第48話 幸せな時間。
広島紫の徹底ぶりは凄かった。
先に退勤してもいいように、荷物は青砥駅のコインロッカーに置き、案の定、市原黄汰は大阪桃華の所に顔を出したので1時間は最低でもズレ込む。
青砥で荷物を回収した広島紫は、さっさと町屋駅前でお茶をしながら市原黄汰を待った。
家に帰って着替える真似なんてしない徹底ぶり。
市原黄汰といえば、まだ残る仕事の気配に、後ろ髪ひかれながら帰る羽目になる。
本来なら仕事を取りたかったが、朝見せたあの広島紫の顔はとても怖かった。
正直命の危機を感じた。
なので素直に帰る。
町屋駅では、年越し前、あのアカシアの木を見た休みの日に見せた顔になっている広島紫がいる。
寄り道しなくてよかった。
そう思っていると、「お疲れ様でした。早く会えて嬉しいです」と言って、小ぶりのキャリーケースを引きずる広島紫の格好は、今日から住む人間に見えてしまい、少しだけ怖くなる。
「ず…随分な荷物ですね?」
「お邪魔する間、荷物の事でご迷惑をかけられないので、キチンと用意してきました」
その荷物達は本当に数泊の研修に来たように見えてしまう。
すこし呆れながらも「広島紫らしい」と思う市原黄汰は、「では、代わりに運びますね」と言って手を出すと、「ダメです。市原さんの手は私と握る為にあるんです」と言って広島紫が手を握り、2人で2月の夕方をのんびりと歩く。
広島紫は本当に幸せそうに、時間を気にせずに市原黄汰の家で過ごす。
気がつくと市原黄汰に抱きついてキスを求めて、食事を摂って、キスを求めて、2人で今度は仔犬のDVDを観て、「ああぁ、なんで犬ってこんなに可愛いんでしょう」と喜んでいる。
買っておいてなんだが、市原黄汰は「広島さんは猫派だと思ったけど、犬派なの?」と質問をする。
「市原さん?犬と猫に派閥なんてものは存在しません」
「あ、はい」
市原黄汰は変な質問は命に関わると学んでおとなしくなり、夕飯の終わりと共にプレゼント交換をする。
広島紫が用意したものはワンポイントに紫色が使われたネクタイピンだった。
「ネクタイピン…」
「はい。アメジストです。誕生石とかに使うらしいですが、紫色です」
照れながら話す広島紫に、市原黄汰は「ご両親に感謝ですね。本当に素敵な名前です」と言って、クローゼットから以前貰ったネクタイと合わせてみせて、「どうですか?」と聞くと、赤い顔を壊れるくらい縦に振った広島紫は「似合います」と言った。
市原黄汰のプレゼントもまた宝石をあしらっていて、黄色いトパーズが使われた髪留めだった。
「さすがに店で使えるデザインではありませんが、家で使ってください」
広島紫は泣きそうな気持ちを抑えながら、髪をまとめて留めてみると「市原さん、撮ってみてください」とスマートフォンを渡す。
市原黄汰の写真に広島紫は「嬉しすぎてどうにかなりそうです」と言うと、またソファに連れて行ってキスを求める。
広島紫が落ち着くとお風呂の話になる。
広島紫は2人で入る事を提案されたのかと思い慌てふためくが、「違いますよ。広島さんが先に入ってください」と言われて恥ずかしそうに入る。
途中で「足りないものはありますか?遠慮せずにキチンと肩までゆっくり浸かってくださいね」と声をかけに行くと、広島紫は風呂場から「ひぇぇやぁっはい!」と素っ頓狂な声を上げていた。
風呂上がりの広島紫の為にお茶を用意して待つ市原黄汰。
風呂上がりの広島紫は一般的なパジャマスタイルではなく、着ぐるみパジャマで現れる。
普段の服装とのギャップに、市原黄汰が思わず二度見してしまうと、照れた広島紫は「これは着る毛布です。冷え性で、寝相も良くないので、機能美です。元々実家ではかい巻き布団にしていたので、独立した後も近しいものを使っています」と早口で説明してくる。
「温かいですよね。私も子供の頃に実家で使っていましたよ」と言った市原黄汰も風呂に入って出てくると、ソファの上で真っ赤な顔で膝を抱える広島紫がジッと市原黄汰を見ていた。
「広島さん?」
「市原さんはスウェットなんですね?」
「はい。それで赤い理由は?」
広島紫は「緊張してきました。それで…、せ…セックスに…ついて調べたら恥ずかしくなってきました」と言った。
「別に無理強いなんてしませんよ。さあ、今日も大変でした。もう寝ましょう」
広島紫はそっと手を出して、市原黄汰がその手を取って寝室に連れて行く。
広島紫の手は少し汗ばんでいて震えている。
寝室に入ると「市原さんの匂いが凄いです」と言う広島紫に照れた市原黄汰は、「あはは、臭いかな?」と照れてベッドに導いていく。
ベッドは元々鹿島朱美と夫婦だった時に買ったダブルサイズで問題はない。
一応シーツも敷布団も掛け布団も洗ったが、嫌がられたらどうしようかとは気にしていた。
だが、広島紫はそんな事はなく、すぐに発情したような顔で市原黄汰にキスを求めてくる。
本当に朝まで止まらないかも知れない。
市原黄汰はある程度の所で、「広島さん、ちゃんと寝ないと風邪をひきますよ。風邪を引いたら誘えなくなります」と釘を刺して大人しくさせると、優しく抱き寄せて「おやすみなさい」と言って眠りについた。
広島紫は完璧に油断していた。
こんな幸せな時間が許されるのかと自問自答しながら、市原黄汰と同じ布団の中で温もりに包まれる。
どうしよう。市原黄汰無しでは眠れなくなるかも知れない。
そんな事も思った。
この温もりの前ではイビキの一つや二つ無視してみせる。
そう意気込んでいた。
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