第14話
重く冷たい石の扉を押し開き、シオは施療室を後にした。背後で静かに閉まる扉が、彼と、再生された身体に殺意を宿す剣闘士との間の濃密な時間を物理的に区切る。通路の空気は、施療室の血と魔術の残り香とは違い、ひんやりとして乾燥していた。
(…終わった)
安堵とは違う。むしろ、ずしりとした疲労感と、答えの出ない問いが生み出す重さが全身にまとわりつくようだった。剣闘士の最後の言葉
「お前みたいな手に……初めて触れたよ」
が、耳の奥で微かに反響している。
(僕の手……)
自分の手のひらを見つめる。特別なことなど何もない、ただのガキの手だ。それでも、あの男はそこに何かを感じ取った。それは何なのだろうか。
今は考えるのをやめよう。シオは息を吐き、意識を切り替える。ミストリアでの彼の役割は、重傷者の治療だけではない。その容姿と、どこか儚げな雰囲気を買われ、VIPである貴族たちの接待補助も重要な任務の一つ。本来なら、剣闘士のような事故の後処理が終われば、すぐにでも持ち場に戻り、貴族たちの機嫌を取り結び、彼らの退屈を紛らわせるための飾りとして控えている必要があった。
彼は急いで服を着替え、無意識に浮かべていたであろう険しい表情を、いつもの穏やかな、少し影のある微笑みに戻そうと試みる。地下通路の冷たさが、火照った思考を少しだけ冷ましてくれるようだった。貴族たちの待つラウンジへ向かおうと、角を曲がった、まさにその時だった。
「シオ君、少し良いかしら?」
凛とした、けれど有無を言わせぬ響きを持つ声に呼び止められ、シオは思わず足を止めた。通路の壁に片肘をつき、長い朱色の髪を揺らしながら立っていたのは、このミストリアの支配人、アリア・グランギニョルその人だった。彼女の紫色の瞳が、じっとシオを見据えている。その視線は、労いのようでもあり、値踏みするようでもあり、シオは僅かな緊張を覚えた。
「アリア様。はい、何でしょうか?」
背筋を伸ばし、雇い主に対する礼儀正しい態度を取り繕う。
「貴族対応に戻るつもりだったのでしょう? その前に、少し報告を聞きたいのだけれど。」
アリアは壁から身を起こし、ゆっくりとシオに近づいてくる。その優雅な動作とは裏腹に、纏う空気には有無を言わせぬ圧があった。
「報告、ですか。……例の剣闘士の方のことで?」
やはり、とシオは内心で思う。
あの事故の後始末について、支配人が直接確認に来るのは当然の流れだろう。
「ええ。治療は完了したようね。レミから一報は受けたけれど、あなたの口から直接聞きたいわ。状態は?」
アリアの問いは、あくまで業務的な響きを保っている。
「はい。命に別状はありません。欠損した左脚、粉砕された肋骨、潰れた右目も、可能な限り再生させました。ただ、右目の視力の回復は難しいかと……。しばらくは絶対安静が必要ですが、身体機能としては、いずれ戦闘にも復帰できる状態まで回復するはずです。」
シオは努めて冷静に、事実だけを報告する。脳裏には剣闘士の記憶と殺意がちらつくが、それを悟らせるわけにはいかない。
「そう。……見たところ、あなたも随分と疲れたようね。」
アリアの視線が、シオの顔に残る僅かな疲労の色を捉えているようだった。
「何か……変わったことはあったかしら? 例えば、患者の様子とか、治療中の反応とか。」
核心に触れる質問。アリアはどこまで知っているのだろうか? いや、知らないはずだ。僕の副作用のことなど。これは単なる確認か、あるいは僕の反応を見るための探りか。
(……落ち着け。いつも通りに……)
シオは一瞬だけ逡巡し、そして答える。
「……はい。予想以上に損傷が酷く、内部組織の再構成に手間取りました。再生にはかなりの魔力と集中を要しましたので……。特に、精神的な消耗が…普段より少し、大きいかもしれません。」
嘘ではない。事実、治療は困難を極めた。精神的な消耗も激しかった。ただ、その理由をすり替えただけだ。魔術の困難さに起因する疲労だと。
アリアは黙ってシオの目を見つめる。その紫の瞳の奥の色は読み取れない。シオの説明に納得したのか、それとも何かを見抜いた上で泳がせているのか。 やがて、彼女はふっと息を吐き、わずかに口元を緩めた。
「そう。ご苦労だったわね、シオ君。重要な駒を繋ぎ止めてくれたこと、感謝するわ。」
その駒という言葉に、シオの胸が小さく痛んだ。
「貴族対応は他の者に代わらせるわ。あなたは少し休みなさい。そんな血の臭い漂わせて貴族の前に出るつもりかしら?医務室で仮眠を取るなり、自室に戻るなり、好きにしていいわよ。」
それは労いの言葉のようでもあり、同時にこれ以上余計な詮索をするなという牽制のようにも聞こえた。あるいは、消耗したシオを一時的に隔離し、様子を見るつもりなのかもしれない。どちらにせよ、今のシオにとって休息が必要なのは事実だった。
「……はい。ありがとうございます、アリア様。」
シオは深く一礼する。
「ただし、」
アリアは付け加えた。
「あの剣闘士については、今後も注意深く観察するように。何か変化があれば、些細なことでも私に報告を。いいわね?」
「……承知、いたしました。」
結局、監視の目は続くということか。シオは内心でため息をつきながら、改めて頭を下げた。
アリアはそれ以上何も言わず、踵を返し、優雅な足取りで通路の奥へと消えていった。 一人残されたシオは、しばらくその場に立ち尽くしていた。貴族たちの待つ華やかな、そして欺瞞に満ちた空間へ戻るはずだった足は、今はどこへ向かうべきか決めかねている。
アリアの言葉。
『駒』
剣闘士の問い。
「お前に、俺の痛みが分かるのか?」
そして、サルサの最後の願い。 それらが混ざり合い、重くシオの心にのしかかる。
(休め、か……)
「……疲れた……」
今はただ、アリアの指示に従うしかない。シオはゆっくりと歩き出す。自室へ向かう、薄暗い通路の奥へと。その足取りは、治癒を終えた安堵感よりも、新たな責務と秘密を抱え込んだことによる、確かな重さを伴っていた。
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