第18話 薔薇の名前
私・千石片帆の今の棲家は母方実家にあります。牧師館を改装した岐門伯爵邸本館二階で、伯爵令嬢であった母・瞳が使っていたお部屋でした。
事件が起きたのは九月の朝のこと。目覚めたら掛布団の上に五本の紅い薔薇が添えられていたのに気づいたのです。
ベッドから飛び起きた私は、鏡台の鏡に自分を映すと、双眸の瞳がまんまるになっていた。思わず両手で唇を押さえちゃいました。
これはなんの嫌がらせ。うら若き娘が眠っている間に、賊がやってきて、寝室に一輪置いて立ち去るなんて、ドン・ファンか、カザノバか、怪傑ゾロか。あるいはアルセーヌ・ルパンか。私は唇にそっと手を当てる。
――もしかしたら寝ている間に唇を奪われているかもしれない!
もしかしたら寧音さんが、式神の管狐さんを使っての悪戯かな? 殿方との浮いたお話しがない私をからかっていらっしゃるの? ――いえいえしっかりなさい千石片帆、私は教育者なのよ! ――私は、ぶつぶついいながら、寝間着から着物・女袴を羽織り、階下の食堂に入りました。
その日の朝食は洋風で、サラダ、魚貝のスープ、ベーコン・エッグ、パンケーキ、それに果物と紅茶でした。ソフトドリンクに珈琲とお紅茶が用意されておりましたが、女高師(※女子高等師範学校)時代のお友達はどなたも召し上がりませんでしたので、自然と私もそんな習慣が身についてしまったのです。夕子叔母様もそうです。
天井にはシャンデリア、壁には暖炉。そして床にはクッションとして畳をつかい、赤絨毯を敷く。お部屋の中央に置かれた長テーブルの上座にはおじいさま、下座には叔母様、そして、お二人の間に私の席があった。
お食事時に、
「ねえ、夕子叔母様、良家女性はなぜ珈琲を召し上がらないのでしょうか?」
「ああそれね。――その昔、アメリカがイギリス植民地だったころ、本国が不当な関税をかけたり、本国の衆議院参加を拒んだりしたため、現地の人が怒って、ボストン港に停泊していた交易船を襲って、積荷を海中に投棄する事件がありました。所謂〝ボストン茶事件〟ですね。この事件を機にアメリカ合衆国が英国から独立することになるわけですが、以来、久しくアメリカ人は紅茶を飲まなくなります。それに対抗して、イギリス人も珈琲を飲まなくなったのです。――日本の女子教育は英国淑女に範をとるので、それに倣っているのです」
「あら、叔母様、ロンドンにはカフェ文化というのがあって、英国紳士の社交場として一時代を築いたって学校図書室のご本に書いてありましたわ」
スープを一口すくった、おじい様が私たちの会話に参戦なさって、
「一八世紀後半から、紅茶が下層階級にも浸透して、珈琲ハウスは廃れていくことになる」
「さすが、おじい様は博学でいらっしゃる」
叔母様と私は声をそろえ、おじいさまのほうへ視線をやると、おじい様はすましたお顔をなさっていらしたけれど、まんざらでもない様子です。
そんなことより――
「そうそう、私のベッドの掛布団に赤い薔薇が添えられていましたが、この悪戯をなさったのは叔母様ですか?」
「あら、違うわよ」
「私です」
そう名乗りでたのは、家政婦長の福子さんでした。
岐門伯爵家の使用人は、福子さんの他に、家令の山川さんと従僕の白井さんの三人がいらっしゃいます。おじい様と叔母様、そして私の三人が食事をしている間、壁際に立ってお給仕をなさるのです。
福子さんが続けて、
「おめでとうございます。
「はい?」たぶん私の目は点になっているはず。
おじい様が福子さんの言葉を補うように、
「片帆を正式に岐門家の養子に迎えることにした。ものはついでだ。婿も用意した。なかなかのイケメンであるから楽しみにするがよい」
「はい?」降ってわいたようなお話しなので、返す言葉もありません。
「諸般の事情あって夕子が結婚することはかなわない。ゆえに片帆、おまえが婿を取って岐門家の跡取り娘となるのだ」
私はそこで三回目の、「はい?」という言葉を吐いた。
「来週、婿殿を招き、宴を催す。余興には狩りもするから楽しみにしておれ」
「狩り? あの私、鷹狩りとか鉄砲撃ちとかできませんが……」
助け船をだすように家令の山川さんが、
「姫様におかれましては、ただその場にいて下さればよいのです。――旧幕(江戸)時代、五万石の大名でございました当・岐門家は、他家でもそうだったように、鷹狩りという名のピクニックをなさっておりました。明治の御代以降は欧米風の狩猟に、趣向が変わります。――山野の獣は定期的に獲りませんと、里の作物を荒しますので、里人たちと協力し、定期的に害獣駆をするのですよ」
あはは、要は置物ですね。
それから瞬く間に一週間が過ぎて、先方殿方との初顔合わせになりました。
お留守番の家政婦長の福子さんを除く岐門家総出の〝ピクニック〟の始まり始まり――。
*
岐門町を取り巻くように広がる森林地帯の大部分は、岐門伯爵家の所有地になっています。私たちは森の中を流れる小川の畔で陣取っていると、従僕の白井さんが、よく躾けられた猟犬の紐を外してやりますと、それらは森の奥へと消えて行きます。
夕子叔母様と私はドレスアップして、それぞれ馬に横座りをし、殿方のゲームを観戦いたします。
日傘をさした叔母様が、
「猟犬四はアイヌ犬で、現地人は熊撃ちにもつかっている。――猟犬は森の奥で獲物を見つけると、吠えたてて、銃を構えたおじい様やお客様のいる方へ、と追い込むのです」
東京でお友達と見たことがある、活動写真(映画)の一幕にあった欧州貴族の〝狐狩り〟みたいな感じ――というか、ほとんどお祭りでした。猟犬のほかに、岐門町近郊農家の皆さんが勢子に加わって、害獣を追い立てて下さいます。――害獣というのは、熊や鹿、狸、兎が挙げられます。
犬が放たれて間もなく、白馬に乗った貴公子が私のところに馬を寄せて来て、
「片帆
貴公子は
――あれっ、デジャビュー? この方とはどこかでお会いしたことがあったと思う。
秀太朗様は駒の踵を返すと、先を行くお爺様の駒の後を追って、森の木立を駆けて行かれました。
獣たちは茂みや木立に隠れつつ、森の中を逃げて行きます。
けれども獲物を追う猟犬や勢子は二手に分かれ、沼地の淵や岩場の袋小路に誘い込んでいきます。
「夕子叔母様、私が学生だったころ、学校図書室にフランスの画家ロートレックのレシピ本があったので、読んだことがありますのよ」
「へえ、どんなことが書いてあったの?」
「ロートレックのご実家はバロア朝以来の伯爵家なのだそうで、母君はそこのご親族で、自前の城館をもった貴婦人だったとのこと。ロートレックは晩年、母君の館で亡くなるのですが、画家は母方ご実家のレシピを書き留めていたので、弟君とご友人が没後整理して、一冊の本にしています。――いわく、狩猟の楽しみは、狩りをすること、料理をすること、そして絵にすること――なんですって」
「まあ」夕子叔母様が扇子で口元を隠し、笑みをお浮かべになりました。
そんなとき――
森の中を散策すると、ときたま鹿や兎と鉢合わせになることがあるそうですが、まさにそんなことが起きました。ヒグマがぬっと姿を現したのです。ヒグマは再び四つん這いとなって、こちらに向かって猛ダッシュしてきました。愛馬ハナちゃんもパニックでヒヒーン……。振り落とされそうになる私――。
――はい、私、死にました……。
横を見ると馬上の夕子叔母様は涼しいお顔のままではないですか。――さすがは生粋の淑女様!
実を言うと馬上の叔母様と私の横には、家令の山川さんと、従僕の白井さんのお二人あ控えていて、万が一に備えていたのです。お二人はなぜだか陸軍十四年式拳銃を所持していて、連携してヒグマに八発ずつ撃ち込み、それから日本刀を引き抜きました。閃光が宙で放物線を描き、それはしばらく天を仰いだあと、土ぼこりを上げ突っ伏したのです。
このとき白井さんは二十七歳で納得するのですが、山川さんはこのとき八十七歳だったのですよ。――信じられません!
*
ほどなく――
おじいさまと大鳥様が、モッコで仕留めた獲物をかついだ勢子の皆さんと一緒にお戻りになりました。
火を焚いて、狩りに参加したみんなで獲物を解体し、腐りやすい小腸などの内臓は猟犬にご褒美として分けてやります。
大鳥様いわく、
「
焼いた肉を頬張っていた皆も笑っていました。
叔母様が、
「片帆さん、大鳥様はよい方のようね。よかったじゃない」
「ありがとう存じます」
家令の山川さんから獣肉の串刺しを渡された私は、口にする前に、そう言葉を返しました。
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