終幕 私を助けた、人生で一番好きな人

 雨ニモマケズ、風ニモマケズ、雪ニモ夏ノ暑サニモマケズ…………



 ゆずるは、就職活動に勤しんでいた。


 彼にとって興味があった、あらゆる芸術の要素を内包した企業、それは、出版社だった。そこへ就職することが、いつしか、彼の大きな目標となっていた。


「うっ……はぁ……っ」



 採用への障壁たる面接の当日、会場が設けられた会社の入り口に立ったゆずるは、猛烈な吐き気を自覚した。過去に経験のない不安と緊張から軽くえずいて、唇がビリビリと痺れて、妙な浮遊感を体験した。



 こんなときの為に、秘密の策を打ってきた。



 スマホを開いて、ホーム画面を見ると、時刻とともに、壁紙に設定された写真が映し出される。



 そこには、遊園地へと遊びに行ったときの七瀬との写真があった。さらに七瀬の隣には、高校生の時からの共通の親友である夏目の姿も。



「がんばれ~」という、くるみの鈴の音のような美声が聞こえてくるようだった。


「健闘を祈る」という、独特な言葉選びの夏目の声も、重ねて聞こえたような気がした。



――あなたが、俺のことをいじめて、俺に謝って、俺を抱きしめて、俺を「好き」と言ってくれたから、今、ここに立っている。


「よし。やってやるか……」



 低い声のため息混じりで、そう独り言を漏らしたゆずるは、満を持して会社の敷地内へ。



「失礼します」会場へのドアをノックの後に開いた。


 低く落ち着いた自分の声が、思ったよりも落ち着いていることにゆずるは、内心驚いていた。面接会場には、面接官であろう紺色のスーツを身につけた人が三人、椅子に座っていた。



 これは、きっと、「口下手」を克服できたのだと、思った。



「弊社を希望された理由を教えてください」


「大学生のときに、最も力を入れて頑張ったことを教えてください」


「あなたの長所と短所は、どんなところだと思いますか?」


「文化、あるいは言語の違いを、どのように乗り越えて、多文化を尊重する雰囲気を作ればいいでしょうか。あなたの考えをお聞かせください」


「現在の日本において、弊社ができる社会貢献とは、どのようなものがあると考えていますか?」



 数々の言葉の「砲撃」に対して、ゆずるはこれまでになく頑強であった。それは、彼自身の面接対策の用意周到さと、努力と、七瀬や夏目との「他者」との関わりの結晶であった。





 彼は次の春、嫌悪し、忌避すらしていたスーツを誇らしげに身に着けていた。






****





 七瀬胡桃ななせくるみは、大学を卒業後、市の福祉センターの職員になっていた。



 しかし、不幸なことに、異動してきた上司との相性が悪かった。煩雑な業務ながら数年と勤めてきた職場を離れて転職をしようか否か、昼休みのトイレに籠りながら思い悩む日々が続いていた。


「おぇ……っ」



 さきほど胃に納めたはずの手作り弁当が、食道を登ってきて、便器にしがみつきながら、えずいた。不快感は、やがて治まって、がっくりと、頭をおとした。




 そんなとき、彼女はおもむろに、スマホを取り出すのである。それは、「勇気」と「愛」をチャージするための秘策である。


「うへへ……ヤバい」



 写真には、夫であるゆずるが、過去のくるみの隣に映っている。そういえば、また近々の連休にでも、二人でどこかに行きたいなぁと思う七瀬胡桃。映画とか、どうかなと考えていると、嫌なことを一時的にでも忘れることができる。


 写真を恍惚と眺めて、一人トイレで、ニヤニヤと笑っていた。



――そうだ、彼が居れくれれば、どんな不安だって敵ではない。



 【思ったことは、言わなければ伝わらない】それを学ばせてくれたのは、かつてのゆずるだったと思い出した。


「よし、頑張れ、私っ!!」



 頬をパンっと両手で叩いて、気合いを覚醒させた彼女は、あと数か月と決めた業務に向かって、力強く歩き始めたのだった。




****




「ただいまぁぁぁ……」



 疲労困憊という具合で、家の玄関のドアを開けたくるみ。存外に自分の声が低くなっていたことに気が付いて、また気を落とした。


 右手には、仕事用のカバンを、左手の買い物バッグには、スーパーで買ってきたネギや牛肉、それから卵と、足りていなかったお酢と、醤油、からしと、豆板醤等々、パンパンに詰まっている。



 リビングに行くと、ソファーで卒倒したように眠っているゆずるを見た。彼は今や、くるみの実の夫である。



「ママ~お帰りぃ」



 舌足らずで、歯抜けた声の主が、足元にトコトコと走ってきて、ぎゅっとしがみ付いてきた。



――かえで。それが、七瀬家の娘の名前であった。



「んああ、お帰り、くるみ……」


 と、そんなカエデとくるみの声を聞いてか、ゆずるがソファーからむくっと起き上がって首を伸ばした。ゆずるとカエデに対して、母たるくるみは「ただいま」と、どこまでも柔らかい声で言った。



 カエデは、小さい金色のポニーテールを左右に揺らしながら、フローリング床をドタドタと走って、父のゆずるに走り寄って「パパ起きた!」と、歓喜した。



 ゆずるは、小さい体で寄ってきたカエデの脇を抱えて、胸に抱きしめた。娘が「苦しいよ」と呻いていても、お構いなしにぎゅっと腕を引いた。



「カエデ、大好きだよぉぉ~」

「んん、わたしもパパ大好き」


「ふへへへ……」


 娘に頰をペシペシ叩かれながら、ゆずるは、にやけて頬が緩む顔を隠せなかった。



 そんな、仲睦まじいこと限りない雰囲気に、愛猫と、くるみも寄ってきた。


「わー!私は、みんな大好き〜っ!」



 カエデとゆずるとを、まとめて抱きしめたくるみ。愛猫【ナポレオン】は、そんな様子のかたわら、ねこじゃらしを蹴って遊んでいた。


 と、テーブルの上に放置されたお菓子の包装を発見したくるみが、眉をひそめて言った。


「食べたお菓子の袋は、ちゃんと捨ててよね」



 ゆずるは、カッと目を見開いて、申し訳なさそうに声を落とした。


「はい……ごめんなさい」



 追撃とばかりに、耳元で「パパ怠け者〜」と痛いことを娘に言われてしまったゆずる。


 娘に対して、反面教師にしてほしいと思ったらしく、カエデの頭を優しく撫でて言った。



「カエデは、こんな大人になっちゃだめだよ」





 そんなことを言いながら、七瀬ゆずるは思う。




――くるみと出会えて、幸せだと。




 七瀬くるみは思う。




――ゆずると出会えて、幸せだと。



「ママとパパは、なんで仲良しなの?」



 純粋無垢の権化たるカエデは、愛らしさの極値を示すように、首を傾げた。



「色々あったよね」

「そうだねぇ……」



 ゆずるとくるみは、顔を見合わせて、ニッと笑った。


「カエデが大きくなったら、一から全部、教えてあげよう」





――これは、俺をいじめた、クラスで一番かわいいヤツを好きになってしまった話







 蜘蛛の糸をつかむ   完

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