風呂とカレーと量子論
塚本正巳
上
帰宅した
「なんだ、今夜はカレーか」
「お帰りなさい。ちょっと待ってて、すぐ温めるから」
妻の
「飯の前に洗い物か?
小学五年生の陽太は二泊三日の林間学校に行っているし、四年生の芽衣は夏休みを利用して同級生の家でお泊まり女子会をやるらしい。今夜は久し振りの夫婦水入らずなので、夕飯は待っているものだとばかり思っていた。
「ついさっきまで
「そうか、あいつは三十三にもなってまだ子供だからな」
淳は雅彦の四つ下の弟だ。年中仕事に没頭している陰気な独身男で、身なりや私生活にはまったく興味がないらしい。いつも同じような服を着て、同じようなものばかりを食べている。
当然、家事や料理は苦手だ。そんな生活を見兼ねた雅彦夫婦は、たまに彼のマンションを訪れて世話を焼いたり、困ったことがあれば相談に乗ったりしている。そういった間柄だけに、彼が夕飯を食べに来るのもそれほど珍しいことではない。
「カレーはいい。ビールと缶詰でも出してくれ」
「そう? せっかく作ったんだけど」
「子供用の甘いカレーなんか食えるか。俺はあいつみたいに子供じゃない」
美里はしばらく動きを止めたが、やがてコンロの火を消してカレー鍋に蓋をした。
雅彦と淳は、容姿は何となく似ているものの、その他はまったく似たところのない兄弟だった。雅彦は学生時代、空手の県大会で準優勝したほど頑健な男だ。それに比べて淳は、線が細く瘦せぎすで、部屋にこもって本ばかり読んでいる少年だった。
大人になっても雅彦が中小企業の営業で年中飛び回っているのに対し、淳は大学に博士課程まで居残って難解な論文を発表したあと、現在は新興の半導体メーカーで最新技術の開発に携わっている。日夜研究に明け暮れていて、彼の口から余暇の過ごし方や浮いた話といった世間話の類はとんと聞いたことがない。
「あいつもいい加減、大人になれってんだ。いつまでも俺たちを当てにしやがって。これじゃ、まるでうちの長男だ」
「まあいいじゃない。世界の役に立つすごい研究をしてるんでしょ? それに淳さんの量子力学の話、面白いし」
「お前に理解できるのか?」
「詳しいことはわかんない。でも淳さんっていつも丁寧で優しいじゃない。噛み砕いて説明してくれるから、専門的な知識がなくても面白いの。しかも聞いたあとは頭が良くなったような気がするし」
美里は台所に立ったまま楽しそうに答えると、今夜聞いたばかりという『二重スリット実験』の話を始めた。
平行な二本の切れ目が入った板がある。例えるなら、どこの家庭にもあるコンセントの穴のような形状だ。その穴に向かってたくさんボールを投げたとする。穴を通過したボールは奥の壁に当たり、壁にはボールの跡がつく。それをしばらく続けると、壁にはボール跡の点でできた二本の切れ目の形が浮かび上がるはずだ。
「量子力学ってのは、そんな当たり前のことをこねくり回す学問なのか。どのくらい賢くなれるかと思えば、とんだ期待外れだな」
控えめに眉を寄せた美里は、目を閉じて静かに深呼吸をしている。どうやら反論を呑み込もうとしているらしい。
「それでね、同じ実験をとーっても小さいスケールでやるの。光子っていう光の粒を、板に向かって一つずつ撃ち出してみる。奥の壁にはどんな形が浮かび上がると思う?」
「どんな形って、ボールのときみたいに二本の切れ目の形じゃないのか」
「それがね、全然違うの。コンセントみたいな縦の二本線じゃなくて、縦線が何本も横に広がる模様になるの。不思議でしょ?」
「別に。どうせその光子って粒に特別な性質があるんだろ」
「そんなの無いのよ。板を置かなければ、光子はボールみたいに真っ直ぐ飛ぶだけ。だから現れた縦線の縞模様は、私たちが知ってる物理法則では説明できない現象。どう、理由を知りたくない?」
「そんなもん知ってどうすんだ。給料が上がったり、疲れが取れたり、美味いもんが食えたりすんのか? そんな与太話はいいからとっととビールを出せ」
どんな話かと思えば、いかにも淳らしい講義の時間ときたものだ。投げやりに言い捨てて隣の部屋で着替えていると、台所から冷蔵庫を開ける音が聞こえてきた。ようやく晩酌の準備をする気になったらしい。こちらは一日の疲れで参っているというのに、目に見えない世界の夢物語など聞かせて喜ぶとでも思っているのだろうか。
着替えを済ませて居間に入ると、テーブルには缶ビールだけでなく、茹でた枝豆とネギ塩を乗せた砂肝の小鉢が並んでいた。見たところ、レトルトやスーパーの惣菜ではないようだ。どうやらカレーの苦情を予想して、晩酌用のつまみも用意していたらしい。従順な美里らしいよくできた気配りだ。
ビールをグラスに注いでいると、美里も居間に入ってきて雅彦の対面に座った。しかし、彼女の前には食器も箸も用意されていない。
「お前は食わないのか?」
「もう十時過ぎよ。先に食べたから心配しないで」
今夜は早めに済ませてきたつもりだったが、思ったより手間取ってしまったようだ。夢中になるとどうしても時間を忘れてしまう。
「それよりさっきの話、最後まで聞いてくれる?」
美里は雅彦の帰りが遅かったことを気にする様子もなく、嬉々として先ほどの実験話の続きを話し始めた。
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