第15話 広島紫の過去。

広島紫は少しして口を開く。

逃げられる感じではないし、なんとなくだが逃げたくなかった。


「トイレに行く時に見かけた子は磐田浅葱いわた あさぎさん。同期の子でした。激戦区で菅野君が言った通りなら、彼女は一年半で辞めたそうです。男の子は、私が新卒当時、高校生の男の子でした。もう名前も覚えていません」

「名前を覚えてるって事は仲が良かったのかな?」

「いえ、同性の同期だから覚えていたくらいです。男の子はきっと佐藤とか田中とかじゃないですかね」


広島紫の話を聞いていて、市原黄汰はなんとなく前に、エリア異動の話が出た時に広島紫の顔が、暗かった事を思い出す。それもそうなる。


広島紫の主観も入るが、新卒が一年経つ前にでエリア異動になるのは仕方ない理由もあるが、大体はそんな事は無い。仕方ない理由…エリアの統廃合がなければ、戦力外だったはずだ。

現に共に働いた広島紫に言わせれば、磐田浅葱は仕事はできたが、あくまでアルバイトレベルで社員レベルではなかった。

いくら働けても、それこそマニュアルが整っている飲食店でそれのみに注力すれば、キチンと仕事はできるようになる。

だが、そこ止まりでしかなかった。


福利厚生や権利の主張は間違っていない。

だが、それでしかない。

それを言ってしまう、やってしまえば、店舗運営ができなくなる。


アルバイトには保障がない代わりに自由がある。

クビになる覚悟があれば急な休みも取れる。

病欠も仕方ない。


その分を補うのが社員になる。



休みの日にそれを拒否したのは磐田浅葱。

アルバイトの急な病欠に対しても、磐田浅葱は自分が休む事を許された日は、トレーニング期間の新卒でも、そこそこ過酷な飲食業の休みは新卒には貴重で、店長からの交渉をキッパリと断った。


そして自分の時には容赦なかった。

磐田浅葱は女性の日が辛いらしく、少しでも酷いと平気で部下の立場を出して店長に全てを任せて休もうとする。


店長も男で、理解できない女性の話になれば、強く出られない。

広島紫から痛み止めを服用する事を提案されても、「薬に耐性がつくから嫌だ」と一歩も引かずに受け入れようとしない。


その分のウエイトが全て広島紫に乗ったのだろう。それは広島紫も言葉の端々に棘が見える。


そして最初の研修期間を終えた磐田浅葱を別店舗に異動させたが、そこでも手に負えず、エリア内で持て余して、難ありでも手が2本あれば構わないという他エリアで引き取って貰っていた。


だが、それで今の広島紫が暗くなる理由はわからなかった。


「相手の男の子となにかあったんてすか?」

「いえ、名前も思い出せない子ですよ?何もありません。ただ、まだ付き合っていたんだなと思いました」


そう言って二杯目を飲み干した広島紫のグラスに、市原黄汰は酒を注ぎながら待つと、「違いますね。彼とは何もなかった。でも余計な因縁はありました」と広島紫は言った。


トレーニング店では最短で3ヶ月、最長で1年近くトレーニング店に在籍する事になる。

磐田浅葱は異動までのたかだか3ヶ月の在籍で、アルバイトの男性と良い仲になっていた。


正直、市原黄汰からすれば、そんな事より仕事を一日も早く覚えてくれという気持ちになる。

だが、自分も新卒当時には彼女がすぐにできたので思っても言えない。


「ほら、男女の入れ替わりが激しいと、どうしてと色恋沙汰も出てくるじゃないですか…」


アルバイト男子からしたら磐田浅葱は庇護欲をかき立てられる存在だった。

立場ある社員が甘え、縋ってくる。

ただの同僚、アルバイト仲間を助けるよりも価値のある行為。それは磐田浅葱からしても意味がある。

孤独な戦いの中、自分だけの特別がある。

店長達が注意しても人的資源の男子バイトが率先すれば何も言えないし、見方によっては協調性や人付き合いの面でプラスにもなる。


だがそれは間違った形で店内に蔓延した。


年上の社員を彼女にするというステータス。

まるでゲームの景品のように扱われる広島紫。

広島紫からしたら店の雰囲気は最低最悪に近かった。


男子の中では「広島さん」はすぐに「紫さん」、「紫ちゃん」に変わった。

嫌がってみせても、本気と冗談の違いもわからない高校生、大学生達はしつこかった。


店長に解決を求めたのは一度や二度ではない。

だが、広島紫が今のまま流されず、それでいて磐田浅葱のようにならなければいいとして、話すら聞こうとしなかった。


その結果、馬鹿にするようなアピールは続いていった。



・・・



そして3ヶ月目に異動になった磐田浅葱。

磐田浅葱が消えても、店の空気は元に戻らなかった。

次第に男子学生達に想いを寄せる女子達からも疎まれるようになるが、自分には異動の話はやってこない。


事務仕事をする時、休憩室に居た磐田浅葱の彼氏は、広島紫に「紫ちゃんは彼氏作んないの?」と話しかけた。


広島紫はいい加減怒鳴り散らしたい気持ちを頑張って抑えながら、「必要ありません」と返して書類に向かう。


「えぇ?浅葱みたいに、頼れるところは頼った方が可愛げもあって人気出るし、一体感とか出るよ?」


何を言われても「必要ありません」で済まし、途中から「私は磐田さんより劣っているので、努力が必要なんです」で回避していたが、とにかくしつこい。


そんな時に、この佐藤だから田中だかが言った言葉は、「紫ちゃんはムラムラしないの?浅葱は仕事が大変だとムラムラが凄いって、俺いつも搾り取られちゃうし、それでも足りないって言われて、最後は浅葱が満足するまでご奉仕してんだよ?」だった。


もうやってられなかった。


性的な質問をされ、磐田浅葱の秘事すら勝手に広める年下の男の子から、聞きたくもない話しをされた広島紫は、事務仕事を放棄してホールに戻りながら、「私には彼氏も何もいりません」と言い放っていた。


なんとまあ、当時のトレーニング店の店長は記憶が確かならば、その後半年くらいで退職したし、トレーニング店舗は、これから約2年後に起きた、ある事件で変更する事にしたが、そんな事があった事すら知らなかった。

市原黄汰は広島紫の話に集中しなければならないのに、トレーニング店舗と新卒のヒアリングについて考えようと思ってしまう。


そしてそれで終わらなかった。

とりあえずトレーニング店舗でのくだらない質問やアピールは、この日を境に減っていて、ようやくまともに働けるようになる。


そして半年で別店舗、それから半年で異動になる。


その間はなんの問題もなかったが、問題が起きたのは激戦区に異動した時だった。

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