第5話 ミルクパックは顔だけにしてくれ!
北田先生は2校目の臨時採用教員となった。
北の大都市と考えられている札幌であっても、北海道で暮らすには公共交通機関だけでは不便でならないことが多い。地下鉄や列車を使って通勤できる人はそれほど多くはない。そのため、必然的に自家用車が通勤の足となる。北田先生も社会人になってから免許を取って、初めての愛車を購入した。それは黒のスターレットだった。教習所に通う時間もなく、冬休みを利用して試験場での一発試験を2回目でパスした。黒色の車体に初心者マークが恥ずかしそうに貼られた小型車だった。
当時北田先生が住んでいた家から学校までは1時間あまり。もっと近くに住めばいいのだろうが、一年単位でしか契約されない臨時教員である限り、転勤に合わせて住所を変えるわけにはいかなかった。だからそういう事情もあって、雪に見舞われ、道路は凍結し、轍だらけになっている一月なのに無理して運転免許を取ったのだ。
自家用車で通うことになっても、学校を出るのは午後9時から10時頃。予定外の何かが起こってしまうと11時頃になる。それから1時間かけて自宅へ帰り、風呂に入って寝るだけ。翌朝は午前7時前に学校へ向かう。夏場は部活動の朝練習が入るので午前5時出発ということにもなる。その他にも他校でおこなわれる会議への出席や、家庭訪問などにも車なしでは不便この上ない。臨時採用という不安定な身分で、安い給料でしかないのに自家用車を持つことは、家計的にはけっこう厳しかった。それでもこの職業を続けていく限り、自家用車なしでは対応できないことが多いと考えたのだ。
「何しに家に帰ってるの」
「学校で晩飯も食ってるんだから、学校に泊まればいいっしょ」
「そうだよ。当直の安田さんだって喜ぶよ」
冗談交じりでそう話す先生方も少なくなかった。
事件は2月の初め頃。北田先生はいつものように午後9時過ぎに学校を出た。まだ当直の警備員がいた時代だ。
「おじさんお先に!」
年配の警備員さんは帽子を取っていつものように笑顔で言った。
「お疲れさんでした。路面凍ってるから、車、気イ付けてよ!」
「どーもー」
と、いつもの会話で自分の車へ。エンジンをかけライトを付けた。シートベルトを締め、ハンドルに手をかけて前を向くとヘッドライトの灯りが何かいつもとは違う。いや灯りが違うんじゃなくて、明るくなっている外がゆがんで、しかも曇ってかすんでいる。
フロントガラスがなんだか妙に白くなっていた。雪が降って積もったのとは違う。しばれて凍っているわけでもない。乳白色に、なんだかヘンテコな白さなのだ。シートベルトを外し、もう一度車外に出てフロントガラスに顔を近づける。すると油絵の具が盛り上がって塗られたように厚みのある白がそこにあった。
指でこすってみる。
……牛乳だ。
フロントガラス一面に牛乳がぶちまけられていた。そしてスターレットの屋根には、給食で出てくる四角い牛乳パックが一個ちょこんと乗せられているのに気が付いた。黒い車体には牛乳の白がしずくの形を作って凍っていた。
「やられた!!」
「あいつか?!」
北田先生には思い当たる節があった。車のいたずらは多くの場合、生徒との間に何かのトラブルがあった証拠なのだ。今日クラスの男の子をがっつりと怒ったばかりだった。
車のフロントガラスに牛乳が凍りついてしまったら、もう、大変なことになる。樹脂製の白いペンキが厚く塗られて、半乾き状態になっているようなものだ。
拭いてとれるものじゃない。
真冬の午後9時過ぎ、水ぶきは不可能なのだ。スクレイパーで削り取るしかない。削り取った後も、牛乳の油分が曇りとなって視界は最悪。
30分も格闘してギブアップ。当直警備のおじさんが出てきてお湯でふき取りを手伝ってくれた。拭いたそばからすぐに凍ってしまうので、お湯で拭いたらすぐに乾拭きをしなければ、ガラスは凍ってシバレ模様が出来上がってしまう。ヒーターをうんと効かせて、エンジンはかけっぱなしにしておいた。
「久しぶりにやられたねー」
とおじさんは幾分楽しそうである。
二人でバケツ2杯分のお湯を使って何とか視界は確保した。
「今日は泊まってけば?」
うれしそうなおじさん。
「いや、帰る!」
北田先生は少し意地になっている。
それから1時間、ゆがんだ視界を必死に確保しながらのドライブを北田先生は一生忘れないと心に命じていた。これも中学校の現実なんだと考えていた。
次の日の朝、学活でその話を隠さずにクラスに伝えた。例の「あいつ」だけが含み笑いで北田先生を見ていた。間違いなく「あいつ」だ。
昼休み。訳もなくあいつが北田先生に近づいてきた。
「車、高かった?」
「おお!俺の給料、安いからな!」
「なんぼくらいさ?」
「1年分の給料だな」
「それって、ローン?」
「おお、借金だ」
「給料、たいしてもらってないんだべ?」
「おお、貧乏人だ」
あいつは何かを言いたそうだったが、北田先生がさらに言った。
「うちの親父はよ、車の免許持ってないからうちには車なかったんだ。だからよ、俺の車は我が家で初めての車なんだ。」
「……」
「俺はよ、この車いたずらされたら絶対黙ってないからな。おまえからも、やろうとするヤツいたら言ってくれ!」
「……」
「ミルクパックは、顔だけにしてくれって!」
「おう……。」
「あいつ」には父親がいない。小学校の時に亡くなっていた。姉が中卒で就職し、母親と二人で家計を支えていた。「貧乏」という言葉が彼に近づくキーワードだった。自家用車など縁のない生活だった。だから逆に、車には普通以上の執着もあるし、うらやましさの裏返しの行動でもあった。
その後、北田先生の車に対するいたずらは全くなかった。だが、次に移った学校では頻繁に発生していた。
冷凍ミカンの投げつけ
コインでの傷つけ
ミラー折り
落書き
キー穴つぶし
何度も被害に遭う先生もいた。しかも誰がやったのか、ほとんど見当のつくものばかりだった。だが、黙ってしまったのだ。生徒達にも何にも伝えないし、学校全体での指導もない。それがなくならない理由だった。職員室で対応をためらっているうちに生徒の方が飽きてしまって、車へのいたずらはだんだんとなくなってきた。でも、教師としての仕事はなされなかった。学校としての指導は皆無だった。ダメなものはダメだとはっきり伝えなければならない。大人の仕事、教師の役割はそれが一番重要なのではないか。
北田先生は次の年も同じ学校勤務となり1時間の通勤時間を愛車スターレットとともに続けることになった。「あいつ」は3年になってもいろんな悪さをした。教室の掛け時計を3個も自分の部屋に隠していた。のりも、はさみも、テープカッターも、カッター版も持ち帰っていた。彼の部屋にあったそれらのものは、すべてきちんと整理してあった。すぐに学校に取り返されることも知っていた。
「わざとだよ!」
「あんたに家庭訪問して欲しいんじゃないの」
先輩達はそう言った。
行くたんびに母さんは恐縮して平謝り。本人はにやにやするだけ。そんな「あいつ」も卒業式には声を上げて泣いた。母さんも泣いた。そして、北田先生に紙箱を手渡して言った。
「これ昨日部屋から出てきたんです。」
蓋を開けてみると、給食のスプーンとフォークがそれぞれ20本も入っていた。
あの当時の先割れスプーンの先端がきれいに磨かれていた。
「あいつ」は、例の「乱入者」と同じチェーンのラーメン屋に修行に入った。が、長続きはしなかった。一年もたたないうちに仲間と一緒に鳶職の会社に就職した。
牛乳を粗末にしただけに、食べ物には向かない性格だったのかも知れない。
2年間この学校で代替え教員として採用された北田先生も、「あいつ」の卒業にあわせて次の学校へと臨時採用の口を見つけて異動することとなった。3年目、そして4年目も教員採用試験にはパスできなかったのだ。試験には合格させられないけれども、非常勤としてなら「教員」に扱ってもらえる生活ができるのである。不思議なことだったが、それも現実と受け取って従うほかはないのだった。
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