髪絹
土蔵の中の社で、幼様は床に押さえ付けられていた。
何が起こっているのか分からない恐怖で青褪めていてる幼様の細い首筋に、下男の一人が合口の刃先を当てている。
「何してんだお前ぇらっ」
イトは下男達を押し退け、合口を持つ太い腕に飛び付いた。
「危ねえ!」
下男が腕を振るとイトは簡単に弾かれた。それでもまた飛び付いて、今度は力の限り噛み付いた。下男は顔を真っ赤にして反対の手でイトの頬を張った。床板にひっくり返ったイトの耳に、幼様の悲鳴が届く。
「邪魔すんな。お嬢様の絹に血が付いたらどうすんだ!」
「幼様の御髪で打ち掛けを作る気だな。絹は充分に足りてるだろっ。御髪を奪ったら繭を作れねえ。幼様が
「この馬鹿が」
年嵩の下男が呆れて言い、他の下男達は失笑した。
「いつ栄繭が始まるか、どのくらいで羽化するかも分からねえ。お嬢様はこの秋に嫁入りするんだ。待ってられるかってんだ」
「だからって御髪を奪う理由になるか。村には絹が山程あるだろうがっ」
「その中でも、いっとう上等なのが天の蚕の髪絹だ」
年嵩の下男が幼様を見る。
「村長はお嬢様に立派な白無垢を用意してやりてえんだ。天の蚕の髪絹は糸だけでも一財産だ。嫁ぎ先の大店は俺らを田舎モンだと舐めてやがるからな。お嬢様をちっとでも蔑ろにしたらどうなるか……。二つと無え打ち掛けを見せ付けて教えてやるんだよ」
「嘘を吐くな! 村長様はずっと番を捜させていたじゃねえか。またハナが我儘を言ったんだ。お前らがちゃんと捜せば、今頃は番が見付かってたはずだ。番が見付かってれば、村長様も馬鹿の我儘に惑わされたりしなかった!」
「いい加減にしねえか!」
年嵩の下男の一喝に、その場の皆がびくりとした。
「いつまでも餓鬼みてえな事を言ってんなっ。番なんざ見付かるわけがねえ。都合良く何度もお蚕様が落ちて来るかってんだ。いいかイト。村長が番を捜していたのはなぁ、天の蚕達がただの蚕になって久しいからだよ。そりゃ、ウチの蚕は天下一品の絹糸を出す。それでも最初の蚕達には及ばねえ。村長は自分の代でもう一度、天の蚕の卵を手に入れたかったんだよ。だから番を捜してたんだ。コイツを天に帰す為じゃねえ」
だが、幼様の髪が白くなり、考えが変わった。
世に二つと無い絹で愛娘の白無垢を仕立てたい。
卵を産めずに死ぬと分かっている蚕の為に、また十年以上も待つなど愚かだ。それなら、可愛い一人娘の花嫁衣裳に使ってやろう。幼様には可哀想だが、今、糸を集めておかないと大事なハナの嫁入りに間に合わないのだ。
可愛いハナの晴れ着になるのだ。幼様も嬉しいに決まっている。
「あの人は善人の皮を被った悪人だ。本性を隠すのが巧いのさ」
年嵩の男はイトの前にしゃがんで、言った。
「お前の父ちゃんを殺したのは村長だ。ちっちゃくて可愛い盛りのお嬢様に金を注ぎ過ぎて、先代から帳面の管理を禁じられて金に不足してたんだ。お前の父ちゃんは村で一番稼ぎが良かったからな。賊に盗まれた事にしときゃあ、先代にバレずに大金を懐に収められる。だから、帰りを待ち伏せたんだよ」
イトの父親は、売り上げを誤魔化して金子を融通してくれ、と頭を下げた村長の頼みを断って殺されたのだ。
『友達なのに助けてくれないなんて酷いじゃないか。ちょっと話を合わせてくれるだけなのに』
その友達を刺して金子を奪い、若旦那だった村長は友達を失った自分の為に泣く。
『ハナのためだ。仕方なかった。与吉はきっと分かってくれる。だって与吉は優しい男だもの』と、悪びれずに。
「頭がおかしいったらねえ」
イトは年嵩の下男の話に唖然とした。
信じられずに半笑いを浮かべていた下男等も、年嵩の下男の真剣な目にかち合って笑いを引っ込めた。
*
「……私の髪ならあげるわ」
しんとした土蔵の中に鈴音が響いた。
「私の髪が最期に村の役に立てるのなら、どうぞ持っていって」
幼様は絹の座布団に座り直し、背筋を伸ばす。
慌てて駆け寄ろうとしたイトは、下男達に阻まれてしまった。
「良いのよ、イト。本当は分かっていたの。きっと誰も迎えに来ないって。母様が天から落ちて二百年も経つのよ。きっと神様は蚕蛾が一匹居なくなった事にも気付いていないのだわ。だから、もう良いの」
幼様の言葉に、年嵩の男は合口を受け取った。
鋭い刃が白磁の肌に充てられ、美しい髪絹を次々と剃り落として行く。間も無く一町以上もある長い長い髪絹は全て落とされ、一纏めにされて土蔵の外に運ばれた。
身を解かれたイトは、すっかり髪を失った幼様に抱き付いた。
幼様は優しくイトを抱き返し、黒髪に頬を寄せる。
そして、若い下男達に続いて土蔵を出て行こうとした年嵩の男を呼び止めて言った。
「暖具を全て下げて」
イトは驚いた。
下男もまた、怪訝な表情で幼様を見返す。
「蚕が寒さに弱いのは俺でも知ってらあ」
幼様はくすくすと笑った。
「今さら生きる必要が? 繭を作る為の髪も無いのに?」
年嵩の下男は鼻白んで口を曲げた。
「食餌も要らない。私の最期は、イトに看取ってもらうの」
そう言って、幼様はもう一度イトを抱き締めた。
どうにも出来なかったイトの涙が、幼様の守り布に落ちて滲んで行った。
*
火鉢を全て運び出した土蔵は、陽が傾くに連れて少しずつ冷えて行く。
幼様は静かにイトに身を寄せていたが、土蔵の中が完全な暗闇に覆われた頃、小さな声でポツリと言った。
「
一度も会った事のない母の、それでも人の世で生きて行けるように守り布を残してくれた母の墓に行きたい、と。
戸惑ったイトだったが、寒さに震える赤檮の唇で再び請われて、意を決した。
歩く力の無い幼様を背負い、毟り取った帷幕で小さな身を包み込んだ。少しでも寒さ避けになれば良い。
それから土蔵周りに誰も居ない事を確かめて、イトと幼様は外に飛び出した。
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