第6章:19世紀の変革者たち - ハリエット・テイラー・ミルとシモーヌ・ヴェイユ
秋も深まり、紅葉が美しい週末の午後。永遠と花凛は、お姉ちゃんの部屋で哲学の話を聞くのを楽しみにしていました。お姉ちゃんは、いつもと違って少し硬い表情で二人を迎えました。
「今日は少し難しい話になるかもしれないわ。19世紀から20世紀初頭にかけての、二人の非常に対照的な女性哲学者について話すわ」
永遠が興味深そうに尋ねます。
「対照的って、どういうこと?」
お姉ちゃんは深呼吸をして答えます。
「一人は社会制度の中で変革を目指した人で、もう一人は社会の外側から深い思索を重ねた人よ。ハリエット・テイラー・ミルとシモーヌ・ヴェイユという二人の哲学者よ」
花凛が首をかしげます。
「ハリエットって、どこかで聞いたような……」
「そうね、以前話したジョン・スチュアート・ミルの妻よ。でも彼女は単なる『妻』ではなかったの」
お姉ちゃんは少し考えてから、説明を始めました。
「ジョン・スチュアート・ミルについて少し補足しておくわね。彼は19世紀イギリスの哲学者で、功利主義の発展に大きく貢献した人物なの。『自由論』や『功利主義』といった重要な著作を残していて、特に個人の自由と社会の幸福の関係について深く考察したのよ」
永遠が興味深そうに聞きます。
「功利主義って何?」
「簡単に言えば、行動や制度の善し悪しを、それがもたらす幸福や快楽の量で判断する考え方よ。ミルは、この考えを洗練させて、単なる量だけでなく質も考慮に入れるべきだと主張したの」
花凛が首をかしげます。
「でも、それとハリエットの女性の権利の主張とどう関係があるの?」
お姉ちゃんは微笑んで答えます。
「良い質問ね。ミルは功利主義の観点から、女性の権利を擁護したの。彼は、社会全体の幸福を最大化するためには、女性にも男性と同等の機会を与えるべきだと考えたのよ。これはハリエットの影響が大きかったわ」
永遠が感心した様子で言います。
「へえ、哲学の理論と現実の社会問題がつながってるんだね」
「その通りよ。ミルとハリエットの協力関係は、理論と実践の融合の素晴らしい例なのよ」
お姉ちゃんはそう締めくくり、本題に戻りました。
「ハリエット・テイラー・ミルは1807年にロンドンで生まれたわ。彼女は若くして結婚し、三人の子供を産んだんだけど、その後ジョン・スチュアート・ミルと出会って、互いに強く惹かれ合ったの」
永遠が驚いた表情で言います。
「えっ、でも結婚してたんでしょ?」
お姉ちゃんは少し複雑な表情を見せます。
「そうなの。これはとても難しい問題だったわ。当時の社会では、既婚女性が他の男性と親密な関係を持つことは大変なスキャンダルだったの。でも、ハリエットとジョンは、お互いを知的パートナーとして深く尊重し合っていたのよ」
花凛が真剣な表情で聞きます。
「じゃあ、どうなったの?」
お姉ちゃんは少し表情を和らげ、古い写真が載っている本を開きます。そこには、優雅な服装をした一人の男性と、知的な雰囲気を漂わせる二人の男女が写っていました。
「これがハリエットと彼女の最初の夫、ジョン・テイラー、そしてジョン・スチュアート・ミルよ」
お姉ちゃんは写真を指さしながら、静かに語り始めます。
「ハリエットとミルが出会ったのは1830年のこと。ハリエットはすでに結婚していて、三人の子供がいたわ。でも、二人は互いの知性に強く惹かれ合ったの」
永遠が眉をひそめます。
「それって、不倫……?」
お姉ちゃんは首を横に振ります。
「現代の感覚からすればそう見えるかもしれないわね。でも、この状況は非常に特殊だったの」
花凛が興味深そうに聞きます。
「どういうこと?」
「ハリエットの夫、ジョン・テイラーは、妻の幸せを何よりも大切に考える人だったの。彼は、ハリエットとミルの関係が純粋に知的なものだと理解していたわ」
お姉ちゃんは、ジョン・テイラーの肖像画を指さします。
「テイラーは、ハリエットとミルが二人きりで会うことを許可したのよ。当時としては、信じられないほど寛容な態度だったわ」
永遠が驚いた表情で言います。
「へえ、すごく理解のある人だったんだね。信じられないぐらいの理解!」
お姉ちゃんは頷きます。
「そうね。テイラーは、ハリエットの知的成長を妨げたくなかったのよ。彼は、妻が幸せでいられるなら、それでいいと考えたの」
花凛が少し悲しそうな表情で聞きます。
「でも、テイラーさんの気持ちは複雑だったんじゃないの?」
「ええ、きっとそうだったでしょうね」
お姉ちゃんは静かに答えます。
「でも、彼は自分の感情を抑えて、ハリエットの幸せを優先したのよ」
お姉ちゃんは、別のページを開きます。そこには、年老いたテイラーの写真がありました。
「1849年、テイラーは病気で亡くなったわ。最期まで、彼はハリエットとミルの関係を認めていたの」
永遠と花凛は、写真を見つめながら黙って聞いています。
「そして、テイラーの死後2年経った1851年、ハリエットとミルは結婚したの。二人はお互いを深く尊敬し合い、共に多くの著作を生み出していったわ」
お姉ちゃんは本を閉じ、二人を見つめます。
「この物語は、愛にはいろいろな形があること、そして相手を心から信頼し、尊重することの大切さを教えてくれるわ」
永遠と花凛は、深い感動と複雑な思いを胸に、お互いを見つめ合いました。この19世紀の特殊な三角関係の物語は、彼らに愛と尊重について深く考えさせるきっかけとなったようです。
永遠が感心した様子で言います。
「へえ、すごく前衛的な関係だったんだね」
「そうね。でも、これは単なるロマンスの物語じゃないのよ。ハリエットとジョンの関係は、深い思想的な協働関係だったの」
お姉ちゃんは、ハリエットの肖像画を見せながら続けます。
「ハリエットは、女性の権利、特に参政権の獲得に情熱を注いだわ。彼女は『女性の解放』という論文で、女性が男性と同等の市民権を持つべきだと主張したの」
花凛が目を輝かせて言います。
「それって、前に話してくれたメアリー・ウルストンクラフトの考えと似てるね!」
「鋭い観察ね、花凛。確かにハリエットの思想は、メアリー・ウルストンクラフトの影響を受けているわ。でも、ハリエットはさらに一歩進んで、具体的な政治的変革を求めたの」
永遠が興味深そうに聞きます。
「具体的にどんなこと?」
「例えば、既婚女性の財産権よ。当時は結婚すると、女性の財産はすべて夫のものになってしまったの。ハリエットは、これは不当だと考え、既婚女性も自分の財産を持つ権利があると主張したわ」
花凛が驚いた表情で言います。
「えっ、そんな法律があったの? ひどすぎる!」
「その通りよ。でも、これが当時の『当たり前』だったの。ハリエットは、その『当たり前』に疑問を投げかけ、変革を求めたのよ」
お姉ちゃんは、少し表情を引き締めて続けます。
「ハリエットの思想は、夫のジョン・スチュアート・ミルの著作にも大きな影響を与えたわ。特に『女性の隷従』という本は、二人の共同作業だと言われているの」
永遠が少し考え込んでから言います。
「でも、お姉ちゃん。ハリエットの名前があまり知られてないのは、なぜ?」
お姉ちゃんは少し悲しげな表情を見せます。
お姉ちゃんは少し表情を曇らせ、深いため息をつきました。窓の外には秋の夕暮れが迫り、部屋に柔らかな光が差し込んでいます。
「そこが問題なのよ」
お姉ちゃんは静かに、しかし力強く語り始めました。
「ハリエットの貢献は長い間、夫の影に隠れてしまっていたの。彼女自身も、自分の名前で著作を発表することが少なかったわ」
永遠と花凛は、お姉ちゃんの言葉に驚きの表情を浮かべます。
花凛が不思議そうに尋ねます。
「どうして自分の名前で発表しなかったの?」
お姉ちゃんは古い写真立てを手に取り、そこに映るハリエットとジョン・スチュアート・ミルの写真を見つめながら答えます。
「それには、いくつかの理由があるわ。まず、当時の社会では、女性が公の場で自分の意見を表明することがあまり受け入れられていなかったの。特に、政治や哲学のような『男性の領域』とされていた分野ではね」
永遠が眉をひそめます。
「でも、ハリエットはそういう偏見に反対してたんじゃないの?」
「鋭いわね」
お姉ちゃんは頷きます。
「確かにハリエットは、そういった偏見に反対していたわ。でも、彼女は自分の考えを広めることの方を重視していたの。自分の名前を出すことで、その考えが受け入れられにくくなるなら、夫の名前を借りる方が効果的だと考えたのかもしれないわ」
お姉ちゃんは写真立てを元の場所に戻しながら、少し悲しげに続けます。
「それに、ハリエット自身も、自分の才能や貢献を過小評価していた面があったかもしれないわ。当時の社会の価値観は、彼女自身の中にも深く根付いていたのよ」
部屋の中に重い沈黙が流れます。窓の外では、風に揺れる紅葉が影を落としています。
花凛が小さな声で言います。
「それって、とても悲しいことだね」
お姉ちゃんは優しく微笑みながら答えます。
「そうね。でも、私たちにできるのは、ハリエットの貢献を正当に評価し、彼女の思想を理解し、広めていくことよ。過去を変えることはできないけれど、未来を作ることはできるの」
永遠が決意を込めた表情で言います。
「僕たちの世代では、そんな不平等がないようにしなきゃいけないね」
お姉ちゃんは嬉しそうに頷きます。
「その通りよ。ハリエットの物語から、私たちは多くのことを学べるわ。才能ある人が、性別や社会的立場に関係なく、自分の考えを自由に表現できる社会。それこそが、ハリエットが夢見た世界なのよ」
お姉ちゃんはこほんと咳払いしてから続けます。
「でも、最近になって、ハリエットの思想的貢献が再評価されるようになってきたの。彼女の思想は、単に夫のアイディアを理想化したものではなく、独自の深い洞察に基づいていたことが分かってきたわ」
永遠が真剣な表情で聞きます。
「具体的に、ハリエットはどんな主張をしたの?」
お姉ちゃんは、ノートに書かれたハリエットの言葉を指さしながら説明します。
「例えば、ハリエットはこう言っているわ。『女性が男性と平等な権利を持つことは、単に女性のためだけでなく、社会全体のためになる』」
花凛が目を輝かせて言います。
「それ、すごく現代的な考え方だね!」
「その通りよ。ハリエットは、女性の解放が社会全体の進歩につながると考えたの。彼女は、女性が教育を受け、職業を持ち、政治に参加することで、社会がより豊かになると主張したのよ」
永遠が少し考え込んでから言います。
「でも、その主張に対して、反対意見もあったんじゃないの?」
お姉ちゃんは頷きます。
「もちろんよ。多くの人々、特に保守的な人々は、女性の伝統的な役割を重視していたわ。『女性の場所は家庭だ』という考えが強かったのよ」
花凛が真剣な表情で聞きます。
「ハリエットは、そういう反対意見にどう対応したの?」
「良い質問ね。ハリエットは、論理的な議論を展開して反論したわ。例えば、『女性が教育を受けることで、より良い母親になれる』というような、反対派も受け入れやすい主張を織り交ぜながら、徐々に女性の権利拡大を訴えていったのよ」
永遠が感心した様子で言います。
「策略家だったんだね」
お姉ちゃんはクスッと笑います。
「そうね。でも、それは単なる策略というより、現実的なアプローチだったのよ。ハリエットは、社会を一朝一夕に変えることはできないことを理解していたの。だから、少しずつ、でも着実に変化を促そうとしたのよ」
花凛が興味深そうに聞きます。
「ハリエットの考えは、実際に社会を変えたの?」
「直接的にはそれほど大きな変化は起こらなかったわ。でも、彼女のアイディアは、後の女性運動に大きな影響を与えたの。特に、女性参政権運動の理論的基礎の一つになったわ」
お姉ちゃんは、ハリエットの肖像画を見つめながら続けます。
「ハリエットは1858年に亡くなったけど、彼女の思想は夫のジョン・スチュアート・ミルによって引き継がれ、広められていったの。ジョンは議員になってからも、女性参政権の実現に尽力したわ」
永遠が少し考え込んでから言います。
「ハリエットって、すごく先を見据えた人だったんだね」
「その通りよ。彼女は、自分の生きている時代には実現しそうもない理想を掲げながらも、その実現に向けて着実に歩みを進めたの。それが、後の世代に大きな影響を与えることになったのよ」
花凛が真剣な表情で言います。
「私も、ハリエットみたいに、長い目で見て社会を良くしていきたいな」
お姉ちゃんは嬉しそうに頷きます。
「素晴らしい考えよ、花凛。社会を変えるには時間がかかるけど、一人一人の小さな努力が積み重なって、大きな変化につながるのよ」
永遠が少し困惑した表情で聞きます。
「でも、お姉ちゃん。最初に、今日は対照的な二人の哲学者の話をすると言ってたよね。もう一人は誰なの?」
お姉ちゃんは少し表情を引き締めます。
「そうね。もう一人は、ハリエットとは全く異なるアプローチを取った哲学者よ。シモーヌ・ヴェイユという人物なの」
お姉ちゃんは、別の本を手に取り、ページをめくりながら話し始めます。
「シモーヌ・ヴェイユは1909年にパリで生まれたわ。ハリエットより半世紀以上後の人物ね。彼女は、ユダヤ人の家庭に生まれたけど、宗教にはあまり関心がなかったの」
花凛が興味深そうに聞きます。
「シモーヌはどんな人だったの?」
「シモーヌは、非常に優秀な学生で、若くしてエリート校に入学したわ。でも、彼女は学問の世界に安住することはなかったの。むしろ、労働者の生活に強い関心を持ち、実際に工場で働く経験をしたのよ」
永遠が驚いた表情で言います。
「えっ、哲学者なのに工場で働いたの?」
お姉ちゃんは、シモーヌ・ヴェイユの古びた写真を手に取り、窓際に立ちました。夕暮れの柔らかな光が、写真の中のシモーヌの真剣な表情を浮かび上がらせています。
「そう。シモーヌは、理論だけでなく、実際の経験を通じて世界を理解しようとしたの」
お姉ちゃんの声には、尊敬と少しの悲しみが混ざっていました。
「彼女は、労働者の苦しみを自分の身をもって体験しようとしたのよ」
永遠と花凛は、驚きと関心の入り混じった表情でお姉ちゃんの言葉に聞き入ります。
永遠が首をかしげて尋ねます。
「でも、どうやって? 哲学者が工場で働くなんて、普通じゃないよね?」
お姉ちゃんは写真から目を離し、二人に向き直ります。
「その通りよ。でも、シモーヌは『普通』じゃなかったの。彼女は1934年、25歳の時に、自ら志願して工場労働者として働き始めたわ。ルノーの自動車工場でプレス機のオペレーターとして、一年間働いたのよ」
花凛の目が大きく見開かれます。
「え? 本当に? でも、どうして?」
お姉ちゃんは、シモーヌの写真を二人に見せながら説明を続けます。
「シモーヌは、知識人が労働者の生活を理解せずに社会について論じることに疑問を感じていたの。彼女は、真の理解は経験からしか得られないと信じていたのよ」
お姉ちゃんは、部屋の隅にある小さな机を指さします。
「想像してみて。毎日、朝早くから夜遅くまで、同じ動作を繰り返す。体は疲れ果て、精神は摩耗していく。シモーヌは、そんな労働者の日常を、自ら体験しようとしたのよ」
永遠が真剣な表情で聞きます。
「それって、すごく大変だったんじゃないの?」
お姉ちゃんは頷きます。
「ええ、とてもね。シモーヌは元々体が弱かったこともあって、この経験で健康を著しく損なってしまったわ。でも、彼女はこの経験を通じて、労働者の苦しみや疎外感を深く理解することができたの」
花凛が少し考え込んでから言います。
「でも、そこまでしなくても、話を聞いたり、観察したりするだけじゃダメなの?」
お姉ちゃんは優しく微笑みます。
「良い質問ね。確かに、そういう方法もあるわ。でも、シモーヌは、本当の理解は完全な共感からしか生まれないと考えたの。彼女にとって、哲学は単なる頭の中の思考ではなく、全身全霊で体験するものだったのよ」
窓の外では、街灯が一つ、また一つと灯り始めています。お姉ちゃんは、その光を見つめながら静かに付け加えました。
「シモーヌの行動は極端かもしれないわ。でも、彼女の姿勢から私たちが学べることはたくさんあるの。他者の苦しみに本当に寄り添うこと、自分が安全な場所から出て世界を理解しようとすること。それらは、今を生きる私たちにとっても大切なメッセージよ」
永遠と花凛は、深く考え込む様子でした。シモーヌ・ヴェイユの真摯な生き方が、二人の心に新たな問いを投げかけたようです。
お姉ちゃんは、シモーヌの写真を見せながら続けます。
「シモーヌの思想は、非常に独特で複雑よ。彼女は、マルクス主義的な考え方に共感しながらも、同時に深い宗教的な洞察を持っていたの」
花凛が首をかしげます。
「マルクス主義と宗教? それって矛盾しないの?」
「良い質問ね。一般的には、マルクス主義と宗教は相容れないものと考えられているわ。でも、シモーヌはその両方から、人間の苦しみと救済についての深い洞察を得ようとしたの」
永遠が真剣な表情で聞きます。
「具体的に、シモーヌはどんなことを考えたの?」
「シモーヌは、人間の『魂』の重要性を強調したわ。彼女は、現代社会が人間を物質的な存在としてしか見ていないことを批判したの。そして、真の平等は、すべての人間の魂の尊厳を認めることから始まると考えたのよ」
花凛が感心した様子で言います。
「深いね……」
「そうね。シモーヌの思想は、とても深遠で難解なところがあるわ。彼女は、人間の苦しみの中に神秘的な美を見出そうとしたの」
永遠が少し困惑した表情で聞きます。
「苦しみの中に美? それってどういうこと?」
お姉ちゃんは、シモーヌの写真を静かに本棚に戻しました。部屋の中には、夕暮れの薄暗い光が満ちています。お姉ちゃんは、少し間を置いてから、静かに、しかし力強い声で話し始めました。
「シモーヌは、人間が苦しみを通じて真の理解に到達できると考えたのよ」
永遠と花凛は、その言葉の重みに押されるように、身を乗り出して聞き入ります。
お姉ちゃんは続けます。
「彼女自身、病弱で、しばしば激しい頭痛に悩まされていたの。その経験が、彼女の思想に大きな影響を与えたわ」
花凛が不安そうな表情で尋ねます。
「激しい頭痛? それってとても辛いことじゃないの?」
お姉ちゃんは優しく微笑みながら頷きます。「そうね。シモーヌの頭痛は、時に彼女の日常生活を完全に麻痺させるほど激しいものだったわ。でも、彼女はその痛みを単なる苦しみとしてではなく、深い洞察を得るための一種の『窓』として捉えていたの」
永遠が眉をひそめます。
「痛みが『窓』? どういうこと?」
お姉ちゃんは、窓際に歩み寄り、外の暗くなりつつある空を見つめながら説明を続けます。
「シモーヌにとって、苦しみは人間のコンディション、つまり人間の根本的な状態を理解するための重要な手段だったのよ。彼女は、痛みを通じて、人間の脆弱さや、世界の不条理さを直接的に体験できると考えたの」
お姉ちゃんは、ゆっくりと二人の方を向きます。
その表情には、深い思索の跡が窺えます。
「例えば、激しい頭痛に襲われたとき、人は自分の存在がいかに脆いものか、そして同時に、自分が世界とどれほど密接につながっているかを感じることができるわ。シモーヌは、そういった経験を通じて、人間存在の本質に迫ろうとしたのよ」
花凛が小さな声で言います。
「でも、それってとても孤独な経験じゃないの?」
お姉ちゃんは優しく頷きます。
「その通りよ。シモーヌの思想は、時に深い孤独と結びついていたわ。でも、彼女はその孤独さえも、人間理解のための重要な要素だと考えていたの」
永遠が真剣な表情で聞きます。
「じゃあ、シモーヌは苦しみを求めていたってこと?」
お姉ちゃんは少し考えてから答えます。
「それは少し違うかもしれないわね。求めていた、というよりは、避けようとしなかったのよ。彼女は、苦しみを通じてこそ、真の共感や理解が生まれると信じていたの。だからこそ、自分の苦しみだけでなく、他者の苦しみにも深く寄り添おうとしたのよ」
部屋の中に、重い沈黙が流れます。
窓の外では、最後の夕日が地平線に沈もうとしています。
お姉ちゃんは、静かに続けます。
「シモーヌの思想は、決して楽なものではないわ。でも、彼女が示してくれたのは、人間の苦しみや弱さを直視することの大切さ。そして、そこから生まれる深い共感と理解の可能性よ」
永遠と花凛の表情には、複雑な感情が浮かんでいます。シモーヌ・ヴェイユの苦しみを通じた哲学が、彼らの心に新たな問いを投げかけたようでした。
花凛が心配そうに聞きます。
「シモーヌは幸せだったの?」
お姉ちゃんは少し悲しげな表情を見せます。
「シモーヌの人生は、決して楽なものではなかったわ。彼女は常に苦しみと向き合い、それを自分の思想の源泉としていたの。でも、それは単なる自虐的なものではなく、深い洞察を得るための道筋だったのよ」
永遠が真剣な表情で聞きます。
お姉ちゃんは表情を引き締め、静かに話し始めました。
「シモーヌ・ヴェイユとナチスの関係について、いくつか重要な事実があるわ。シモーヌはユダヤ系フランス人として、ナチスの台頭に深い懸念を抱いていたの」
お姉ちゃんは資料を参照しながら、シモーヌの行動を時系列で説明します。
「1932年、シモーヌはドイツを訪れ、ナチスの動向を直接観察し、その脅威について警告する記事を書いたわ。1936年のスペイン内戦では、共和国側の義勇兵として参加し、ファシズムに抵抗したの。1940年、フランスがナチス・ドイツに占領されると、南フランスでレジスタンス活動に関わったわ」
永遠と花凛が興味深そうに聞く中、お姉ちゃんは続けます。
「1942年、シモーヌは33歳でナチスの迫害を逃れてアメリカに渡ったけど、長くは留まらなかったの。安全な場所にいることに罪悪感を覚え、ヨーロッパで苦しむ人々と同じ運命を共にしたいと考えたからよ」
お姉ちゃんはそこで淋しそうに溜息をひとつつきました。
「1943年、シモーヌはロンドンの自由フランス軍に加わり、特殊部隊の訓練計画立案に携わったわ。しかし、彼女の健康状態は悪化の一途をたどっていたの。結核を患っていたにもかかわらず、フランスの人々との連帯を示すため、厳しい食事制限を自らに課していたのよ」
お姉ちゃんは声を落として、シモーヌの最期について語ります。
「1943年8月、シモーヌは倒れて病院に運ばれたけど、医師の勧めにも関わらず十分な食事を取ることを拒否し続けたわ。そして8月24日、わずか34歳でこの世を去ったの。死因は結核と栄養失調だったわ」
最後に、お姉ちゃんは静かに締めくくります。
「シモーヌの晩年は、彼女の思想と行動が完全に一致した時期だったわ。最後まで反ファシズムの姿勢を貫き、自身の哲学的・倫理的信念を実践し続けたの。それは美しくも悲しい、シモーヌらしい最期だったわ」
三人の間にしばらく沈黙が舞い降ります。
次に口火を切ったの永遠でした。
「ハリエットとシモーヌ、二人のアプローチは全然違うね」
「その通りよ」
お姉ちゃんは頷きます。
「ハリエットが社会制度の中で変革を目指したのに対し、シモーヌは個人の内面的な変革を重視したの。でも、二人とも人間の尊厳と平等を追求したという点では共通しているわ」
花凛が少し考え込んでから言います。
「でも、お姉ちゃん。シモーヌの考え方って、現実の社会を変えるのに役立つの?」
お姉ちゃんは優しく微笑みます。
「良い質問ね。シモーヌの思想は、直接的に社会を変革するものではないかもしれないわ。でも、彼女のアイディアは、私たちに深い自己省察と他者への共感を促すの。それが、長い目で見れば社会を変える力になるのよ」
永遠が感心した様子で言います。
「なるほど。二人のアプローチは違うけど、どちらも大切なんだね」
「その通りよ」
お姉ちゃんは嬉しそうに頷きます。
「社会を変えるには、制度の改革も個人の内面の変革も、両方が必要なの。ハリエットとシモーヌは、その両面を私たちに教えてくれているのよ」
お姉ちゃんは、最後にこう締めくくります。
「さて、今日の学びを踏まえて、一つワークをしてみましょう。あなたたちの身の回りにある『不平等』や『不正』だと感じることを一つ挙げて、それをハリエットとシモーヌ、それぞれのアプローチでどう解決できるか考えてみて」
永遠と花凛は、真剣な表情でノートを取り出し、考え始めます。二人の19世紀の哲学者たちの思想が、現代を生きる彼らの心に新たな思索の種を蒔いたようでした。
ワークが終わった後、お姉ちゃんは二人の答えに丁寧にコメントを加えながら、さらに深い議論へと導いていきます。
「素晴らしい考察ね。ハリエットのように具体的な制度改革を提案し、同時にシモーヌのように個人の意識改革も考えられているわ。この二つのアプローチを組み合わせることで、より効果的な解決策が見えてくるのよ」
永遠が少し考え込んでから言います。
「でも、お姉ちゃん。ハリエットとシモーヌの時代から百年以上経っているのに、まだ解決されていない問題もたくさんあるよね」
お姉ちゃんは少し悲しげな表情を見せながらも、力強く答えます。
「その通りよ。社会の変革には長い時間がかかるの。でも、だからこそ私たちは諦めずに努力し続ける必要があるのよ。ハリエットやシモーヌが蒔いた種が、今の私たちの社会を作っているように、私たちの行動も未来の社会を作っていくのよ」
花凛が決意を込めた表情で言います。
「私も、未来の人たちのために何か残せるような人になりたい」
お姉ちゃんは嬉しそうに頷きます。
「素晴らしい心がけね。哲学は単に過去の偉人の考えを学ぶだけじゃないの。それを自分の人生に活かし、新しい思想を生み出していくこと。それこそが、真の哲学する心よ」
お姉ちゃんは本を閉じ、立ち上がります。
「さあ、今日の学びを踏まえて、これからの一週間、自分の周りの『当たり前』に疑問を持ち、深く考えてみましょう。特に、ハリエットとシモーヌの視点を意識しながら、社会の問題と自分の内面の両方に目を向けてみてね。来週、その結果を聞かせてくれるかしら?」
永遠と花凛は、少し緊張しながらも期待に胸を膨らませて頷きます。
「「はい!」」
こうして、19世紀の二人の女性哲学者たちとの出会いは、永遠と花凛の心に新たな思考の種を蒔いたのでした。彼らの目には、社会変革への情熱と、深い自己省察への決意が輝いていました。
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