ウォーク2 もっと走る!? 本橋ルン!(後編)
狂歩「おれが歩く」
足早瞬は戸惑った。一体、この小学生はなにを言っているんだ?
足早「本橋の番まであと1時間しかないんだぞ!」
狂歩「それだけあれば大丈夫!」
足早「ええ……?」
ルン「狂歩、本当に大丈夫なの?」
狂歩「大丈夫だって」
ルン「あんたかけっこ遅いくせに、本気で言ってんの!?」
狂歩「だから歩くんだよ」
ルン「だーかーらー……!」
ハカセがここぞとばかりにルンの肩にポンと手を置いた。身長差を埋めるために、つま先立ちで。
ハカセ「狂歩くんなら、やれます」
ルン「え?」
ハカセ「あの時も、狂歩くんは歩いたんです」
『小学生お手柄!』……きっとメガネのこの子は、その時、狂歩に助けられたんだ。博士のまっすぐな眼差しが、ルンにそれを理解させた。博士の鼻息は荒かった。
足早「しかし、こんな強風の中、君一人で行かせるわけには……」
足早は再度、思考する。
やはりぼくが行くしかないのか……? この子になにかあったら、ぼくだって責任を問われかねない。いや、責任が問題じゃない。この子に怪我でもされたら、ぼくが嫌なんだ。きっと後悔する。だが、ここで体力を使ってしまえば、
駆「おれも行くぜ!」
足早「え!」
狂歩「駆くん」
駆「オメーひとりにいいかっこさせらんねえからな!」
駆はそう言うと、ちらりとリイナを見た。しかしリイナの目にはやはり、狂歩しか映っていないようだった。
駆「(チクショー……わかってたけどよ……おれだってやるんだ!)」
駆は拳を強く握りしめた。
駆「迷ってる時間はねえ、行こうぜ!」
狂歩「うん!」
スタジアムの出口に向かって、駆は全速力で走った。
狂歩は歩いた。
ルン「な、なにあいつ……かけっこの練習したときより全然早いじゃん」
足早「本当に、行かせてよかったのだろうか……」
リイナ「大丈夫」
とても小さな声だった。
ルン「え?」
リイナ「狂歩くんなら、きっと」
ルンはリイナを見て、その表情こそ読めなかったが、この子が心の底から狂歩を信じていることを悟った。小さくても、とても力強い、芯のある声だった。
ルン「狂歩……あんた、一体なんなの……?」
ルンと足早は狂歩たちの無事を強く祈った。博士は手のひらに
…………一方その頃、とんでもない風の吹き荒れるスタジアムの外はと言うと。
駆「おい見ろ。タクシーが横転してやがる」
狂歩「さっき飛ばされたテントが信号を隠しちゃってるよ」
駆「ひでえ渋滞だ、これじゃあ車もバスも役に立たねえな」
狂歩と駆は歩道を行った。街路樹は根元からひっくり返り、電柱や信号機はまるでメトロノームのように揺れていた。今世紀最大級の強風だった。
駆「くそっ! なんて風だ! ちょっとでも気を抜いたら吹っ飛ばされちまいそうだ!」
狂歩「うー、まぶたが風でめくれちゃうよ」
駆「狂歩、道案内頼むぜ!」
狂歩「うん!」
狂歩が前を歩き、駆はその後を必死で追いかけた。全力ダッシュで。徒歩を。
駆の体は風に揺さぶられ、何度もバランスを崩した。
駆「(こいつ、なんて速さだ……。それに、こんな風に煽られてんのに、まったく体幹がぶれねえ!)」
地面を蹴って両足が宙に浮いたとき、ここぞとばかりに吹き付ける風が、駆の体を容赦なく押し返した。その度に狂歩と駆の距離は開き、その差を埋めるために駆は何度も猛ダッシュを強いられていた。
駆「(まったく信じらんねえよ。膝を真っすぐ伸ばして、常にどちらかの足で体を支えてるんだ。……こいつ、マジで歩いてやがる!)」
駆が狂歩についてきた理由は二つある。
一つはご存じ、リイナにかっこいいところを見せたかったからだ。
もう一つ、駆は狂歩の速さの秘密が知りたかった。
共に走り(歩き)、その秘密を暴いてやるつもりでいたが……実際に狂歩の歩きを見て、謎は逆に深まるばかりだった。
駆「(風に飛ばされねえ理屈はわかった。だけどそれはこいつが速いことの説明にはなってねえ。……チクショー、なんなんだオメーは!)」
狂歩「駆くーん、大丈夫ー!?」
駆のおよそ10メートル前方、狂歩が振り返って叫んだ。
駆「チクショー! 舐めやがって!」
この距離を詰めるために、もう何十回めの猛ダッシュだ。体力が持たねえ! いくら俺が毎日走り込みの特訓をしてるって言ったって、こんなにハードな状況ははじめてだ……! チクショー、距離が開いていきやがる……くそ、くそ、くそ! くそ、くそ、くそ、くそ、くそ…………
駆「くそーーーーーーーーッ!!」
駆はやけくそになって、日々の特訓で鍛え上げた走りのフォームを捨てた!
狂歩「駆くん!」
駆「……あれ?」
駆はいつの間にか、狂歩の隣を歩いていた。そう。駆は見よう見まねで、狂歩のように、膝を伸ばし、大きく腕を振って歩き出したのだ!
駆「前に進める……」
狂歩「すごいや! 駆くん、いつの間に隣まで来たの!?」
駆「すげえ……飛ばされねえ、踏ん張りながら、前に進めるぜ!」
駆の運動神経は天才的だった。限界まで追い込まれた肉体は、この
駆「(確かに前に進める……それに、こんなに速く歩けたことは今までに一度もねえ。だが……)」
狂歩「駆くん!?」
駆は息を切らし、顎を上げて苦しそうだ。
駆「(このフォーム……負荷がヤベぇ!)」
そう。歩くことは時に走ること以上に肉体を酷使する。まして歩くことに慣れていない駆の肉体は、早くも第二の限界を迎えようとしていた。
駆「くそ、横っ腹がいてえ、心臓が跳ねる、もう、息ができねえ……!」
狂歩「ごめん、ちょっとペース上げるよ!」
狂歩はぐんと前に出た。駆のペースが落ちてきたのだ。狂歩だって駆を待ちたかった。しかしタイムリミットは刻一刻と迫っている。駆はおれより強いはずだ。狂歩はそう信じて、歩くペースを一段階上げた。
駆「なんだよあいつ、なんであんなに速く歩けるんだよ! ああ! 痛え! 足が爆発しそうだ!」
狂歩「駆くん、もっと早く歩けない!?」
狂歩が振り返って叫んだ。
駆「チ……ク……ショオオオオオーーーーーーーーッッ!」
駆は第二の限界を突破した! 駆は再度、狂歩の隣につく! 身体能力はとっくに最大出力を発揮していた。ではなぜ、駆は狂歩に追いつけたのか。それは
おじさん「あーーー! わしのカツラがぁぁーーー!」
おじさんのカツラがすごい速さで飛んでいく!
おばさん「狂歩くん危ないわよ! 早くおうちに帰りなさい!」
近所のおばさんが電信柱にしがみつきながら叫んだ!
狂歩「ごめんおばさん! でも、歩かなきゃいけないんだ!」
ムササビが高速で滑空した! いや、あれは野良猫だ!
狂歩「わ! 駆くん今の見た!?」
駆「(バカヤロー……返事する余裕なんてねえよ……)」
狂歩「ルンちゃん家だ!」
駆「ゼハー……ゼハー……」
ついに二人はルンの家に到着した。駆は息も絶え絶え、手を膝について、口からよだれを垂らし、脚はガクガクと震えていた。
狂歩「ユニフォームもらってくる!」
狂歩はインターホンも鳴らさず、おもむろに玄関のドアを開けて、中へ駆け込んで……いや、歩き込んでいった。
駆「あいつ……息一つ上がってねえ……ゼエ……ゼエ……」
開け放たれたままのドアの向こうから声がする。
ルンの父「気をつけるんだぞ!」
狂歩「うん!」
駆が顔を上げて見ると、ユニフォームをはぎ取られ、トランクス一丁になったルンの父が狂歩に手を振っていた。
ルンの母「狂歩くん、お願いね」
狂歩「ありがとうおばさん!」
狂歩が風呂敷包みを背中にくくりつけて出てきた。きっと中にはルンのユニフォームとスニーカーが入っているのだろう。
狂歩「駆くんお待たせ! よし、戻ろう! ペースを上げるよ」
駆「嘘だろこいつ……」
駆はその場に倒れ込んだ。
狂歩「駆くん!?」
駆「わりい、おれ、もう走れねえ……」
狂歩「え? 歩けば?」
駆「バカヤロー……おまえじゃねえんだから無茶言うな……」
狂歩「じゃあ、先戻ってるね!」
狂歩は来た道を戻った。今度は追い風だ。信じられない速さで歩いていく。狂歩の背中はあっという間に見えなくなってしまった。
駆「……あーあ。足早先輩の走り……見たかったな……」
駆は倒れたまま、去り際に見た狂歩の表情を思い浮かべた。
駆「あいつ、笑ってやがった……ああ、ハハ、ハハハ、ハハ。ゲホッ! ゴッホ! オエェ!」
……まったく、イカれてやがるぜ。
一方その頃、大会会場では足早瞬のレースがはじまろうとしていた!
足早「(……あの少年は無事だろうか。今頃どこかで怪我をして泣いているんじゃないのか? やはり、ぼくが着いて行くべきだったんじゃないか?)」
足早は嫌な想像をした。狂歩と駆の体を押しつぶす、巨大な倒木のイメージだ。
足早「(……いや! 今はレースに集中しろ! ぼくは今、自己ベストを、
狂歩「お待たせ!」
ルン「わっ! 狂歩、もう戻って来たの!?」
ハカセ「狂歩くん! 無事でなによりです!」
ルン「……ねえ、どうやったの?」
狂歩「歩いただけだよ」
ルン「説明になってないっつーの……でも良かった~! これで走れる~!」
ルンは狂歩から風呂敷包みを受け取ると、嬉しそうに包みを抱きしめて、その場でくるくると回った。
狂歩「あ、ルンちゃん、これ」
ルン「え?」
狂歩「おばさんがこれも持ってけって」
そう言うと、狂歩は短パンのポケットから何かを取り出した。
ルン「カエルさんのお守り……」
それは古びた手編みのカエルの人形だった。
足早「ホッ……」
足早はスタート位置から狂歩たちを見て、胸をなでおろした。
足早「間に合ったんだな。少年……」
足早のこわばった体に、温かい血液が巡る。
審判「位置について……」
その時、風が止んだ。
狂歩「あ」
ハカセ「これはこれは……神様のいたずらですかな」
審判「よーい……」
足早はクラウチングの姿勢を取った。胸の内に、闘志が灯る。
あんなに小さな彼がやったんだ。ぼくも負けてはいられない。
見ていろ本橋。
………………………………パーン!
力強く地面を蹴った脚が、全身に熱い血液を送り込む!
指先まで研ぎ澄まされた全神経、全身がくまなく前進するために駆動する!
……世界中から、音が消える。
なんだ、走るのって、こんなに気持ちよかったのか。
ハカセ「足早先輩! 本当に足速いですね!」
狂歩「駆くん間に合わなかったなあ……」
ただいまの記録は……場内アナウンスが流れた。
そして、電光掲示板に着順とタイムが表示された。
足早「シャオラアアアアアア!!」
足早瞬、一着!
そのタイムは、
足早「(見たか、見たか本橋! ぼくの人生最高の走りだ……!)
足早はスタジアムを見渡して、ルンの姿を探した。
丁度その背後に、ユニフォームに着替えたルンが駆け寄って来たところだった。
ルン「あれ先輩、勝ったんですか?」
足早「え……見てなかったのか……?」
ルン「スイマセン更衣室で着替えてて……てへへ」
ゴーン……足早はわかりやすく肩を落とした。
ルン「でもすごい記録ですね! 先輩のベストタイムじゃないですか! あたしも頑張るぞ~!」
場内アナウンス「次のレースを始めます。選手、所定の位置についてください。」
ルン「あ、あたしの番だ! 先輩見ててくださいね!」
ゴーン……抜け殻のようになった足早は、力ない足取りで狂歩たちの元へ向かって行った。
ルンはスタート位置につくと、ユニフォームのポケットから、古びたカエルのお守りを取り出して見た。
ルン「……」
思い出した。あの時、私がまだ小学生だった時だ。
あの頃から私は走るのが大好きで大好きで、いつも町中を走り回ってた。
ある日、どんどん変わっていく景色が楽しくて、夢中で走りまくってるうちに、迷子になっちゃったんだ。
知らない町で、一人きり、明かりもない山道で。空はだんだん暗くなってきて、すごく怖くて、心細くて……お母さんの手作りのカエルさんを握りしめて泣いたっけ。
大人たちが探しても見つけられなかったのに、狂歩が見つけてくれたんだ。
その時、狂歩は一年生だったのに。
私が見つかったのは、家から10駅も離れたところだったのに。
子どものときはわかんなかったけど、あの時も、今日も、きっといっぱい歩いたんだよね。
かけっこがビリでも、あんたすごいじゃん。狂歩。
審判「位置について……」
ルンはカエルのお守りを、ポケットにしまった。
審判「よーい……」
ルンの目つきが変わった。
ハカセ「いやはや……これはなんとも、運命的ですね」
狂歩「え?」
博士がメガネをクイッとやって、ルンの背中を指さした。
ハカセ「まるで、走るために生まれてきたような人じゃないですか」
そのユニフォームの背中には、アルファベットで『RUN』と書かれていた。
狂歩は英語が読めなかった。
その時、風が吹いた。
風「ビュー」
ハカセ「うわっ、また風が出てきましたぞ!」
足早「ああ、だがこれは……」
狂歩「ルンちゃんがんばれーー!」
足早「追い風だ」
パーン!
選手、一斉に走り出した!
狂歩「わあ……!」
足早「これは……」
ルンの脚は一歩一歩、力強く地面を蹴り、それはまるで翼が生えたような走りだった。
狂歩「空を飛んでるみたいだ」
ハカセ「胸が!」
足早「天使だ……」
足早は高鳴る胸をぐっと押さえつけた。
………………………………
夕暮れの帰り道だ。もちろん、こういう時は川沿いのジョギングコースを歩くものだ。ルンと足早は二人並んで、それぞれバカでかいトロフィーを抱えて歩いている。
足早「素晴らしい走りだった。追い風が吹いたとはいえ、まさかぼくの自己ベストを抜くなんてね」
ルン「なんか……」
ルンは照れくさそうに、頬を指でポリポリとかいた。
ルン「走ってるときは夢中で、タイムがどうとか、ぜんぜん気にしてなくって。ただ風が気持ちよくて、もっと、もっと走るんだって、それしか考えてなくて……」
足早「そうか……」
足早は神妙な顔をして、立ち止まった。
ルンはそれに気づかず、数歩歩いて、ようやく振り返った。
ルン「先輩?」
足早「好きだ」
ルン「え?」
足早「君の走りを見て、改めて自分の気持ちがわかったよ」
ルン「え?」
足早「本橋、ぼくと付き合ってくれ」
ルン「え?」
足早「……」
ルン「……え?」
…………ええーーー!?
ルンの声がリバーサイドマンションに跳ね返って、河川敷に響き渡った。
……………………
いつになく爽やかな朝!
風でめちゃくちゃに破壊された町の復旧作業も、ずいぶん進んだみたいだ。
わたし、
好きなものは鳥のささみと、少女漫画みたいな甘い恋と、カエルさんグッズ!
そしてなにより……走ることが大好きなんだ!
おばさん「あら? ルンちゃんめずらしいわね!」
落ち葉をホウキで掃き集めていたおばさんが声をかけた。
ルン「まあね!」
ルンは笑って手を振った。
おじさん「わわっ! 来た!」
おじさんはルンの姿を見ると、慌てて両手でカツラを押さえた。
ルン「おはようございまーす!」
おじさん「あ、あれ……? 走ってない……」
ルン「うん、たまにはこういうのもいいかなーって!」
ルンは大きく腕を振り、一歩一歩踏みしめるように、通学路を歩いていた。
ルン「この町も、結構変わってたんだなぁ」
数年ぶりに帰ってきた町の変化に、ルンは今日、初めて気がついたのだった。
ルン「ノラ猫さんおはよう!」
猫「ハァ?」
猫が不思議そうな顔をした。
ルン「ああ、ここってこういうお店になってたんだ」
新しくできた文房具屋さんのショーケースに飾られた、きれいな便箋を眺めてみる。
ルン「かわいいケーキ屋さん! 今度行ってみよう」
店内で朝の準備をしていたパティシエさんと目が合って、お互いニコッと笑って頭を下げた。
ルン「(……そっか。全然気がつかなかったなー……)」
これまできっと、たくさんの景色を見過ごしてきた。
私は走るのが大好き。だけど……
先生「はいおはよー。はいおはよー。シャツしまえー。はいおはよ……って本橋、どうした! 病気か!?」
ルンの胸の内は、ワクワクで満たされていた。
ルン「歩くのも、けっこー悪くないですね!」
ルンは誇らしげにカバンを担いで、校門を潜るのだった。
……足早家
瞬の部屋の前。足早の母がドアを強く叩いている。
足早母「瞬、あんた学校は!?」
足早「行きたくない」
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