第2話

 幼い頃、千波は狭い田舎で育った。


 だだっ広い田んぼのせいで冬は風が強く、登下校は本当につらかった。容赦なく吹きつける風は体を貫くようで、家に着くころには手はかじかみ耳は奥の方まで痛くなった。


 他の地域でも見かける店と言えばガソリンスタンドとコンビニくらい。スーパーマーケットなんかは車でないと行けない距離にしかない。


 当然駅なんてものはなく、バスは千波が小学生の時に廃線になった。移動はもっぱら車だ。


 超高齢地域で子どもの数は少なく、全学年一クラスしかなかった。そしてどのクラスも生徒は三十人前後。


 それでも時々転入生が来るが、なじんだ頃にまた転校してしまう。


 そんな小さな世界で彼女は、クラスで一番可愛くないとはっきり言われたことがある。見た目は良くないが声はいい、と自負している勘違い野郎に。


 元々自尊心は低かったから、”知ってる”と返した。なんでもないように。


 そして、汚れ役は全て千波の役目だと思われていた。


 ヒーローごっこの敵役、ままごとではお姉さん役になれない、マラソンでのビリ、勉強やスポーツができない。


 なんせ保育園の頃からクラスの顔ぶれが変わらないのだ。そのせいで立ち位置も変わらない。


 しかしある時、千波は突然牙をむいた。


 中学に入学した途端、眠っていた才能が開花したのだ。


 テストでは毎回高得点を叩き出し、真面目な態度で教師からの好感度は高く成績は上々。体育は相変わらずそこそこだったが。


 高校に入学したら生活は一変。広い世界に出て様々な人に出会い、自分のことを認めてくれる人がたくさん現れた。そのおかげで自信が少しずつついていった。


 本当に心を許せる友だち────主にカヤとズッキもできた。


 中学までいたあの世界は最悪だったのだ。そう気づくまでにだいぶ時間がかかった。


 地元の同級生たちは『中学までの頃が良かった』とぼやいていると、卒業後に何度か聞いた。


 そのたびに『ざまあみろ』という感情が浮かび上がった。そう思う辺り、自分はなかなか残酷かもしれない。


 今は18の時に就職してからお金を貯め、会社の近くで一人暮らしをしている。


 こちらではコンビニの数も多いし、本屋もファミレスも大型のモールまである。しかもどれも徒歩圏内であることが多い。


 一人暮らしの家にカヤとズッキを招待し、三人で遊んだりコスプレ関係の製作に励んでいる。


 一つ失敗してことと言えば、同じ地域に会社の人が多く住んでいることだろうか。運よく鉢合わせることはないが、一方的に目撃されているらしい。






 入社したばかりの春に行われた、新入社員歓迎会。


 行きたくなかったが、歳の近い先輩に”新入社員は強制参加! 主役がいないとただの飲み会になっちゃうよ”と言われて同期と参加した。


 所属する部署のほとんどがお局様の元に集結している。


 千波は一人、お座敷の会場の隅に寄ってジュースをちびちびの実ながら周囲を眺めていた。


 同期たちとは別の部署で、彼らは部署の先輩に誘われて楽しそうに話していた。


 もう帰ってしまおうか。一人でこんな所にいておもしろくない。一人いなくなったところで気づく者はいないだろう。まして入りたての新人など。


 この頃は実家に住んでいて、ここから車で結構距離がある。あまり遅くならない内に帰りたい。


 そう思ってグラスを一気に煽るとテーブルに置き、立ち上がろうとした。


「同期は皆、どっか行っちゃった?」


 岳が突然現れ、千波の隣に腰掛けた。彼は初対面から馴れ馴れしいというか人の間合いにズイッと入ってくるたちだった。


 彼はビールが注がれたジョッキを持ち、ほんのり顔が赤くなっていた。だいぶ酒が回っているのだろう。


 岳はためらいなく千波の真横であぐらをかいた。遠慮がないせいで彼の膝が足にふれた。


「えぇ、はい」


 さりげなく反対側にずれ、横髪を耳にかける。岳はジョッキをテーブルに置くと、向こう側にできた輪を指さした。


「君は先輩の所には行かないの?」


「行かないというか行きたくないですね」


「なかなかはっきり言うコだね……。ねね、俺は君とは別の部署のモンだけど分かる?」


 岳のことはこうして話す前から知っていた。お局様を始め、部署の女性社員はよく彼のことを話していたから。


 他の男性社員と比べたら小柄な方だが、彼は目立つ存在だ。明るい栗毛の短髪を遊ばせ、林檎と同じ色をしたすこし大きな瞳を持っている。


 彼は会社内では常に誰かと一緒だ。一人でいてもすぐに人が横に並ぶ。男性社員と楽しそうに話している姿は、時々中学生のように見えることがある。


「仕事は慣れた? そっちの部署は特に大変でしょ」


 答える前に彼は次の話題を振った。きっと知られているという自信があるのだろう。


 首をかしげて顔を覗き込まれた。赤い瞳が優しく細められる。


 男の人にこんな風に見つめられたことはない。


 口を開きかけると彼は、”ん?”と口角を上げた。その仕草に心臓がドン、と突き出そうになる。


「慣れたには慣れましたかね……。楽しくはないですけど」


 千波の正直な感想に岳は笑う。つられて、自分の固く引き結んでいた口元が柔らかくなった。


 いい人そうでよかった。それにちょっとかっこいいし。


 千波は彼の吞みっぷりに関心するフリをして横顔を盗み見た。この甘い顔は女性社員からの人気は言わずもがな。


 だが、彼の好かれるポイントはそれだけではないようだ。こんな自分にも分け隔てなく接してくれる。


「おばさんはねー、しょうがないよ。あの歳まであぁいう性格なんだから今さら矯正できないよ」


 嫌な仕事の話はそこまで、彼は自分たちの名前のことを話題にした。


「俺は岳っていうけど、若名さんの千波と対みたいじゃね? 山と海で」


「そうですかね?」


「そうだよ。だから仲良くしよ」


 岳はニコニコとしていた。千波は反応に困り、上目遣いで彼のことを見上げるだけ。


 なんでこちのフルネームを知っているのか。同じ部署でもないのに、特別関わったことがあるわけでもないのに。


 子どもの頃から男子と親しくしたことがない千波は、これだけで勘違いしそうな自分を戒めた。






「あたしの隣にいて何が面白いんですか? 仲良い人多いんでしょ? そっち行けばいいじゃないですか」


「行かない。お前と一緒にいたいの」


「あんたにお前って呼ばれる筋合いはない」


「じゃあ呼んでもいい仲になろう」


「絶対嫌」


 それからというもの、会社での集まりでは必ず、岳が隣に居座るようになった。会に参加したがらない千波を引っ張り出して。


 それだけでは終わらず、普段からよく話しかけられるようになった。


 最初は気遣ってくれているんだろうと素直に嬉しかった。名前を覚えたのもそのためかもしれない、と。


 だがそれは違った。岳は新入社員のことは誰でもフルネームで覚え、千波に接するのと同じ態度を取る。特に女性社員に。


 なんだコイツ……と心の中で罵ってから気づいてしまった。


 千波に話しかける時は必ず、二人きりの時だけだと。呼び捨てにするのも。


 彼は思わせぶりな言動が多い。


 惑わされる自分の頬を叩き、いつも現実に引き戻す。






(この寒い時期に草むしりって……!)


 千波は寒さと怒りで顔をこわばらせながら、会社の敷地内の草むしりをしていた。軍手をつけた手が冷たい。手袋と違い風通しがよすぎる。


 十二月の冷たい風は体の芯から熱を奪っていくようだ。と言っても、実家の”富橋とみはしで一番強い風”に比べたらまだマシだが。


 今日はパンツスタイルで出勤してよかった。普段はスカートやワンピースで出勤することが多い。


 だが、他の部署の女性社員がパンツスタイルで出勤している姿がかっこよくて真似してみた。幼い顔立ちと小柄な自分には着られてる感が拭えなかったが。


 そもそもなぜ、千波は草むしりをしているのか。


────若名さん、今日の午前中は草むしりね。


────はい?


────疑問形の返事をしない。


 例のお局様からの突然の指示。有無を言わせない口調だ。


 自分一人だけで作業かと思いきや。


「いや~。案外こんな寒い時でも草って生えてんだな」


 岳もいた。彼の場合、事前に説明された上で自分から申し出たらしい。やはりウチの部署はおかしい。


「のんきでいいですね」


 千波はぶすっと口をとがらせていた。


 できるものなら草刈り鎌を部署の窓に向かって投げつけたい。残念ながらこの時期は窓を閉め切っているので自分に返ってきてしまう。


 バイオレンスなことを考えている千波とは対照的に、岳はちぎった草を指先でくるくると転がしていた。


「たまには別の変わった仕事がしたいじゃん? 皆が嫌がるのがよく分かんないわ~」


「あんたがそんなに楽しそうなのが謎です」


「チナと一緒だからな。ラッキーだったよ、まさか来るなんて思わなかったから」


 そんなことを言われて返事につまる。


 岳は特に気にならなかったようだ。ゴミ袋が止まらないようにと重石代わりに置いていた草刈り鎌を手に取った。


「チナは中で仕事してる方が良かった?」


「んー……どっちもどっちですね。中にいればウザいおばさんだらけだし、外は解放感あるけど寒いし」


 ずっとしゃがんでいたせいか腰が痛い。気分を紛らわせようと立ち上がった。腰に手を当て、体を左右にひねる。


「チナ。そのウザいおばさんが中から手を振ってるよ」


「え? ……あぁ。あんたに対してでしょ」


 千波はチラッと建物を見上げた。千波の部署は二階にある。


 彼女は岳が言ったものを無視し、再びしゃがみ込んだ。


 岳は隣で建物に向かって手を振っている。


「……前から思っていたんですけど、なんであんなのと仲良くできるんですか?」


 作業に戻った岳に、千波は顔を向けずに話を振った。


「別に仲良くしてるつもりはないけど……。強いて言うなら相手のいい面しか見ないようにしてるから? あぁいう人だったらね。どうせ仕事だけの付き合いだし部署違うし? 嫌な所は気にしないようにしてる」


「ふーん……」


「チナはさ、もうちょい人を好きになろうか? お前、信用している友だちはカヤちゃんとズッキちゃんだけじゃね?」


「別にそんなことは。会社の同期のコもまぁ仲いいですよ」


「でもあの二人ほどじゃないじゃん。人間嫌いになるようなことでもあったの?」


「いえ、特に」


 過去の地元でのことがよぎったが、打ち消した。岳に話すことではない。話してドン引きされても嫌だから。


(バカみたい……。香椎さんからの反応気にするとか)


 千波は作業のスピードを早めた。頬が熱くなり、心臓がトクンとはねたのをごまかしたい。


 千波の心境などこれっぽっちも気づいていない岳は、草笛をピーと鳴らしている。そんな彼の脇腹に千波は拳を入れる。


「田舎の中学生じゃないんだから……」


「痛! ……くない、ごめんごめん」


 岳は大して反省していない顔色で軍手をはめ直す。


「何話してたっけ……。あ、そうだ」


 ブツブツと一人で話している岳のことをチラリと横目で見やると、彼は指をパチンと鳴らした。


「チナ、彼氏いる?」


「いないですけど」


「じゃあ好きな人は?」


「……いません」


 一瞬言い淀んでしまったのを岳は聞き逃さなかったらしい。目をキラン、と光らせた。


「いるのか? いたのか?」


 獲物を狩るような目……ではないが、ワクワクとした表情は”聞くまで逃がさない”と宣言している。


「……いた。香椎さんと違ってすごくいい男ですけど」


「言ったなお前……。どんなヤツ?」


「……背が高くて優しくて頭良くてアニメが好きなイケメン」


 どういうわけか話していた。もう昔の恋だと割り切っているのだろうか。会わずに三年も過ぎたのに、ズルズルと引きずっている相手のことを。


「ふーん……。チナは身長が高い人が好きなの?」


「特にそういうのはないです。好きになった人がたまたまそうだっただけで」


「何それ何気イケメンセリフじゃん……」


「はぁ……?」


 ていうかさ、と岳は千波との距離をつめて肩を寄せた。突然の出来事に金縛りになって動けなくなる。この人のパーソナルスペースは広いのだろうか。


 岳は雑草が抜かれた土を眺めながら、照れたような表情を浮かべた。


「身長が高い以外は俺に全部当てはまってんじゃん。だから俺と付き合おう?」


「付き合いません。香椎さんとは嫌」


「なんだそれ!? 他の男だったら付き合うの!?」


「それもない」


「なんで? お前実は男性社員の間でちょっとした人気があるんだぜ? 可愛いのにちょっと無愛想でキツそうな所が」


「エセ情報どうも。あたしそろそろ休憩に行きます」


 千波は軍手を外しながら立ち上がった。後ろで"せっかくのチャンスあっさり捨てんな!"と喚いている岳を置いて。


(付き合おうはさすがに動揺しかけたわ……。やだやだ)


 千波は目を閉じて頭を振った。心が揺らいだことを忘れたくて。





 午後からは中の業務に戻った。


 寒さでかじかんでいた手もいつもの体温に戻り、難なく動くようになってきた。


 指サックをはめた手でパラパラと書類を数えていた時のこと。


「若名さん、新しい仕事教えるから来てくれる?」


「……はい」


 人が書類を数えている途中に声をかけてくるとは。意識をそちらに向けてしまったせいで数があやふやになってしまった。


 声をかけてきた三十代の先輩をチラッと見やり、肩をすくめて書類を整える。また後で数え直しておこう。大した数じゃなかったのが不幸中の幸いだ。


 先輩のデスクに来てパソコンを眺める。


 この人は手の動きは遅いがめちゃくちゃ早口。せっかく持ってきたメモ帳には、走り書きの読めない文字しか残せなかった。


 "じゃあやってみて"と椅子に座らされたはいいが、覚えきれてなくて途中で止まってしまう。


「……いい。さっきの仕事に戻って」


「……はい。すみません」


 マウスが止まった千波に、先輩はわざとらしい大きなため息をついた。


 謝ったがもちろん返事はなし。千波が離れると、キャスター付きの椅子が荒い音を立てた。


 自分が悪いから無視されるのも仕方ないか。


 千波は悔しさで眉根を寄せ、自分のデスクに戻る。仕返しのつもりでメモを投げ置いたが、弱々しい音しかしなかった。


(教えるのは一回だけ、覚えられないならもうやるなってか……。先輩としてどうなの)


 ボールペンとメモを引き出しの中に戻そうとしたついでに、さっきの先輩に目が行った。


 その隣にはお局様がいて、二人で千波の頭からつま先を往復して見ながらコソコソと話している。それは低い声で、明らかに悪口を言っているトーンだと分かった。


 "あんなこともできないなんて"とでも言っているのか、目元が意地悪く笑んでいた。


 先ほどの三十代の先輩はお局様に嫌われている。何人かと仲良くしているようだが、その”何人か”にも疎ましく思われている。


 なぜそんなことを知っているのかと言えば、彼女たちが千波の前で堂々と悪口を言っていたからだ。早口で泣き虫、うまくいかないことがあればすぐ泣いて、午後からいなかったこともあったよねー、と。


 そんな関係ばかりだ、この部署は。仲良くしているようで陰では悪口が止まらない。


 そしてそれを後輩の前で話すのもどうなのだろう。食堂ではほかの部署の人がいても構わずに悪口合戦だ。


 随分とバカにされてものだ。千波は深く息を吐き、目を伏せた。


 あからさまにあんな風に見られるとさすがに堪える。うつむいていると泣いてしまいそうだ。


(ひどい顔……。鏡で見せたらそんな風に笑ってられないだろうね)


 千波はパソコンの画面に目を向け、あふれてきそうな涙の存在を忘れようとマウスを手にした。




 終業時のごみ捨ては常に千波がやっている。先輩やお局様はいつもサッサと帰ってしまう。


「いつもありがとね。お疲れ様です」


「いえ……。お先に失礼します」


 ここの部署で唯一、上司にだけは恵まれた。いつもニコニコとしていて決して怒らず、苛立った様子を見せることもない。


 千波の仕事の取り組み方や、いつもごみ捨てに行くことを褒めてくれた。


 彼のおかげで、見ていてくれる人は見ていて認めてくれるのだと、少し救われた。


 ネックと言えば、彼はお局様たちにはあまり強く言えないこと。


 あの人たちさえいなくなればここの部署も良くなるだろうに。あんな面倒な女たちがいて苦労も耐えないだろうに。


 一切言う事を聞かない、完全にナメきっているというわけではないのだが、独断で人の業務内容を変えることがある。お局様たちのせいで千波が混乱したのは二度三度のことではない。今日だってそうだ。


 "いい方向になるように考えたことだといいけどねぇ…"と、歳の近い先輩はぼやいていた。


「あ~……。疲れた……」


 誰もいないことをいいことにつぶやく。思わず声に出てた、という気もするが。


 身体は何ともないが心は重い。


 あとどれぐらいこの会社にいようか。入社して三年目になったが、そろそろ我慢の限界が来そうだ。というかあんな人たちに囲まれてよく耐えられるものだと、自分でも感心する。感覚が麻痺しているのかもしれない。


「チナ?」


 なんでこんな時に。千波はけだるげに振り向いたが、相手はまるで疲れていないような笑顔をパァッと浮かべた。


「あ、やっぱり~。仕事終わりにチナに会えるとか最高かよ」


「意味分かんないこと言ってないでサッサと帰ったらどうですか。はいお疲れ様でしたー」


 岳だった。なんでこんな時に現れるのか。


 ただでさえ泣きたい時に。


 千波は顔を背け、スタスタと歩いていく。


「ちょっ、おい。つれないな……」


 岳は千波に走り寄り、その手から大きなごみ袋を奪い取って彼女の横に並んだ。反対側の手にはビジネスバッグ。彼も帰るところなのだろう。


 結局、ごみ捨ては岳がやった。


「ありがとうございます。頼んでないですけど」


「最後に可愛くないなー!? そこは"先輩優しい~"とかにしろよ」


「そんなことあたしが言うと思います?」


「……思わない」


 ふざけた調子の岳に冷ややかな声を放つ。別に怒ってるわけではないが。


 建物を出て駐車場まで二人で歩いた。


 千波の頭の中では昼間のことがぐるぐると回っていて、岳といつものように話してる余裕はなかった。


「……チナ」


 歩きながら名前を呼ばれた。返事をする代わりに顔を岳に向けると、彼は千波のことをいつもと違う瞳で見下ろしていた。


 悲哀、とまではいかないが痛みをたたえた瞳。


「大丈夫だった?」


「……何がですか?」


「中に戻ってから先輩にいじめられたんだろ」


「いじめられてはないですけど……なんで香椎さんが知ってるんですか?」


 今まさに考えていたことをなぜこの男が。思わず不審なものを見る目つきになる。


 岳はその視線に思いっきり手と頭を振った。


「違う違う違う! 様子見てたとかじゃない! 防犯カメラの映像見に行ったとかじゃない! 偶然知っただけだから!」


「防犯カメラ……」


 千波の会社の各部署に設置されている防犯カメラ。


 噂によるとそれは、社長が録画したものを時々見ているらしく、いじめ発覚に役立っているとかなんとか。本来は不正や違反行為の監視のためのものだが。


 その性格で誰からも気に入られる岳は、社長とも気軽に仲良くしている間柄らしく、ひそかに"社長のスパイ"と呼ばれている。


「見に行ったんですね?」


「うっ……はい」


 千波のジト目に負けた岳はあっさりとうなずいた。


 彼女はため息をつく気にもなれず、視線を落とした。


 そんな彼女を気にしてか、岳は頭の後ろで腕を組み、声だけは明るく言った。


「お前んとこの社員、教えるの嫌いな先輩多いからなー。よく泣かずに頑張ってるよ、チナは。他のコなんて会社で泣いたこと何回もあるからな」


「……うん」


 少しだけ心が暖かくなった。だが、素直にお礼を言えないのは千波らしい。


 彼女は肩にかけたバッグを持ち直し、毛先をいじる。


 ふと、その手を握られて岳に引き寄せられた。


「な゙っ……!?」


「泣いていいよ、今なら。俺しかいないから」


 ささやかれて目頭が熱くなる。その声が、握った手が優しい。


 涙がじわじわとたまってきて思わず唇をかんだら、岳に背中に腕を回され────


「香椎さんの前で泣くと思います?」


 今ので涙が一気に引っ込んだ千波は、岳を突き放すとバッグを身体の前で抱きしめた。


「全く……」


 岳は首をすくめ、スーツの襟を直した。


「ていうか前から思ってたんですけど、香椎さんってスーツ着ても制服着てるみたいですよね。本当に2コ上ですか?」


「なんだよその話の流れ……。まぁいいけど。チナはスーツ似合いそうだな。大人っぽくて。今日のも珍しいけどかわいいよ」


「老け顔ですから」


「またそういうこと言って……。チナは自分が嫌いなの? もっと大事にして自信持てよ」


 岳の言葉に何も言えなくなる。


 子どもの頃の周りの評価のせいで自分に自信が持てなかった。一種の暗示だろう。


 千波はバッグを持つ手にギュッと力を入れ、岳に向かって頭を下げた。


「……お先に失礼します!」


「おう。お疲れ」


 投げやりに言い捨て、愛車へ逃げ込むようにして乗る。


 エンジンをかけて駐車場を出て、赤信号で止まった所でハンドルに力なくもたれかかる。


「……バカみたい」


 心が岳に揺らぎつつあることに。


 岳の言動に喜びを感じたことに。


 代わりにごみ捨てをしてくれ、千波のことを心配し、手を握って抱きしめられそうになったこと。


 表には出さないようにしていたが、本当は嬉しかった。お局様たちに対する優越感もあった。


(バカだ……。なんで────)


 後ろからクラクションを鳴らされるまで、千波はハンドルの上でうなだれていた。

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