第39話「存続」

 *


 誰にも読まれない小説は、小説たり得るのだろうか。


 誰にも評価されない物語は、物語たり得るのだろうか。


 そうした思いに駆られることがある。


 特に今、私がこうして小説投稿サイトに投稿しているにもかかわらず、閲覧数が1PVたりとも伸びない時などには、自分が間違っているのではないか、自分の小説が読むに値しないものなのだろうか、自分に生きている価値はないのではないかとすら思い、煩悶はんもんし、苦悩し、しかしそんなことをしたところでどうしようもないという現実を目の当たりにしてまた困厄こんやくし、病的に閲覧数や評価数を気にするようになり、いつの間にか執筆作業に集中することすらままならなくなり、それ以外の全ての日常的事柄を全て放棄し、仕事にも一向に集中することができず、これまでの頑張りや努力や精進は無意味だったのかと勝手に思い込み、しまいには世の中は才能と生育環境が積み重ねや努力など一切合財意味を成さず自分には才能も運もなかったのだ、だから駄目なのだという結論に辿たどり着く。


 そんな大変面倒臭い思考回路を内包して生きているためか、自己肯定感はすこぶる低い。


 それでも不思議なもので、小説自体を書くのを辞めよう、とはならないのである。


 書くことができない――という状態にはなろうとも、それ自体を辞めてしまおうとは、一度として思ったことはない。


 一体自分の中で、どういう風に都合が嵌合しているのか気になるところである。


 「評価されない」は、ともかく、「読まれないまま書き続ける」というのは、「面白くないものを面白くないまま進める」ようで、気が引けるのである。


 面白くする努力をおこたっているような気がするのだ。


 原点に立ち返って考えてみると――小説は、読者がいてこそ成立するものである。


 読み手がいて、読む人が手に取って、あるいはその文章が記載されたページを開いて、初めてその文章群は小説となる。


 これは、私の主義というか、ポリシーに近いものである。


 少なくとも私はそう思って、小説を執筆している。


 ならば――今現在、誰にも読まれていない小説は、どうなるのだろうか。


 ただの文章群である。文章と文章が繋げられて書かれた何かであり、そこに物語的意味は蓄積されていない。


 そんな無意味を作り出す、創作し続けている自分に、果たして意味はあるのだろうか。


 意味。


 意味とは、何だ。


 分からない。


 分からない――けれど。


 打鍵をする手は、止まらない。


 そうか。


 続くのだ。


 たとえ物語が終わろうとも。


 たとえ暗澹あんたんたる結末を迎えようとも。


 私の一世一代の擱筆かくひつには、まだ遠い。


 エンドマークは、まだ打たない。


 書いて書いて書いて書いて書いて――書き続ける。


 それが、私の人生だ。


 だから。


 私は、パソコンに向かった。


 今日も私は、小説を書く。




(続)

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