三十日後に微笑むオッサン

澤ノブワレ

1998年 秋

9月11日

 あ、という間の抜けた声と一緒に、陽翔の頭上をサッカーボールが飛び越えていく。ボールは秋空に見事な放物線を描き、空き地の奥にそびえるフェンスを越えて雑木林に入ってしまった。あー、と間の抜けた声が再び聞こえ、陽翔は思わず孝弘をにらみつけた。


「あー、じゃないだろ。どんだけ強く蹴ってんだよ!」

「ご、ごめん」


 孝弘はモジモジしながら呟く。そのヘラヘラした顔が、陽翔をさらに苛つかせる。本当は垂れさがった眉と目尻のせいでそう見えるだけだと分かっていても、いつも無性に腹が立ってしまうのだ。


「ほ、ほんとにごめんね」


 友だちの苛立ちを察したのか、孝弘は焦ったように謝罪を重ねた。謝られるほど厭なものが込み上げてくる気がして、陽翔は首をブンブン振った。


「謝っても仕方ないだろ。とにかくボールを探しに行かなきゃ」


 踵を返してフェンスに向かおうとする陽翔を、孝弘が呼び止めた。


「で、でも、あの雑木林には入っちゃいけないよ」

「は? 何言ってんだよ。入らないと探せないだろ」

「それはそうだけど。あそこにはオッサンが……」


 陽翔は振り返って目を剥く。


「お前、あんな噂を信じてるのかよ。ガキじゃあるまいし。いいか? あれはパパに買ってもらった大切なボールなんだぞ。そんな馬鹿げた噂のために諦められるわけないだろう」


 一瞬、孝弘の顔が曇る。が、陽翔はそんなことには構わず、歩き始めた。


「ちょっと、ダメだってば」


 なおも呼び止める友人に、陽翔は振り向きもせずに吐き捨てた。


「もう帰っていいよ、お前。俺一人で行くから」


 フェンスを上り始めた陽翔に、孝弘の返事は聞こえなかった。




 昼間だというのに雑木林は薄暗く、鬱蒼うっそうと茂ったシダやツタが容赦なく足に纏わりついくる。サッカーボールは草に埋もれているだろうな。見つけるには骨が折れそうだな。息まいて中に入ったものの、陽翔は少し後悔し始めていた。


「くそ、どこ行ったんだよ。ていうか、なんなんだよアイツ。普段はボールに足を当てるだけでも精一杯のくせに、マグレ当たりでバカみたいに飛ばしやがって……」


 陽翔がこの田舎町、御幸町に来たのは一年前。小学五年生の秋だった。都会っ子で垢抜けた雰囲気の陽翔は、クラスメイトともすぐに仲良くなった。転校して二カ月が過ぎるころには、既に陽翔はクラスの人気者になっていた。都会から田舎に引っ越して、初めは不満や不安もあったのかもしれない。だが、そんなことはすぐに忘れてしまった。


 「かもしれない」というのは、陽翔に転入してから一カ月の記憶がないからだ。新しい学校に入って一カ月が経つ頃、彼はうっかり足を踏み外して階段から派手に転げ落ちたのだ。その時に頭を打ったせいで、記憶が飛んだらしい。どうして一カ月の記憶だけが喪失したのかは分からない。医者は「そういうこともある」などとずいぶん適当なことを言っていた。


 陽翔がクラスメイトとすぐに打ち解けたのは、その事故のお陰でもあった。退院した陽翔のことをみんなが心配してくれた。みんながこぞって話しかけてくれた。怪我の功名というやつだ。事故から一年経った今でも、時おり頭の傷が痛むことがある。その度に陽翔は何とも言えない気持ちで苦笑するのだった。


 そんな陽翔とは対照的だったのが孝弘だ。孝弘は三年生のときに転校してきたのだが、鈍くてヘラヘラしているせいか、いつまで経っても学校に馴染めず、クラスでも浮いた存在だった。「そういうのを放っておけない」性格の陽翔は、孝弘と一緒に遊んであげるようになったのだ。六年生に進級しても同じクラスだったのは、そういった様子を先生たちが見ていたのかもしれない。


 ふとひらけた場所に出て、陽翔の足が止まった。その一帯だけ木が生えておらず、雑草やツタが綺麗に刈られている。広さは教室ほど。フェンスからさほど離れていない場所に、明らかに周囲とは異質な空間があった。だが、陽翔の足を止めたのはその異質さではなかった。


 その空間の向かって左端に、大事なサッカーボールが転がっていた。けれど、取りに行くことが出来ない。なぜなら、ボールのすぐ横に何かが見えたからだ。そして……


 それが人の足だと認識した瞬間、陽翔の脚は強張ってしまった。


      ※


「ねえ、陽翔。茂みのオッサンって知ってる?」


 陽翔が転校してきて半年ほどが経った頃、同じクラスの奈緒なおが話してくれたことがあった。奈緒は陽翔が退院したとき、真っ先に話しかけてくれたクラスメイトだ。そのせいもあって、陽翔とは六年になった今でもよく話している。ショートカットの日に焼けた活発な少女。クラスの連中から二人の仲を冷やかされることもあるが、正直なところ、陽翔は満更まんざらでもなかった。


「オッサン? 知らねえ。何だよ、それ」


 なかば茶にするような口調で返した陽翔だったが、奈緒の表情は真剣だ。


「やっぱり知らないんだね。あのね、この町には、茂みのオッサンっていう怖い話があるの。ほら、フェンスの建ってる空き地があるでしょ。で、フェンスの向こうが雑木林になってるでしょ。その雑木林の中にね、変なオッサンがいるんだってさ」


 陽翔は心の中で溜息をついていた。前の学校でも同じような噂はたくさんあったのだ。トイレの花子さんだの、紫の鏡だの、百キロババアだの……小学五年生にしてはマセていた陽翔にとって、そんなものは馬鹿馬鹿しい迷信でしかなかった。怪談話や都市伝説を嬉しそうに話す同級生たちを、陽翔は心の中で小馬鹿にしていたのだ。


「オッサンは雑木林の中にじっと立ってるんだって。じっと一点を見つめて、ニヤニヤ笑ってるんだって。もしそのオッサンを見つけても、絶対に近寄ってはダメなんだって。もしオッサンと目が合ったら、自分がオッサンにされちゃうんだって」


 〇〇なんだって、というケレンミたっぷりな伝聞体の連発に、陽翔はウンザリしてた。


――なんだよ、オッサンって。まだ花子さんの方が百倍マシだよ。


 奈緒があまり真剣に話すので一応は聞いていたが、陽翔は途中からあからさまに興味のない生返事をしていた。


「ちょっと、聞いてるの?」

「え、ああ、うん。聞いてる」


 奈緒は少し気を悪くしたようで、話を切り上げてしまった。が、最後に一言だけ念を押した。


「だからね、あの雑木林には、絶対入っちゃだめだよ」


      ※


 陽翔はしばらくの間、金縛りのようにじっとしていた。サッカーボール、足、サッカーボール、足……交互にピントを合わせながら、背中に粘っこい汗が伝うのを感じていた。


 幸か不幸か、見えているのは足だけだ。足の主はひらけた空間のいちばん隅に立っていて、上半身は生い茂った低木の枝にちょうど隠れている。よく見ると、ストライプの入った薄茶のスラックスに黒い革靴……どうやらスーツを着た男のようだ。


――茂みのオッサン……


 不意にその言葉が頭をよぎる。出来の悪いギャグだと思っていた話が、急に現実感をもって陽翔に覆い被さってきた。


――何考えてるんだよ。あんなものは迷信に決まってる。そうだ、きっと誰かがたまたま雑木林の中にいて、ボールが急に飛んできたからビックリしてるんだ。


 そう思って踏み出そうとするが、やはり足は動かない。すぐにでも逃げ出したい衝動が胸の底から込み上げてくる。


 陽翔の脳内で、いろいろな考えが錯綜する。

 

 もしボールを失くしたなんて言ったら、ママに怒られるだろうな。

 でももし本当にあれが「茂みのオッサン」だったら……

 あのまま放っておいたら、あの人にボールを盗まれるかも……

 せっかく買ってくれたパパは悲しむだろうな。

 それにサッカーの練習が出来なくなるのも嫌だ。

 いやいや、「茂みのオッサン」なんているわけないじゃないか。

 いや、待てよ。もしそうじゃ無かったとしても、変質者か何かだったら……


 ……そうだ!


 散々に考えを巡らせて、陽翔はある方法を思いついた。何のことはない、今いる場所から声を掛ければいいのだ。幸い、陽翔のいるところから男のいる場所までは距離が離れている。もし男が妙な動きをしたら逃げれば良いし、彼が良い人でボールを渡してくれればそれで万事解決。シンプルにして完璧な作戦だ。


 陽翔は意を決すると、一つ深呼吸をして呼びかけた。


「あ、あの、すみません!」


 少年の軽率な思惑は完全に外れた。呼びかけを受けても、足は微動だにしなかったのだ。


「す、すみません! そのボール、俺のなんです。取りに行っていいですか?」


 再び声を掛けたが、何の反応もない。雑木林に声が虚しく木霊こだまする。その後も何度か声をかけたが、同じことだった。


 やがて、陽翔の足は勝手に動いていた。あまりの無反応に痺れを切らし、思考がおかしくなっていたのかもしれない。「あれは多分動かない」という根拠のない確信さえ生まれつつあった。不思議なもので、一歩踏み出すともう一歩もう一歩と足が前に出ていく。もはや足音を消そうともせず、距離を詰める。それでも、やはり男の顔を見てはいけないような気がして、陽翔はサッカーボールだけを真っすぐに見つめていた。


 いよいよサッカーボールに手が届く所まで近づいても、男は微動だにしなかった。陽翔はしゃがんで恐る恐るボールに手を伸ばすと、一気にボールを手繰り寄せた。


 そのまま、何も考えずに走り去れば良かったのだ。


 だが、人間は見るまいと思うものほど見てしまう。陽翔には特に、そういう悪い癖があった。ああするなこうするなと言われるほどしたくなる……いわゆる天邪鬼な性分が強かった。


 ボールを胸に抱えて立ち上がろうとしたとき、陽翔は思わず男の顔を見上げていた。その瞬間、陽翔は声にならない叫びを上げた。


 男はその場所に立っていた。ただただ、立っていた。


 何年も洗っていないようなボロボロの蓬髪……

 そこから覗く土色の顔には、一切の生気が感じられない。

 口は半分開き、肌は樹皮のような凸凹に覆われている。

 スラックスと揃えられた薄茶のジャケットは擦り切れ、ワイシャツの襟元は垢と脂でどす黒く染まっていた。


 そして何よりも異様なのは、その目。

 木の瘤の如く腫れあがった瞼がダラリと垂れさがり、目尻を覆っている。その隙間から覗く目に輝きはない。しかし、その視線は明確に一つの方向を指しているのだった。


「わぁあ……うわあぁぁぁあああ!」


 堰を切ったように叫ぶと、陽翔は半ば這いつくばるようにして逃げ出した。




 死に物狂いでフェンスを越えていると、孝弘の声がした。どうやら帰らずに待っていたようだ。


「だ、大丈夫? なんだか、凄い悲鳴が聞こえてきたけど……あ、ボ、ボール見つかったんだね。良かったぁ」


 暢気な口調の友人に、陽翔の中で怒りがふつふつと湧いてくる。


――ふざけんなよ。もとはといえばボールを失くしたのはお前だろ。なのに探しにも行かないで、ずっと外でブラブラしてたのかよ。一体どういう神経してるんだ!


 あまりの腹立たしさに、陽翔はフェンスの半ばから飛び降り、孝弘に食って掛かろうとした。が、どうやらまだ恐怖に足がすくんでいたようだ。そのまま前のめりにつんのめって、顔から地面に突っ込んでしまった。


「ええ? ちょ、ちょっと、大丈夫?」


 慌てて孝弘が駆け寄る。怒りと恥ずかしさと情けなさと、それから顔を擦りむいた痛みで頭がグチャグチャになって、陽翔は半ば涙汲んでいた。のろまな孝弘が到着する前に陽翔は立ち上がり、訳の分からないことを喚き散らしながら走り去っていった。

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