帰り支度~閑話~

「そりゃいいが、明後日には出るつもりだが、間に合うのかな」

 降って湧いたような急な話にマジンは尋ねてみる。

「兄にはそう伝えてあります。ダメでも飛行船の見学をさせてもらえれば、と言ってましたが」


「心配しているのは、そこではないんだが。――飛行船の見学と云って観て面白いかな」

 そう云ったマジンの顔を見ているうちにマリールが口元を抑え吹き出した。


「うぷぷ。それがですね。その兄ラジウスっていう四番目なんですが、学志館の論文、いつの回のだか手に入れたらしいんですが、なんと十二万タレルも払ったらしいんですよ。それがまた読み終わっていないうちに盗まれてですね」


 学志館で配布した論文は早いものでも十年は経っていないから、完全な形の複製本や私家本の印刷は出回っているという程でもないが、手控えのような抜粋と注釈をつけたものは写本の形でバラバラと存在していて、デカートではすでに当たり前になった簡便なライノタイプによる活版印刷やしばしば図表が読み取りにくくなっている写真製本によってそこそこの量が学志館の学徒を中心に安く出回っていた。

 安いと云っても金貨一枚を割り込むことは稀だったが、まぁだいたいそんな感じの値段で薄手ながら読み応えのある冊子を、しかし理解の跳躍の必要な内容をまとめて一人で読み込むことはほぼ不可能であったから、そういう読み物を電灯の光の下で数名で読みこむことが一種の流行になっていた。

 これまでおよそ読本読書というものは物品としても趣味としても一般には理解されないものだったが、学徒を中心に町中のあちこちで難解な本を難しい顔をして幾人かで額を寄せあっている姿が見られ、かと思えば計算尺以外に数字の用のなさそうな工房でも似合わない本を読んでいる者達が増えてきた。


 金貨一枚と一言で云って流民なら一財産だし、開拓民であればその金で種芋でも籾でも壊れた農具でも一揃え或いは納屋や家の屋根壁を治すかという金額だから学生が気楽に読み捨てるにはあまりに高価でもあったが、鉄道ができてこっち日雇い旬雇い月雇いと稼ぎ口の数も質も増えていて健康で動きが人並なら鉄道駅のあたりで雨漏りのしない家を借りることは難しくなくなっていたし、日常的に読書ができるくらいに文字の読み書きに明るければ奴隷上がりの流民や亜人であっても人並みに扱われるキッカケになっていた。


 そういう風潮の中で金や伝手があれば手軽に印刷ができることから詩人というモノが単にお家雇われの囲われ者から、一般向けの気の利いた代筆屋や翻案家としてちょっとした文集や歌集或いは散文などを街で売り出すようになり、一家を成す商売生業として文章書きというモノが成立するようになった。

 それは鉄道沿線にバラバラと伝染するように広がり、人々の習俗に多少の変化を与えていたが、多くの土地では今のところせいぜいが、鉄道会社の博士先生がなにやらお勉強なさっている、という程度のことで留まっていた。


 ローゼンヘン工業は専門の製紙工場や印刷製本工場を立ち上げていて社内資料の編纂に急ぎあたっていたが、追いかけ追いかけの仕事で紙や書籍の在庫は常に不足気味でもある。社外向けの製紙産業はデカート官庁向けと軍需以外はほぼ機能していない。


 共和国一般の市井の理解の内では、読書なるものが趣味として成立するのはまだまだ有閑な人々の高雅な嗜みとしてであって、趣味は読書と口にすれば呆れられるか唸られるかいずれ浮世離れした者と見られる有様だった。

 ひとたび鉄道線を離れれば共和国での書籍は紙の生産と印刷の手間と流通の限界と国民の識字率から、極めて高価な品目で金貨数百枚という書籍は実は多い。そうあっても内容が怪し気であることも多く、記述内容の情報としての価値の他に美術品と同じような意味価値を持っていて、マジンの学志館の論文のような、極めてほぼ文字のみが並ぶような書籍は経文宗教書魔道書並に扱われることも多い。

 書籍の代金が金貨千枚を超えるとなると流石に高価ではあったが、求める人々もそういうものだ、とわきまえていることも多いから、多くの人々に薄笑いの対象になることはあっても数寄者や好学の徒或いは衒学趣味の高級な必需品であり先物取引の対象でもある。


 そういう時価と付加価値の付く高価な品であるから、故買目的で狙われることも多い。

「それって笑っていいことなんですか」

 気の毒そうにショアトアが尋ねた。

「十五万タレル払って新しいの買ったら、そこに自分の文字で注釈の書き込みがあって書籍泥棒の一味に懸賞をかけたら、あちこちのお城の図書館長が捕まって大騒ぎですよ。で、あちこちの図書館で書庫にあるはずの稀覯本を調べてみると、全然少なくてあちこちで共有して書庫を探していると称して貸し出したり持ちだした本を取り返したりしていたという」

 ショアトアに構わずマリールが笑いながら続けた。

「学校関係者としては笑えないなぁ」

「我が君の論文くらいの厚さの書籍になっちゃうと写本するって云ってもひとつきやそこらでできるものじゃないですからね」

「セメエ。論文再版の予定っていつになってたっけ」

「来月には案内の返事を取りまとめて部数を決めて、夏の講演会に間に合わせる予定です」

「十かそこら自由になるよな」

「いくらかは余る予定です。二百にならないようにはしてますけど、連絡の怪しい相手様もあるので」

「二十七万タレルはいくらなんでも気の毒だろう。デカートでなら千冊も買えるぞ。百冊差し上げたいがそんなにあっても邪魔だろうしな」

 大量印刷大量製本の技術はローゼンヘン工業の社員教育を支えていた。本社社員の少なくない数が新型の印刷機や製本機の臨時運転員として、教本印刷に携わっていた。

 おかげで論文資料作成の度にローゼンヘン館総出で紙を折ったり、まとめてのりを付けて製本したりという作業をしなくても良くなった。

 型落ちの機械は市井に流れ、ローゼンヘン工業が製紙を事業に加えた時のような衝撃をデカートの様々に引き起こしていた。


「ああ。でも、百冊あっても困らないと思います」

 マリールが云いたいことを察したように気楽に言った。


「そんな運ぶのが骨だろ。帰りはどう考えてるんだ。ギゼンヌまでは鉄道でいいとして」

 いつものことながら距離感の狂ったマリールの言葉にマジンは呆れて云う。

「それより、いつまで置いておく気なの」

 リザが不思議そうに改めた。


「さあ。たぶん、お屋敷がよろしいだけって感じじゃないかと」

「それでいいのか。御役目とかは」

「その御役目が定かならざる方々なので、身分もないような有様ですから」

 マリールはそれでわかるだろうと云うように言った。

「それはまぁまたアレだが、俸禄がなくて身分がないということなら、ウチの社員格で預かってもいいが、それだと兄上は困るのかな。まぁなんというか、資料館の展示物くらいでもまじめに頭に入れようと思ったら一年二年じゃなかなか忙しいと思うんだが」

「お家がなくなった騎士の繋累の方々が多いので、細かなところは兄に聞いてみないとわかりませんが、立場があるわけでも身の証があるわけでもない、由来は知っていても身寄りのない人々ということなので、その辺りはそれぞれということかなと。帝国とはもう何千年だか戦っていることになっていますが、そうそうまじめに戦っているわけでもないので博士の何十人だかで揺らぐようならそれは逆の意味で心配です」


「単に各々の扶持の問題であれば、我が家預りではなく、会社の社員ということであれば、今年も二万くらいも人を雇う気はあるが、仕事はまぁ会社任せということになる。……クライ。社員募集の書類ってステアに積んでいたっけか」

「鉄道部のは確かありましたが、本社の方はどうだったか」

「条件はなにか違うんですか」

 ショアトアが尋ねた。


「鉄道部は転勤はあるけど鉄道部内の異動しかないんだ。本社はまぁいろいろに変わることがある。缶詰工場とか屠殺場も本社管理だしさ、自動車とか電話がいいなぁって思って本社入っても家畜の解体現場とか山林で鉄塔に登らされたり浚渫船で船酔いすることもある。多少手当はいいんだが、思ったのと違う仕事っていうことも多い。本社人員は基本応援で回されるんだが、腰掛けのつもりで問題起こしたり、短い話が二年くらいになったりとか。バルデンの油井とか仕事が順調ならひなたぼっこして魚釣りするくらいしかない土地だからね。覚悟していても腐るよ」

「そういえばバルデンの話はなんか面倒になってるんじゃないの」

「オニート族だろう。バルデンの緑化実験がうまくいってるんだが、土地を返せと言ってきた。ラクダに草を食ませてやるくらいは構わないんだが、いろいろ難癖もつけている。こっちで色々云うのも面倒なんだが、軽くあの辺で兵隊の訓練をさせるくらいがいいかもしれない」


「警備部ってことかしら」

「本当は共和国軍がいいんだが、あの辺に鉄道敷くつもりがないわけでもないから、まぁそういうことになる。地質調査やって油井の準備しておかないと」

「あの辺、他にも石油出るのかしら」

「さぁ。正直わからないけど、水脈で油層がかき回されていないところのほうが作業はしやすいから、水の便の悪いところのほうが探しやすいと思うんだ」

「それなのに緑化するのって、いいのかしら」

「ついでに人手をかけて水を撒いているだけだ。百年千年もやって森が自立するようになれば話は別だが、三年五年で砂地が緑になったからって手を止めて家畜を入れれば半年で元の砂沙漠に逆戻りさ。土地に執着のない連中はそれでいいのか知らんが、こちとら土地を治める領主様だからね。ちょっとばかり手を考える必要がある」

「なんか、宛はあるの」

「一番いいのは連中を雇用して定住させることなんだが、あのへんはマトモな農耕文化がないんだ。それで財産や所有の概念がひどく曖昧で、婚姻や血縁という感覚も殆ど無い。他人なんかラクダや羊と一緒さ」

「それでよく社会が成り立つわね」


 共和国の中には非常に尖った少数部族というべき亜人種が数多く共和国領域内に棲息しているが、オニート族もそういう国家という組織の概念の薄い人々の集団である。

 亜人種が類人猿であるか人類であるかという線引は生物学的な未成熟から混乱して、しばしば骨相学や型示魔術のような伝承や占いに結びついていたし、そういうものがしばしば偏見や迷信をも生み出していた。


「まぁそのへんは文化というか、人間の本能というか、群れを保つ動物の本能というか、集団の中と外、身内と他人という概念はあるから、部族間の紛争が起こるし、取引も成立する。その程度には言葉も通じるし、オニート族も自分たちの言葉で会話をして社会を成立させているよ」

「獣の群れより少しマシって感じなのかしら」

「狼の群れとか渡り鳥みたいなのも、人里に近づいたら悪さするってわけじゃないから、マシかどうかはアレだけど、そういうことだろう」

 もちろん枯れ果てた砂野原の着の身着のままの暮らしを続ける民草に何かを求めるほどに共和国も窮乏していなかったからおよそ没交渉だったが、地域地方では時たま問題になったりすることがないわけではない。

「でも取引できるならいいんじゃないの」

「そういう連中が部族の主流派、主導的立場ならな」

「ああ。そういうこと」

 生物学的解剖学的な器質とは別に亜人種と呼ばれる基準の一つに言語での会話と交流が可能であることという定義があって、オニート族もかろうじて言語で交流ができるが、話のわかる人間が共和国語に通じているかは怪しい。共和国が協定での国民の扱いに男女差を認めていないことの理由の多くは広大な土地に人手が足りないというものだが、それ以上に男女の優位を土地の風習以上に認めると通商と軍事を重視する共和国の協定が求める国土の自由な往来の妨げになるからだった。

「いろいろ騒ぎは面倒だったけど、ここくらい文明的で家長が開明的な封建部族社会は正直助かるよ。開明的ってのが余所者にとって面倒が少ないって程度の意味の言葉であるのは間違いないんだが、文明的で商業的であってもワイルみたいな騒ぎになっちゃう封建部族社会もあるからね」

「そういえば、ワイルはどうなったの」

「どうもない。オアシスの部族会議にも出席していないし、ワイルのギルドとも直接公式のやり取りはない。金や人のやり取りも祭りの類も特にはない。ただ、こっちの拠点が駅だからなんとなく帯状に太い環状道路がワイルの南側に伸びていて、それを境にワイルと南ワイルッて感じで呼ばれている。警察権や打ち合いも北の端にペロドナー商会があって警備用の武装車両が幾らか控えているから、弾丸が飛び込んでこなければお互いおよそ知らんぷりしているし、むこうの手配書の人別は南側でもおこなっていて引き渡している。法的に明示された司法権はペロドナー商会にはないけど、警察権と治安責任はこの間、大議会の地方政務諮問会議で公式に承認を認められ求められた。鉄道運行施設周辺っていう曖昧な言い分だけど、共和国が仲介をしようと思い始めただけ前進した感じではある。それに話がややこしくなったら、ワイルを引き上げても良くするための準備もしてはいるんだ。ワイルを通っているのは、戦争の兵站にさっさとテコ入れしたかったからだけだから、ラギから南側に折れていってダリエルを経由するという計画もすでにある。商業的にはミョルナと南街道をつなげることは軍都につなげることよりもよほど意義深い」

「気になったんだけど、仮に本社にここの人たちを送り込むとそう云う面倒くさいところに回されるのかもしれないのよね」

「一応一年目でそう云うところに回されることはないようになってはいる。二年目からは色々だからなんとも言えないけど、警備部は本人の適性っていうか希望もあるから、どこでもいい、って本人が言って、住居の希望聞いて、適性訓練抜けないと配置されない」

「色々聞いているのね」

「職場が幅広くなったからね。部内旬報とか社内旬報で定期的に配置募集とか資格募集とかやり始めたけど、正直まだ手探りだ。単に金がいいとか、仕事のやり甲斐がとかだけじゃ身体が追いつかない職場も増えてきたんだ。バルデンみたいな果てしない砂浜みたいなところとか、エンドアみたいな緑の蒸し風呂みたいな土地とか。平気な連中は本当に全然平気なんだけど、ダメな連中はヤル気があっても本当に保たないからね。屋内作業ならそれでもなんとかなるけど、警備部ばかりは本当に危ないからさ。屋外工事作業も似たような感じで色々大変なんだが、そっちはもうちょっと余裕があるっていうか、計画が立てやすい」

「バルデンとかエンドアってお屋敷にいた女の人も幾人かゆかれているんじゃないでしたっけ」

 そういえばというようにマリールが口にした。

「行ってるよ。うちの別荘があるから、春風荘のマイラみたいな感じで住んでもらってる。バルデンは周りに家もないから、騒ぎから離れてのんびり過ごすのに良い土地だと思ったんだけどね」

 バルデンにある施設の管理を名目に五十人ほどの女達を置いていたが、家政婦とか施設の管理というよりは療養のために落ち着いたところで子供から離れて過ごさせるために置いている一種の修道院のような施設だった。もちろんそういう疲れきった女達だけでは立ちゆかないので幾人かついていってもいるが、会社の施設やいわゆる別荘とは少し違う。

 自動車工場設備並みの大柄な設備ではあるものの構造そのものは簡素で人の手は殆どかからず、大柄な設備の常として問題が起きれば現地の人員資材だけではどうしても手が足りないことになるから、別荘というほど気楽なものではなかったし、生産設備という字面には似合わないのんびりとしたものだったが、保守点検と称する歩哨仕事があった。人気のない砂漠のことであったので、つまりそれは砂沙漠を散歩して日々過ごすということであった。

 カシウス湖の浄水装置のパイロットプラントとして海水製塩淡水化施設が稼働していて、油井に隣接した石油化学プラントの余剰でオアシスめいたものを作っていた。

 それはワイルにある鉄道で水を運んできた溜池とは全く違って、採算という面において石油が枯渇するまでほぼ無尽蔵に稼働する。

 別荘と称しているのはその水を使って施設周辺に花を咲かせることを求めたことが、およそ日々の有閑を持て余さないための労務として家長としてマジンが求めたことであって、そういう風に使わないと海に戻すくらいしか使いみちのない真水を作れるくらいにはパイロットプラントは順調だった。

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