水に入れない友人

三浦悠矢

前編

 今か今かと待っていたチャイムが鳴る。来週から始まる、夏休みを前にした最後の授業は、たまらなく退屈で、長く感じた。

 窮屈な時間からようやく解放され、大きく伸びをする。

 さて、来週から待ちに待った夏休みが始まる。高校二年の夏休みはどう過ごそう。去年の夏休みは、無計画にバイトのシフトを入れてしまい、遊ぶ暇は無かった。親譲りの生真面目な性分で、バイトをさぼったりしなかったことも災いした。来年は進路で忙しいだろうから、今年の夏は目一杯楽しみたい。

 だが何をしよう。

 何かヒントは無いかと教室を眺める。だが目に入るのは、夏期講習の案内の張り紙や、生徒会だよりなど、遊びとは無縁なものばかりで、役に立ちそうなものでは無い。何か面白そうなものはないかとスマホを見る。

 SNSを開き、二、三度スワイプすると、今日の気温についてのページが出てきた。なんでも俺の住む地域は三十六度の猛暑らしい。今日はやけに熱いなと思っていたが、それほどの気温だとは。朝にテレビを見る習慣が無いので知らなかった。

 そうだ。これほどの熱さならばプールに行くのはどうだろうか。冷たい水を浴びればきっと気持ちいだろう。それに、いかにも夏休みらしい場所だろう。

 だが誰と行こう。彼女はいないし、今の所は、作る予定も無い。となると遊びに行く相手は男友達に限られる。となると。

 導かれるように正面を向き、前の席に座る清宮に声をかける。清宮とは、高校一年からの付き合いだ。二年生になった今でも、そこそこの仲だ。

「なあ清宮。来週の月曜空いてないか?」

「月曜? ……あー暇だな」

 一人でスマホをいじっていた清宮は、少し考えて言った。

「なら、プール行かないか?」

「プール? すまん無理だ」

 清宮は申し訳なさそうに言う。

「なんだ、お前泳げなかったのか」

 俺は口角をあげて言う。成績優秀の清宮が泳げなかったとは。俺がいつも負けている相手に欠点があることがわかり、少し気持ちがいい。

「いや、泳げないというより、水に入れないんだ」

「お前、ガキじゃあるまいし……」

 高校生にもなって水が怖いとは。清宮がプールサイドで立ち尽くす姿が目に浮かぶ。

「違うんだ。水が怖いんじゃなくて、本当に入れないんだ」

「んなわけ——」

「じゃあ、本当だと証明してやる。学校終わったらうちに来い」

 そんなわけで、バイトも無かった俺は、清宮の家に行くところになった。

 

「ここがお前の家か」

 バスで小一時間ほどの距離にある、清宮の家は、絵に描いたような田舎の家といった印象だった。広い庭に古びた家屋。ちょうど山や川に囲まれ、田んぼと一軒家が立ち並ぶこの辺りは、町というより村に近い。

「いいから入れ」

 清宮は俺の手を引き家の中に入れさせる。

「ただいま」

「お邪魔します!」

 自分でも気持ち良すぎるなと思えるぐらい、気持ちの良い挨拶をする。

「あーおかえり……あっいらっしゃい」

 出てきたのは清宮の母では無く、俺達より少し年下の少年だった。恐らく中三かそこらだろうか。弟なのだろうか。顔立ちや、雰囲気が似ている。

「お前弟いたんだ」

「あれ、言っていなかったか。弟の洋次郎だ」

 清宮洋太郎は言ったはずだが、と言いたげな表情をする。そういえば弟の話を何度か聞いたことがあったような気がする。まあ友人の兄弟なんて会っていなければ忘れるものだ。

「どうも……」

 洋次郎はそれだけ言うと、自分の部屋に戻っていった。人見知りなのだろうか。

「お前の家、兄弟で太郎、次郎っていつの時代だよ」

「うっさい」

 そう言いながらも清宮は、俺を座布団に座らせ、冷蔵庫から麦茶を出す。

 若草色の座布団はかなり昔から使われてきたのか平たく潰れていて、下の畳の硬さが直に伝わる。思えば座布団だけでなく家全体が古く、築七十年は下らないだろう。

 家を眺めると、奥の和室に仏壇が見えた。目を凝らしてみると、清宮の祖父であろう人物が遺影となって鎮座していた。仏壇の様子から見るに、ここ四、五年前に亡くなったようだ。

「お待たせ」

 玉暖簾を通って清宮がおぼんを持って戻って来た。おぼんには麦茶の入ったコップが二つと、水が入ったボウルが乗っていた。

「どうも」

 俺は軽く礼を言ってコップを受け取る。麦茶の中には氷が幾つか入っており、コップの側面に当たり心地よい音を奏でている。見ているだけで喉が渇いてきたので、一息に飲み干す。

「さて、どうして水に入れないのかな」

 俺は顎の下で手を組む。

「見ていろ」

 清宮はボウルに手を入れる。ボウルからは水が溢れ、机を濡らすが、清宮は気にする様子は無い。

「?」

 やがてボウルから手を抜く。本来ならばボウルから出た手は水が滴っているはずだが、清宮の手は一滴の水もついていなかった。

「ほら」

「すげえな。どんな手品を使ったんだ」

 清宮の手をまじまじと見つめて言う。やはり少しも濡れていない。

「手品じゃない」

「じゃあなんだ」

 一呼吸おいて清宮は言う。

「祟り……いや呪いだな」

「呪い」

 清宮の言葉を反芻する。呪いという言葉は、現実味が無く、飲み込むのに時間がかかる。

 しばらくの間思案して、ようやく出てきた言葉は「そんなことあるわけないだろ」だった。なんだかオカルトめいた話になってきた。

「僕だってそうだと思っていた。呪いなんて存在しないと。だけど信じざるを得なくなった」

 そう言うとボウルを持って、縁側から外に出て行った。

「どうやっても水に濡れられない。こうやって水を被っても——」

「ちょ、おい!」

 俺が止める間もなく、清宮はボウルの水を頭から被った。

「もう手品もクソも無いだろう?」

 清宮の服は水が絶えず滴るほどに濡れていた。だが清宮の髪や肌はやはりと言うべきか全く濡れていない。

「……信じるよ。これだけ見せられたら信じるしかないな」

 目の前で起こっていることが未だに信じられないが、もはや信じるしかない。

「だが、お前が水に濡れないのは分かったが、濡れないだけなら泳げるんじゃないか? むしろ濡れないなら色々と便利だと思うが」

 身体が濡れないなら拭く手間が省けていいと思う。むしろ少し羨ましい。……あれ、水に濡れないならこいつはどうやって風呂に入っているのだろうか。そう思うと自然と後ずさりをしていた。

「正確には水に濡れないのではなく、水に嫌われているんだ。だから、水に入っても沈むだけで泳げない。……その顔は僕の風呂事情を想像したな。安心しろ、ちゃんと毎日入っている。幸い、垢や埃は僕ではないと判定されるらしく、水を浴びればしっかり流れ落ちる」

 しまった。顔に出ていたか。だが清宮は続ける。

「……本当はプールに行ってみたい。風呂に入って気持ちよくなってみたい。だけど、出来ない。出来ないんだ」

 清宮は弱弱しく叫ぶ。俺はそんな清宮が可哀想に思えた。水が怖いのではないかと煽っていた俺が恥ずかしくなった。

「じゃあさ……プールじゃなくて……川遊び……いや、川でキャンプでもしに行かないか? たしか、去年同じクラスだっただいちゃんがキャンプに詳しかったろ? だいちゃんとお前の三人でキャンプに行こう。川なら泳がなくても涼しいだろうし、話を聞いた限り、川の流れに邪魔されずに魚を取れるんじゃないか? 川魚を取って三人で食おうぜ」

 無我夢中に言葉を吐き出す。前にだいちゃんがキャンプに行った話を覚えておいてよかった。都合のいいことにだいちゃんと清宮は仲が良かったはずだ。

「……そうだな……そうだ、行こう。絶対に行こう」

 清宮の顔には眩しいぐらいの笑顔が浮かんでいた。やっぱり清宮には笑顔が似合う。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る