、悠司は部屋へと帰ってきた。今日は理緒の仕事が立て込んでいたため、デートはなしだった。
少し寂しいが、仕方がないと思う。
夕食を済ませ、アーロンチェアに腰掛けたときだった。理緒からSNSのメッセージが届いた。
『今日はデートできなくてごめんなさい』
理緒は気にしているようだ。悠司は返信する。
『気にしないで。忙しかったんだから、仕方がないよ』
すぐに既読が付き、返信がくる。
『お詫びに今度の休日、料理を作りにいってあげるね』
手料理! 悠司は喜びに包まれた。女性からの手料理は男の憧れの一つだろう。二人の仲は、順調に進展しているではないか。
そして、これはチャンスだと思う。社会人の彼女が彼氏の部屋を訪ねてくるということは、その先の顛末は一つだ。理緒もそのつもりなのかもしれない。
料理を食べ終えた後の展開を夢想し、悠司はだらしなく鼻の下を伸ばしてしまう。
『ありがとう。楽しみだよ』
『私も悠司の部屋にお邪魔するの楽しみにしているね』
両者共、付き合って間もないので、まだお互いの部屋には入ったことはなかった。玄関口までがせいぜいである。
その後、理緒と休日の計画を立て、メッセージのやり取り終えた。
スマートフォンをモニターの横に置き、悠司はパソコンと向き合う。ウィンドウズを立ち上げ、クリップスタジオを起動させた。
その直後だ。洵子編集者から、スマートフォンのほうに着信があった。
悠司はすぐに電話を取る。
「もしもし」
「悠ちゃんこんばんわ。今、仕事終わり?」
洵子の静かな声が聞こえた。
「ええ。さっき帰ってきたところです」
「ならよかった。原稿のほう、どうかしら?」
「もう完成寸前です」
悠司は、クリップスタジオのキャンバスに表示されている原稿をスクロールさせながら、そう言った。
「仕上げもほとんど終わって、すぐにでも入稿できそうですよ」
「ありがとう。それなら次の休日にでも取りに行くわ」
悠司の脳裏に、理緒の姿がよぎった。
「あー、えっとですね、今度の休日は用事があって……」
「そう? ならいつが大丈夫?」
「期限までに、折を見て自分が編集部まで届けに行きますよ」
「わかったわ。そのときは連絡お願いね」
「わかりました」
洵子は話題を変えた。
「新人賞の原稿は進んでる?」
悠司は、目の前の原稿を切り替えた。
「そっちも完成間際です」
「自信はどれくらい?」
「今回は相当ありますね、自信作です」
血塗れになりながら、大剣を振るい、敵組織の幹部と戦う少年主人公の絵を眺め、悠司はそう答えた。
「今回こそ、デビューできるといいわね」
「はい。本当にそれが望みです」
理緒との交際のお陰で、様々なことに自信が付いている現在、成就できる気持ちが強かった。まるで記憶を遡るかのように、デビューした自分の姿が目の前に広がっているのだ。
話が一通り終わり、別の話題に移る。そのときだ。洵子は唐突に質問を行った。
「ところで悠ちゃん、もしかして彼女でもできた?」
悠司はどきりとする。的確な指摘だ。どうしてわかったのだろう。
しかし、まだ理緒のことは伝えるつもりはないので、とぼけようと思う。
「え? 別にそんなことは……」
「そう。何だか悠ちゃんの声の調子が明るかったから、彼女でもできたのかなって思って。次の休みもデートだったりして」
それも図星である。
「もう、勘弁してください」
電話のやり取りだけで、彼女はこちらの事情を察知したようだ。相も変わらず、洵子の勘の鋭さには舌を巻く。超能力でも持っているのだろうか。
洵子は何かを悟ったように、ふっと笑った。
「私の勘違いみたいね。ごめんなさい」
そして再度、原稿受け渡しの確認を行い、電話を切った。
洵子との電話を終えるとすぐに、悠司は入稿のための作業に取り掛かる。
不備がないかアダルト漫画の原稿を入念にチェックした後、PSDファイルに変換し保存する。PSDファイルはフォトショップの拡張子であり、フォトショップでも編集できるため、入稿の際にはよく取られる保存方法だ。
それをUSBメモリへコピーした。
これでこのままUSBメモリを編集部へ持っていけば、入稿完了である。
一つの仕事が終わり、ほっと息をつく。モニターの傍らに置いてあったマグカップを手に取り、コーヒーを飲んだ。
頭の中で、再び理緒の凛々しい容姿が思い出される。それからモデル体型の下に隠された裸体も、幻想のように目の前へ浮かび上がった。
もうじき、あの美人の体を抱き締められる瞬間がやってくるのだ。期待と高揚感が、全身を電流のように走った。
悠司はマグカップを置き、長机の右側に備えてあるモニターへ向き直った。こちらのモニターは、家庭向けのパソコンのように、検索や動画視聴に使用しているものだ。
モニターの前にあるキーボードを操作し、検索サイトのバーに言葉を入力する。
――初めて彼女が部屋に訪れる際、注意する点。
いくつかヒットした項目に目を通すと、おおよそは通常の来客と変わらない対応で良いと書いてあった。ただし、友人とは違い、エロ本や、AVの類は隠しておいた方が良いとのこと。
悠司は現在いる洋室の中を見回した。男の一人暮らしにしては、片付いている方だと思う。しかし、初めての彼女がくるのだ。入念に掃除と整理整頓はするべきだった。
理緒がやってくる今度の休日までに、準備を整えようと思った。
「お邪魔します」
理緒の透き通った声が、悠司の部屋に響き渡る。
週末になり、休みを迎えた。予定通り、理緒は悠司の部屋へと訪れた。
理緒とは、悠司のアパート最寄の根岸駅で待ち合わせを行った。
駅で理緒の姿を目にしたとき、思わず目を奪われた。理緒はボルドーの七分袖トップスに黒スカートのガーリーな服装だった。普段よりも大人っぽいファッションが、とてもよく似合っていた。
悠司は赤面しつつも、理緒の服装を褒める。理緒は嬉しそうに微笑んだ。薔薇のような凛々しい笑顔。
悠司の脳裏に、この服を脱がし、理緒の裸体を抱き締めている自分の姿が思い描かれた。つい、顔がにやけそうになる。
待ち合わせを終え、二人は近くのスーパーに寄った。そこで食材を購入する。メニューは、肉じゃがと魚料理らしい。
理緒は大きめのトートバッグを持ってきていた。最初見たとき、悠司はてっきり、そこに予め買った食材を入れてきていると思っていたが、どうやら違うようだ。それならバッグに入っているのは、調理道具の類なのかもしれない。
スーパーを出た二人は一直線に悠司のアパートへ向かい、共に部屋へ入ったのだ。
「お邪魔します」
理緒の透き通った声が、部屋へ響く。
「どうぞ。散らかっているけど、上がって」
悠司は、理緒を玄関からエスコートする。理緒はパンプスを脱ぎ、フローリングへ上がった。
食材をキッチンの天板へ置き、まずは洋室へと理緒を通した。
「とても綺麗にしているのね」
洋室の光景を目にした理緒は、感嘆の声を上げた。
「そう? ありがとう。理緒にそう言ってもらえると嬉しいよ」
悠司は鼻の頭を掻きながら答える。
今日、この日のために、連日掃除を行ったのだ。お陰で部屋の中は、モデルルームのように片付いている。
近い内に――もしかすると今日――この部屋で自分は童貞を捨てるかもしれないのだ。清めるのは当然であろう。
脱童貞に向けて、悠司は様々な準備を整えていた。わざわざ日高屋まで赴き、シャンプーやボディソープも高い物を揃えた。相手が女性でも使えるやつ。それからコンドームも用意している。おまけに、初体験の際の注意点もネットで覚えた。ベッドシーツも布団もクリーニングに出したばかり。
これでいつでも初体験を迎えることができる。
自身が脱童貞を迎えた瞬間を想像するだけで、胸が高鳴り、体が浮ついてしまう。早くそのときがこないかなと思う。
悠司が初体験に胸を膨らませたとき、理緒は何かに気がついたような声を上げた。
「あれってパソコンのモニター?」
理緒は、部屋の隅の長机を指差した。
我に返った悠司は、答える。
「そうだよ」
「二つあるんだね」
「うん。一つが漫画作成用で、もう一つが検索用かな」
漫画作成と聞き、理緒は驚いた顔をみせた。
「悠司、漫画描いてるんだ」
「まあね。まだデビューもしてないけど」
少年漫画のほうは、だが。
「原稿用紙はどこにあるの?」
「紙の原稿はないよ。モニターの手前にある液晶タブレットで描いている。あれなら原稿用紙と同じように描けるから」
「そうなんだ。後で読ませてね」
「もちろん」
思えば、初めて出版関係者以外に、漫画を描いていることを伝えた気がする。ちょっとだけ恥ずかしかった。
会話が途切れ、一瞬だけ部屋に静寂が訪れる。
部屋見せも終わったため、そろそろ理緒が料理に移るタイミングだろう。そちらも楽しみだった。お腹は空いているし、女性の手料理も憧れの一つだった。
沈黙の中、理緒は肩に提げていたトートバッグを床に下ろした。それから、部屋を見回し始める。
悠司は、待ち合わせをしたときから気になっていたことを質問した。
「そのバッグには何が入っているの?」
理緒は端整な顔をこちらに向け、バッグを開いてみせる。
バッグの中は空だった。
「何も入ってないよ」
悠司は訝しむ。
「ならそのバッグは何のために持ってきたの?」
「もしも、あなたの部屋に変な物があったら、それを回収するためよ」
理緒はまるで当たり前のことのように、平然と答える。
「変な物? 回収?」
悠司は眉根を寄せた。理緒は何を言っているのか。
理緒は頷いた。そして、急に話題を切り替える。
「ねえ、私がどうしてあなたを好きになったかわかる?」
悠司は困惑した。確かに気になっていたことだが、今、それが何の関係があるのだろう。
「何の話?」
こちらの反応をよそに、理緒は語り始めた。
「あなたと初めて話したとき、あなたはまるで思春期の男の子みたいに赤くなったわ」
悠司ははっとする。やはり、こちらの赤面に彼女は気がついていたようだ。
今更ながら、羞恥心が込み上げ、赤くなる。
理緒はそのような悠司の様子を見て、嬉しそうに目を細めた。それから続ける。
「私は赤くなったあなたを見て、心の底から素敵だと思ったわ。こんな素敵な人、他にいないって。すぐにあなたを好きになって、告白することに決めたの」
悠司は耳を疑う。自分のコンプレックスであるこの症状を見て、好きになる女性がいるとは。
しかし、だからといって、先ほどの理緒の言葉と、その件がどう関係するのだろう。
理緒は、悠司の表情を見て、疑問を感じ取ったようだ。
理緒は説明を行う。
「私にははっきりとわかったわ。他の性欲剥き出しの男共とは違って、あなたが子供のようにとても純粋で、綺麗な心の持ち主なんだって」
「……」
「これまでずっと、性欲とは無縁で過ごしてきたんだろうなって、その時思ったわ」
褒められているのだろうか。多分、そうだろう。しかし、それには誤解がある。悠司の『症状』を見て、純粋だと思うのは間違いだ。ましてや、性欲がないなどあり得ない。
しかし、理緒は本気でそう信じている模様だ。
訂正しようかどうか迷っていると、理緒は誇らしげに言った。
「今日、これからやることも、それを確かめるためよ。もちろん信用しているけど、男の人だからね。万一ということもあるわ」
一拍置き、理緒は言った。
「だからね、いかがわしい雑誌や、変なDVDがないか部屋を調べさせて」
悠司は返事に窮する。予想もしない展開に、大きく戸惑っていた。
理緒と初体験を迎えている光景が、ガラスのように砕け散った気がした。
「いいよね?」
理緒の有無を言わせない物言いに、悠司は思わず頷いていた。
その後の理緒の行動は、まさに家捜し同然だった。本棚、タンス、クローゼットや机の引き出しに至るまで、徹底的に目を通し、部屋の隅々まで調べ上げていく。
悠司は、部屋の隅に立ち、唖然とその様子を見守っていた。
悠司は疑問を覚える。新しくできた彼女は皆、彼氏の部屋を初めて訪れた際、警察のように調べ上げるものなのか。そんなこと、ネットや本に書いていなかった。
これは、普通ではないのかもしれない。
時間をかけ、部屋を調べ終えた理緒は、満足そうに笑みを浮かべた。
「やっぱり、あなたは私が思った通りの男性ね。変な本とかDVDはないみたい」
悠司は無言のままだった。
当然のことである。理緒が部屋に訪れることになってから、アダルト関係の物品は全て駅のコインロッカーに預けたのだ。それが功を奏したらしい。
これで満足したと思いきや、理緒はこちらの手元に目を走らせた。
「次はスマートフォンね。私にデータを見せて」
理緒はこちらに手を差し出した。
さすがに悠司は拒否をする。
「ち、ちょっと待ってよ。さすがにやり過ぎじゃないか?」
理緒は不思議そうな顔をした。
「どうして?」
「どうしてって、そこまで調べる必要ないだろ?」
理緒の整えられた眉が寄る。
「さっきも言ったでしょ? あなたに性欲があるかどうか私には調べる必要があるの」
「そこまで大事なことなの?」
理緒は、当然といわんばかりに頷いた。
「そうよ。当たり前じゃない。付き合う彼氏が、性欲なんて汚い欲望を抱えているのは嫌なのよ。あなたは、これまで女性と交際したことがないから女心がわからないのね」
理緒は、ぐいっと手をこちらに突き出す。
「さあ、渡しなさい」
悠司は理緒の気迫に負け、スマートフォンを手渡した。
幸いというべきか、悠司は自身のスマートフォンには、アダルト系の画像や動画は保存していなかった。そのため、理緒に『汚い欲望』が発覚する恐れはないはずだ。
スマートフォンのチェックが終わると、次に理緒はパソコンの調査を催促してくる。悠司は仕方なく、パソコンを立ち上げ、中身を見せた。
パソコンのフォルダには、アダルト関係のデータがある。しかし、それは隠しフォルダとして保存しているため、第三者が発見することは難しかった。
理緒の動作を見る限り、パソコンにはさほど詳しくなさそうなので、探し当てるのは無理だろうと確信した。とはいえ、念のため、後でアダルト系のデータは消去したほうがいいかもしれない。
案の定、理緒は何も発見することができないまま、パソコンから手を離した。顔を見ると、とても満足そうな笑みを浮かべている。彼女は、ますます悠司が性欲とは無縁の存在だと確証を得たようだ。
「悠司は完璧ね。私の見立て通り、エッチなことに興味のない男の人みたい。好きになって良かったわ」
理緒は、憑き物が落ちたかのように、さっぱりした顔をしている。
悠司の頭がざわめき、モヤモヤしたものが胸中へと去来していた。だが、頭が正常に働いていないので、モヤモヤしたものの正体が何なのか、自分でもわからなかった。
悠司は訊く。
「もしも、その……エッチなものを発見したら、回収したり消したりするだけなの? 他にもなにか……例えば、別れを告げたりするつもりなの?」
悠司の質問に、理緒は首を振った。
「ううん。別れたりしないよ。かといって、回収や消去だけでは終わらせるつもりもないから。そのときは、ちゃんとエッチなことに興味が湧かないよう、教育するわ」
「教育?」
彼女はまた妙なことを口走る。
詩緒は嬉しそうに頷いた。
「ええ。教育。まあ、あなたには必要ないから、知らなくても問題ないわ」
そして、理緒はスカートをひるがえし、キッチンの方へ体を向けた。
「用も済んだし、これから料理を作るね」
そう言って、理緒はキッチンへと歩き出した。そこで、ふと何かを思い出したかのように、立ち止まる。
理緒は、こちらに顔を向けた。
「そうそう。忘れてたわ。悠司、漫画を描いているんでしょ? それも読ませて。健全かどうか確かめるわ」
悠司の心臓が波打った。自身が苦労して創作したアダルト漫画の数々が、脳裏に浮かび上がる。仕事の成果なので、パソコン内部にきっちり保存してあった。
理緒は言う。
「エッチな漫画を持っている男性は許せないけど、そんな漫画を描いている人はもっと許せないから。頭がおかしいとしか思えない人種だもの。もしもあなたがそんな人だったら、教育以上に、徹底的に『躾』直す必要が出てくるわ」
鬼気迫る表情をしていることから、理緒の言葉は本当のことだとわかった。
悠司は唾を飲み込み、答える。
「その……俺が描いている漫画はそんな漫画じゃないよ。少年向けの作品さ」
「そう。だったら見せられるよね?」
理緒は穏やかな物言いをするものの、言葉の裏には、刃物のような鋭い感情が込められていた。
悠司は怯み、自然とパソコンへと歩み寄る。
電源が点いたままのパソコンを操作し、クリップスタジオを起動させた。そして保存してある漫画を呼び出す。
正面のモニターに表示されたのは、新人賞へと応募する少年漫画だった。
「これだよ」
悠司はモニターを顎でしゃくった。
理緒は、無言でアーロンチェアに腰掛け、漫画を読み始める。台風の目のように、ちょっとの間、静寂が部屋に訪れた。
悠司力作の漫画を読み終わった理緒は、口を開く。
「ありがとう。ちゃんと健全な内容みたいね。安心したわ」
理緒はあくまで、性的に健全かどうかのみに拘り、漫画の感想には言及しなかった。
悠司はそれに対し、少しショックを受ける。この作品を初めて人に見せたが、内容に触れないのであれば、面白くなかったということか。それとも、本当に、健全かどうかでしか理緒は判断しないつもりだろうか。
悠司の思惑をよそに、理緒は詰問するように言う。
「他には? この漫画以外にも描いている作品あるんでしょ?」
悠司は首を振った。
「いや、今描いてるのはそれだけだよ」
「本当? 証拠見せて」
悠司は、クリップスタジオの保存領域を示すウィンドウを開き、フォルダを展開させる。そこにあるファイルは、確かに今理緒に見せた漫画の原稿だけであった。
「ほら。この漫画だけでしょ」
理緒は頷いた。
悠司はホッとする。ついこの間、アダルト漫画の原稿を完成させたので、別のフォルダに移していた。そのお陰で、見つからなくて済んだようだ。
しかし、理緒はなおも食い下がる。
「これまで描いたのは?」
悠司は、次に別のフォルダへ切り替え、開いてみせる。そこには四つのPSDファイルがあった。
これまで大手少年誌の新人賞へ応募し、落選した作品たち。落ちたとはいえ、子供のように大事な存在だ。消去することもなく、個別にフォルダを作って保存してあった。
「まだ少ししかないけどね」
悠司は、緊張を悟られないように注意しながら言う。
理緒は、その作品たちに目を通した。
しばらく時間が経過し、やがて全て読み終わった理緒は顔を上げた。
晴れ晴れしたように、表情は輝いている。
「合格だわ。悠司。あなたには本当に汚らわしいところがない。素敵な男性よ」
感嘆がこもった口調で言うと、理緒はアーロンチェアから立ち上がった。
「時間取らせてごめんなさい。お腹空いたでしょ? すぐにご飯作るわ」
理緒はご機嫌だった。どうやらこれで満足したようである。
悠司は素早く頷く。
「あ、ああ。そうだね。頼むよ」
そして、悠司は入れ替わるようにアーロンチェアへ腰掛ける。
理緒がキッチンへ向かうのを横目で確認したあと、悠司はパソコンの電源を落とすふりをして、キーボードを操作する。
現在開かれているフォルダの保存領域の下層には、これまで悠司が描いたアダルト漫画の原稿が保存されたフォルダが置かれてあった。
その気になれば、クリック一つでそこへ辿り着いてしまう。そして、そこにあるフォルダのタイトルを見ると、すぐにそれとわかるだろう。おまけにフォルダを開いて、PSD化した原稿の名前を読めば、なおさら一目瞭然だった。
僥倖にも、理緒はその場所に気づくことなく、悠司を信じる結果となった。だが、これをこのまま開いておくのはまずかった。いつ何の拍子に発覚するかわからないのだから。
悠司は、それまで開いていたフォルダを全て閉じ、ウィンドウも消す。それから、クリップスタジオそのものも落とした。
一連の操作を行いながら、悠司は考えた。
これまでの理緒の言動。紛れもなく、普通ではなかった。いくら恋愛経験のない悠司ですら、そのことははっきりと理解できた。
彼女は、悠司のことを好きになった理由を純粋で初心なため、と語った。それ自体は嬉しかったが、実際は誤解である。それを訂正できないまま、理緒は家捜しを行い、ますます自分の着眼点が正しいのだと確信を得るに至った。
もしも、アダルト漫画を描いていることを彼女が知ったら、自分はどうなるのだろう。
理緒は言っていた。アダルト系のコンテンツを持っていたら、別れるのではなく、『教育』すると。それは一体どんなものか。おまけに、創作している側であった場合、さらなる『躾』が待っているという。
モヤモヤしたものが再び、悠司の胸中を覆い始めた。
その後、理緒は料理を作り終え、悠司と共に食卓を囲んだ。
メニューは宣言通り、肉じゃがとカレイの煮付けだった。後はオクラの入ったみそ汁。
食事の最中、理緒は、ずっと『性』について否定的な言葉を『楽しそうに』語っていた。どうして世の中にはアダルト関係のコンテンツが溢れているのか。今はアニメに至るまで、性的消費のデザインのものばかりが量産され、子供に悪影響ではないのか。ネットもサイトを開けば、そのような下品な広告ばかりで、世の中狂っているのではないか――。
特に、南原のような軽い男について、恨みでもあるかのごとく、罵っていた。
悠司は料理を口に運びながら、それを黙って聞いていた。理緒は、その悠司の反応について、純情で綺麗な心を持つため、同意のつもりで黙っていると思い込んでいるらしい。終始、にこやかに語りかけていた。
お陰で、せっかく生まれて初めての恋人からの手料理なのに、全く味を感じなかった。まるで、味覚障害にでも陥ったかのようだった。
悠司は悲しみに包まれる。今日の日を楽しみにしていたのに、この結果では浮かばれない。
彼女とのセックスを期待し、童貞を卒業できるという希望は、逆方向へと突き進み、脆くも灰燼と化した。そればかりか、爆弾すら抱え込んだ気分である。
食事が終わる頃には、悠司は自身の中に生じていた黒い靄の正体を探り当てていた。
それは後悔である。理緒の告白を了承したことへの、強い後悔――。
嬉々として『性』を否定する理緒の綺麗な顔を眺めながら、悠司は己の迂闊さを嘆いていた。
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