第9話 郁人の目標

「うーん……」


 さなえと楽しくおしゃべりをした後、会計をして帰宅した仁志。彼はものすごく悩んでいた。


「金がない……」

 

 使えばなくなってしまうのが金というもの。そして、気づいたら使ってしまうのもまた金である。


 仁志の貯金箱の中には500円玉という貴重な戦力はほとんど残ってなかった。


 小学生時代の時は貴重に感じられた100円玉。しかし、高校生にもなれば心もとない。


 その心もとない金以下の硬貨しか貯金箱の中には残されていない。


「これは……やっぱり俺も働くべきなのではないか」


 節制すれば済む話ではあるが、しかし仁志に節制の選択肢はなかった。


 なぜなら、さなえが働く『Honey Pot』に行きたいから。たったそれだけの理由。


「なぜコンカフェは高いんだ」


 社会人でも、まあまあ高いと感じるような金額。それを高校生が無理して払えば、当然こうなってしまう。


 遊ぶためには働かなければならない。その理不尽な世の中の仕組みを仁志は高校生にして悟ってしまった。


「バイトでも探してみるか」


 仁志はスマホを操作して求人を探してみる。今の時代は。スマホ1つあれば仕事も見つけられる時代である。高校生可のバイトを探して、仁志は求人サイトを見ることにした。



 それから数日後、仁志はコンビニで働くことになった。


「いらっしゃいませー」


 仁志は慣れない手でレジを打ちがんばっている。最初のころはそこまで疲れていなかったけど、仕事が終わるころにはもうくたくたで疲労感もかなり溜まってしまっている。


 21時半頃に仁志は退勤をする。そして、自転車に乗り自宅へと帰る時には22時少し前という時間帯になっていた。


「ただいまー」


 夕飯も食べずに夕方から働いていた仁志は腹も減りすぎていた。


「おかえり。仁志。ご飯食べちゃいなさい」


 仁志の母親がリビングにいてテレビを見ている。仁志はテーブルの上にある冷めた夕飯をレンジで温めてから食べる。


「仕事どう? 大変だった」


「まあね」


 夕飯として作られたのに、もうすっかり夜食になっている焼き鮭を食べながら仁志は答える。


「そっか。お疲れ様」


 母親はそれだけ簡単に言うとテレビドラマに集中した。仁志もテレビを見ている母親を邪魔しないようにこれ以上の会話はしなかった。


 夜食を食べた後に、仁志は風呂に入り就寝した。体は疲労を感じているのですぐに眠りにつくことができた。



 翌日、仁志は郁人と休み時間中に話をしていた。


「そういえば、飯塚。俺バイトを始めたんだ」


「へー。結局、バイトを始めたんだ。なんのバイトなの?」


「コンビニバイトだよ。別に普通のコンビニ」


 郁人の働いているところに比べたら、ごく一般的なバイト先で仁志としても特に語るエピソードなどない。


「そうなんだ。がんばってね」


「なんていうか。働いてみて初めてわかる労働の大変さが身に沁みてな。正直、昨日のバイトの疲れがまだ残っている気がする」


 仁志は肩を回しながら疲れをアピールした。


「そうだね。僕もあの店で最初に働いた時は結構大変だったね」


「やっぱり、飯塚もそうなのか?」


「うん。ホールを歩き回って疲れるし、お客様と会話をするのにも結構神経を使うからね」


 郁人の言葉を聞いて仁志は表情に影を落とした。


「あ、わりい。飯塚。俺ってお前に気を遣わせてたか?」


「いやいや。風見君は別だよ。ただ、お客様の中にも結構タチが悪いのがいてね。セクハラまがいのことをしてくる人も中にはいるんだ」


「マジか。それは許せねえな」


 いくら被害者が男性だからと言ってもセクハラはセクハラである。


「基本的に良い人は多いんだけど、たまにね……あんまりにもひどいと店長を呼ぶけど……そのセクハラになるかならないかの微妙なラインを狙ってくるようなのはちょっと判断に困るかな」


「うわあ。そういう陰湿なことするやつってどこの世界にもいるんだな」


 仁志はそのセクハラ客に対して怒りが沸いてきた。ただ、その怒りは正義感以上の感情がこもっていることに仁志はまだ気づいていなかった。大切な存在を傷つけられた怒り。無意識の内にそんな怒りをしていた。


「まあ、でも今はそういうのも慣れてきたし、セクハラ客も滅多に来ないからね。大体、出禁になるし、最近は全然遭遇しないかな」


「そっか……なあ、飯塚。お前、どうしてそこまでして金を貯めたいんだ?」


 仁志はふと訊いてみた。最初はそこまで郁人の事情について深く突っ込むつもりはなかった。


 でも、ここ最近郁人と付き合っていく内で、もう知らない仲ではなくなってきたし、もっと郁人のことを知りたいと1歩踏み込んだ質問をしてみた。


「そこまでしてって……?」


「だって、あのコンカフェだって大変だろ? きちんと恰好を整えてからじゃないと客前にすら出られないなんて」


 郁人は少し黙る。そして、ポツリと言葉を出す。


「実は、僕は高校を卒業したら海外留学をしたいんだ」


「え? 海外留学?」


 ここで仁志の脳裏に浮かんだのは、郁人がスラスラと英語の宿題を解いたことである。


 英語が得意と言っていたが、海外留学を視野に入れていた影響とは仁志も気づかなかった。


「うん。そのために必要なお金を貯めていてね。だから効率よく稼げる時給が良いバイトを探していたら、あの店が見つかって応募したんだ」


 ここで郁人があの店でバイトしている目的がハッキリとした。仁志が最初に邪推していた女装癖があるからとか、かわいい恰好をしてみたいから、が主目的ではなかった。時給の高さはそのいいわけをしているというわけでもなかった。


「海外留学ってなにするんだよ。日本じゃできないことなのか?」


「何事も経験だからね。別に日本が嫌いってわけじゃないけれど……海外の文化に触れることで、より自分の知見を広めたいなって思うんだ」


 仁志はここで言葉が詰まってしまう。郁人は高校を卒業したら海外に行ってしまう。それが妙に寂しく思えてきた。


 付き合いは本当に短い。1年どころか1ヶ月すらもまだ経っていない間柄である。それなのに、仁志の中ではもう郁人の存在は大きいものであった。


 卒業して離れ離れになるのは寂しい。でも、同じ国内にいれば気軽に会うことができるが、海外だとそうもいかなくなってくる。


「そのままずっと海外にいるつもりか?」


「それはまだわからないね。海外で暮らしてみて日本の方が良いかなって思ったら戻ってくるし、そうじゃなかったらそのまま海外に住むかな」


「そっか」


 仁志はいつか来るかもしれない郁人との別れに胸が苦しくなった。単なる同級生程度では海外に行って別れたら、恐らく2度と会うことができない。


 大親友ともなれば話は別だけれど、この3年間で郁人とそこまでの仲になれるのかと仁志は心配してしまう。


「そのことは他のやつは知っているのか?」


「ううん。家族以外は誰も知らない。友達で言ったのは風見君が初めてだよ」


「そうなんだ……よく、俺に教える気になったな」


「……なんとなくかな」


 仁志と郁人は黙ってしまう。そのまま数十秒の沈黙の後に休み時間の終了を告げるチャイムが鳴った。


「さて、授業が始まるからいこうか」


「ああ」


 仁志と郁人は教室へと戻った。


 いつかは来るかもしれない別れ。それが存外に早く来ることに仁志は物悲しさを感じていた。


 でも、それと同時に優越感も仁志は感じていた。家族以外には郁人は留学のことは言っていない。それは彼女である希子にも言っていないということである。


 郁人の将来に関わる重大なことを自分だけが知っている。この瞬間、仁志は希子に勝ったと心の中で感じていた。

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