(6)
ダニエルが観劇に行かないかと誘ってきたのは、彼との「恋愛」に悪戦苦闘し、気がつけばおよそ一ヶ月以上が経過していたときのこと。
二階ボックス席のチケットは、フィンレイから買ったものだと言う。「お相手」の都合が悪くなったため、ダニエルに安く売ったのだそうだ。タダで譲らないところは、フィンレイらしいといえばらしいと、ミリセントは感じた。
「ちょうどいいと思って」
ダニエルがそう言って見せてくれたのは、このあいだ読み終えたロマンス小説『ラヴ・ファンタジー』を原作とした舞台のチケットだった。なるほど、たしかにタイミングはばっちりだとミリセントは思った。
文字媒体で表現された『ラヴ・ファンタジー』がどのように舞台上で表現されるのか、ミリセントは単純に興味を引かれた。ダニエルによると実力派の俳優で固め、最先端の舞台装置を用いて原作通りの「スペクタクル」な舞台になっているらしいと聞くと、俄然楽しみになる。
それにダニエルと劇場のボックス席で過ごせることに、ミリセントは少しだけ心が浮つくのを感じた。それは尻の置きどころがわからなくなるような、心もとない気持ちでもあった。
一方、不愉快とは言い難かったものの、名状しがたいその胸中の浮つきに、ミリセントはだれかに名前を付けて欲しくなった。もちろん、そんなことを他人に話しても、そもそもミリセントが上手く説明できないだろうし、こんなことを相談されても困るだろうことは、容易に想像がついた。
ミリセントはダニエルから観劇に誘われてすぐ両親から許可を取りつけて、その日を楽しみに待った。どんな装いでダニエルにエスコートされるか――。それを空想するのは、なぜだかいつもより楽しい気がした。
思ったよりも自分は『ラヴ・ファンタジー』という作品を気に入っているのかもしれない。ミリセントはそう考えた。
「ボックス席にふたりきり。これってとても『恋愛』っぽいわね」
年齢を考えて、少し落ち着いた色合いのドレスを選んで臨んだ観劇の日。二階ボックス席に着き、ベルベット地のチェアに腰を下ろしたあと、隣に並んで座るダニエルのほうを向いてミリセントはそうささやいた。
「……そうだね。ボックス席って必ずしも観劇に適しているわけじゃないし……フィンも『お相手』と、あー、『仲良く』したくてボックス席にしたんだと思うよ」
ダニエルも、ミリセントに少しだけ顔を近づけて、ささやくように言った。それはなんだかミリセントには少しくすぐったかったが、秘密を共有するおさなご同士のような雰囲気もあり、面白くもあった。
ミリセントはボックス席から少し身を乗り出し、劇場内を見る。親し気にしている若い男女の姿も当然あり、ミリセントはふと自分たちは外からはどう見られているのだろうと思った。
……仲睦まじく見えているのであれば、それはとても「恋愛」らしい気がする。
けれどもそれは、うわべだけ――。ミリセントとダニエルは、「真の恋愛」関係ではない。今やっているのは、ただの「ごっこ遊び」だ。ミリセントは真剣にやっているつもりだが、単なる「ごっこ遊び」だと断じられれば、否定はできまい。
ミリセントは自問自答して、まるきり以前のように、指にできたささくれの先が布地に引っかかったような、言いようのない感情を覚える。
だがそうこうしているうちにおごそかに深紅の幕が上がった。ミリセントはオペラグラスを手に、観劇に集中しようと気持ちを切り替えた。
ミリセントは既に原作を読み終わっているから、舞台上で繰り広げられる物語がどのように推移するか知っている。それでも身振り手振りや役者の表情など視覚から得られる情報、俳優たちの迫真のセリフ、オーケストラの演奏などの聴覚から得られる情報は、ミリセントの心を大いに揺さぶった。
同時に、自分は思っていたよりも想像力がないのかもしれないとミリセントは思った。演劇という形として受け取ることで、『ラヴ・ファンタジー』に対する理解がより深まった気がする。小説が表現媒体として劣っているという話ではなく、小説と演劇、多面的に見せられたことで、作品への理解度が上がったという感じだ。
話の発端である古代から、舞台は中世へ。とうとうヒロインは長い長い時を挟みながらも、運命で結ばれた相手と再会する。しかしそこには悲しい身分差が存在した。ふたりはお互いを思い合い、その気持ちを確認しながらも、この時代では結ばれることがない。
別れ際、永遠の愛を誓いヒロインの手の甲へ口づけを送るヒーロー。水を打ったように静まり返る劇場内で、どこかからすすり泣くような声すら聞こえる。
「わたしも……」
ミリセントの口から不意にささやくような言葉がこぼれ落ちた。
「わたしも、彼のように愛を捧げたい……」
ミリセントはすぐにその独り言に気づいて、我に返って恥ずかしくなった。
「あ……なんか変なこと言っちゃった」
ダニエルに対し、誤魔化すように小声で言い訳をする。
けれどもミリセントは気づいてしまった。煙のようにおぼろげだった「それ」を口にしたことで、「それ」は明確な形をもってミリセントの胸中に現れた。
――ああまったく、わたしって本当に想像力がない……。
自分のことなんてわかった気になっていて、ぜんぜんわかっていなかった。
胸中に立ち現れた「それ」は――「恋心」。
ミリセントは、ダニエルを愛している。その中には敬愛と友愛があり――「恋愛」もあった。
「……ミリーは、彼女のように愛を受けたいんじゃなくて、彼のように愛を捧げたいの?」
「……両方、うらやましいと思うけど。どちらも――わたしには、ないものだから」
ダニエルからは返事がなかった。ミリセントは、とっさに「また変なことを言ってしまった」と後悔する。想像しているよりもずっと、どうやら自分は動揺しているらしい――。
ミリセントはその場から逃げ出したいが、できないために舞台をじっと注視した。しかしどうしても内容が頭に入ってこない。
隣ではダニエルがなにやらみじろぎして――気になってミリセントが横目で見やれば、彼はあわてた様子でなにかをお手玉した。
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