第2話
1
と、迷っている少女の横から源じいが手を延ばした。少女は、その手をさえぎるようにあわてて受話器をとりあげ、両手でそっと包み込むようにして耳にあてた。耳の奥で血液の流れる音が反響している。
おちつくのよっ。大きく深呼吸を一回すると、いつもの源じいの応対を思い出しながら最初の言葉をつむぎだした。
「はっは・はい・いっ。か・か・か・桂木ですっ。」
「すっ、すいませんっっ!ねすごしましたあっ。」
突然耳もとでおこった大音響。かろうじて受話器をおっことすことはまぬがれたが、目を大きく見開いたまま固まっている。めいっぱいのばした両手の先で受話器がしゃべり続けている。どうやら遅刻のいいわけらしいが、パニック状態になっている少女には、なにを言っているのかほとんど理解できなかった。
たっぷり3分間ほどしゃべりつづけたあと、黒塗りの受話器はこちらの異変に気づいたようで、急に静かになったあと、おそるおそるたずねてきた。
「あの・・・もしもし・・・海洋科学研究所じゃないですか。」
さらに沈黙の1分間がすぎた。
ようやく落ちつきをとりもどした少女は、助けをもとめるように執事と目をあわすと、もう一度勇気を振り絞り受話器を耳に当てた。
「わ・わ・わたし・かっ、桂木さんご・・ですっ・・・」
また1分がむだに過ぎた。電話の相手は今度こそ事態を飲み込んだらしい。
「すっ、すいません!まちがえましたあ!」
「まってくださあい!」
電話を切ろうとした相手の気配に、とっさにいままで出したことがないような大きな声がでてしまったことに、少女自身が一番驚いた。
「も・もっとお話ししてください。わた・わたしっ、人とお話・・したことないの。お願い・・・」目をぎゅっと閉じてやっとのことでこれだけしゃべると、再び沈黙がおとずれた。古い柱時計のコチコチという音だけが響いている。いやもうひとつ、自分の心臓の音がはっきりと聞こえる。こめかみがずきずきと痛い。
「もしもし・・今勤め先に電話しなくちゃいけないから。昼休みでよかったら、電話します。そちらの番号教えて・・。」
番号を伝えると、じゃ、また昼休みに、と結んで電話は切れた。ツーという発信音しか聞こえなくなってからも、さんごはしばらく受話器を握りしめたまま会話の余韻をかみしめていた。
生まれてはじめての電話での会話。それも源じい以外の人とのはじめての会話だ。
じゅうぶん余韻にひたったあと受話器をもどすと、さんごは胸の前で両手を組み、涙でうるんだ目を拭くことも忘れて源じいに話しかけた。
「わたしに電話がかかってくるの。わたしにかかってくるのっ。」
源じいが彼女のこんなにうれしそうな笑顔を見たのは何年ぶりだったろう。
「おなかすいちゃった、朝食・・・あ、あ・・ごめんなさい・・・・」
床の上に散らばった朝食の残骸。かたずけが終わるともう一度朝食がテーブルに並んだ。
2
開け放した窓から見える水平線に夕日が沈もうとしている。
夕食の用意されたテーブルについたさんごは、壁の大きな柱時計を見あげた。今日何回繰り返し見上げただろう。
結局あれから電話はかかってこなかった。
「もういらない。かたづけて・・・。」
冷めきってクルトンが底に沈んでしまったコンソメスープを一度かき回しただけで、さんごはスプーンを受け皿に戻した。
「しかし何も召し上がってらっしゃらないじゃ・・・」
今朝電話がかかってきてから昼までの間、さんごは電話器のそばを離れなかった。
期待に満ちた瞳でじっと電話をみつめていたその姿を思いだし、源じいはあとの言葉を飲み込んだ。今朝のように、朝食をぶちまけられるのも困りものだが、今みたいに沈みこまれるのはもっとつらい。
すっかりうなだれてしまったさんごを横目で見ながら、源じいはなぐさめるための言葉を一生懸命捜していた。
突然、がたんとテーブルがはねた。
電話のベルにびっくりして、さんごのひざがテーブルの裏をはねあげてしまったのだ。
さんごはなかば放心状態でゆっくりと電話の方へ向き直った。目が徐々に焦点をむすんでゆく。ふるえるまっしろな両手が受話器をもちあげ、右の耳にぎゅっとおしあてると、申し訳なさそうな言葉が流れてきた。
「もしもし、昼間はすいませんでした。急に船に乗ることになって。潜水艇で200メーターの海の底にいたんで。いまやっと陸地に着いたんです・・・。あの、ほんとにごめん。ひょっとしてずっと待ってたのかな・・・」
さんごは受話器を握った両手が、すこしづつあったかくなっていくのを感じた。
17年間待ったんだもの。半日ぐらいどうってことなかった。
そう強がりを言おうとしたが、ほんとはいままでで一番長い一日だったのだ。うれし涙がこぼれてしまい、言葉をだすことができなくなった。
源じいは、向こうが話すことにあいずちをうつのがせいいっぱい、という感じのさんごを複雑な気持ちでながめながら、せっかく用意した、食べる者のいない夕食をかたづけはじめた。
さんごはほんとにうれしそうだ。しかし、あまり外の世界に興味をもってほしくないとも思う。彼女はこの家をはなれて生きてゆくことができないから。外を知りすぎるとつらい思いをすることになるから。
「はい、はい、ほんと?場所はね、小学校の横の・・・はい、じゃ、おやすみなさい・・・。」
なごりおしそうに、ほんとになごりおしそうに、さんごは受話器をおいた。
「源じい!あした、くるって。日曜日だから遊びにきてくれるって。」
あちゃー。事態は源じいが望まない方向へ向かって展開していく。源じいの思いに全然きづかず、さんごは続けた。
「かたづけないでっ。夕食、たべるっ。ぜーんぶ食べるっ。」
ためいきをつきながら、源じいは冷めたスープを暖めなおすため台所へむかった。明日は大変な一日になりそうだ。いろんな意味で。
3
翌日は残暑のかけらが残る朝からはじまった。夜明けは肌寒いぐらいだったのに、日が昇るにつれどんどん気温が上昇してゆき、約束の10時には30度を越えてしまった。太陽が影をくっきりと映し出す。
そんなかげろうがたち昇る中、真島真(名字がましま、名前をしん、と読む)は、桂木邸の前に呆然とたたずんでいた。
「はああ。」それしか言葉がでてこない。
丘の上に、おおきな家が建っているのは知っていた。しかし、まさか自分が招待された所が、そのお屋敷だったとは。
明治時代に侯爵の屋敷として建てられ、年式相応に痛んでいるとはいえ、一面に蔦の這った壁や細かな彫刻のほどこされた柱からは、この屋敷が過ごしてきた年月の重みがしみだしていた。
真島は、アールデコ調の玄関ポーチをくぐり、かなりの重量がありそうなドアの、目の高さにあるノッカーをゆっくり2回鳴らした。
ホラー映画の効果音のようなギーッという音とともに玄関のドアが開くと、いかにも執事っ!という雰囲気の初老の男が立っていた。
「真島様ですね。お嬢様がおまちかねです。」
言葉はていねいだが、真島を見る目に好意は感じられなかった。
ま、きのうはじめて、しかも電話で知り合ったばかりの男がたずねてきたのだ。当然の反応だろう。
「どうぞ、こちらへ」
優雅な仕草で屋敷の奥のほうへ向きなおると、執事はゆっくり歩きだした。真島は、執事の背中をながめながら、自分がとんでもない相手に電話してしまったことを思い知らされていた。
薄暗いとはいえ、突き当たりがかすんで見える廊下。その両側にいくつも並んだ部屋のドア。ほんもののろうそくをつかった照明。
ついつい、この廊下だけで俺のアパートが何部屋入るだろう・・などとくだらないことを想像してしまう自分が情けなかった。
執事のあとについて、てすりに細かい彫刻がほどこされた、外国のミュージカル映画でしか観たことがないような螺旋状の階段を昇ると、ふたつめの部屋のドアが開いていた。
「お嬢様。真島様がおみえになりました。」
「は、はい。どうぞ、おはいりくださいっ。」
電話で聞いたよりはるかに澄んだ声。ドアの横に立っている執事にうながされ、一歩部屋へ入った真島は、一瞬自分が絵画を見ているような錯覚に陥った。細かく桟のはいった高い天井。そこから弧を描きながらなだらかに続く壁。もちろん天井の桟や回り縁には、気の遠くなるような時間をかけたであろう、細かい彫刻が施されている。壁には一面に刺繍をあしらった分厚いクロスが張り込まれ、床は当然のように毛足の長いじゅうたんが敷き詰められていた。
しかし真島にとってそれらは、今はただ、一枚の荘厳な絵の背景でしかなかった。
高さ3メーター近い窓を背にして座っている一人の美少女。窓からの逆光で淡く輪郭がぼやけた髪。それを太い一本のみつ編みにして肩ごしに前へ垂らしている。
「か・桂木・・さんごです。」
一瞬だけ目があったが、すぐに視線を両手でもてあそんでいるみつ編みの先端におとし、少女は自分の名前を告げた。
1センチはあろうかという、ながいまつげ。
ふたたび目があったとき、真島はさんごの鳶色のひとみに吸い込まれそうな錯覚をおこした。
「真島真です。あ・あの、本日はお日柄もよく・・・じゃない、招待くださりましてありがたく・・・」
頭を下げたまま、もう自分で何を言っているのかわからなくなっていた。
「あ・ありがたきしあわせで・・・・」
顔を上げると、さんごの目が笑っている。どうやら、今ので緊張が解けたようだ。
「時代劇みたい。ほら、きのうの水戸黄門にでてた人・・・。」
ほほえむと目尻にしわがよるのがかわいい。両目のあいだにそばかすがあるが欠点にはなっていない。いや、むしろ長所になっている。
「きれい。」
さんごに言われて真島は花束を持っていたことを思いだした。3本のバラにかすみ草をあしらっている。駅前の小さな花屋で花束を作ってもらっている間、待っている時間の長かったこと。
「いやー、これしかおもいつかなくて。今日はご招待ありがとう。」
花束を手渡すとさんごの笑顔がくしゃくしゃになった。
「うれしー。」
花束を胸に抱えるとさんごは感きわまったように固まってしまった。しまった、こんなに喜んでくれるんだったらもっと高い花にすりゃよかった。でも給料日まで10日もあるし、この2000円の花束買うのだって勇気がいったんだよお。でもこの子が花束持つと映えるよなー。今度くるときは4000円ぐらいの・・・・。
そこで妄想は中断された。さんごがじっと見ている。
しかし、また視線があったとたん目をふせた。
「ありがとうございます。むりいって来てもらって、お花までもらったのに。わたし、何のお礼もできない・・・。」
真島は、ちょっと沈み込んださんごに、あわててかける言葉を探した。
「あっ、あの、それじゃ、こんどデートしません?」
急に空気が張りつめた。ちらっと見ると執事の表情がこわばっている。外からの風で窓の両側にまとめてあったカーテンがゆったり揺れた。さんごの着ている薄いピンクのブラウスも風になびいている。
「私・・・歩けないから・・。」
うかつだった。軽い冗談のつもりだったのだ。真島がちゃんとさんごをみていたら彼女の座っているのが車椅子だと気づいたはずだ。腰から下をおおっているブランケットにも。
「申し訳ありません。私がお嬢様のお体のこと、お伝えするのを忘れておりました」
つづく
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