二〇二一年 浅野 護(あさの まもる)
最初に命を奪うことについて深く意識したのは、小学校の低学年の頃だった。小さな虫を踏みつけたとき、胸の奥で何かが弾けた感覚がした。先生はそれが「いけないこと」だと教えてくれたけれど、ただ自分がしていることが間違いだと聞いただけでは、その不思議な感覚の理由は説明されなかった。気持ちいいのにどうしていけないの――理由を問いただしてみたが、先生の目には恐怖の色が浮かんだけで、その行為に何か特別な力を感じた。
それが悪いことだということは、幼い自分でも理解はできた。けれど、どうしても止められなかった。何度も繰り返し、何かを掌握している感覚が、俺の中に得体の知れない優越感を生み出していた。
家では、誰も俺に目を向けてくれなかった。父さんはいつも仕事に忙しく、母さんは何かに悩んでいるのか、俺一人が孤島にいるような感覚であった。俺が発する言葉は、ただ壁に反響するだけで、何も返ってこない。俺の存在がそこにあるのかさえも、不安になるほどに。
次に手をかけたのは、もっと大きな生き物だった。友達のペットが、俺を見つめたときの視線が忘れられなかった。蔑むような目。その目が語るのは、俺の存在を否定するものだった。『お前なんて、ここにはいない』とでも言わんばかりに見下された気がした。いや、本当にあの生き物は囁いていた。何故か、全てを悟っていた。あの真ん丸で可愛らしい目を切り抜きたい。頭で想像しただけで興奮してきた。だから、似た動物を探し、手をかけた。自分がこの世界に存在していることを確認した。自分が何かを支配できるという実感が欲しかったんだ。きっと、そう。そうすることで、何かが満たされると信じていた。
しかし、実際に自分の力を確認したところで、俺の内側は何も変わらなかった。何度繰り返しても、俺の心は虚ろなままだった。
木曜日は親が家に不在になる日であった。夜遅くに帰っても咎める奴はいない。
俺は木曜日が待ち遠しくなった。だけど、その作業をいくらしても、心は満たされることのない空虚感が広がっていった。目の前で息絶える命を感じても、心の底から溢れ出すはずだった何かが、いつまで経っても現れない。次第に、ただ命を奪う行為自体が目的ではなくなり、誰かの心を揺さぶることに興味が向かっていった。
あの生き物を殺めたい。
だが、あの生き物は尾道健司が大切にしている生き物であった。
健司のペットを殺すことはできないと自制を利かせていた。健司が学校で俺に話しかけてくれる唯一の存在だった。けれど、その反面、彼の悲しむ顔を見たいという気持ちも芽生え始めていた。彼の心を揺さぶり、その表情に自分の影響を刻みたい。彼が失望の底に沈む瞬間を目の当たりにしたいと思った。
その欲望が実際に形になったとき、俺は奇妙な昂揚感に包まれた。あの生き物を殺した。
興奮でその夜、何度も射精した。
次の日、健司の沈んだ顔を見たとき、さらにその感情は強まった。俺は彼の苦しむ姿に、何か歪んだ充足感を感じていた。俺が存在している証拠が、彼の表情に刻まれている気がした。
「悲しいよな?」
無性に健司に話しかけたくなった。
「どんな気分だ?」
どうしても今の健司の感情を確認したかった。
「今すぐにでも殺したい気分だよ」
健司が言った。一緒だと思った。
「俺も殺したい気分だよ!」
喜びが溢れ出し、気がつけば俺はそんな言葉を口にしていた。
それ以降は、更に木曜日が待ち遠しくなった。何かを求める気持ちが抑えられなくなり、リスクを顧みず、街に出るようになった。木曜日に警察官が増える中でも、その興奮を求めて行動を止められなかった。だが、いつしかその感覚も薄れ、ただ繰り返すだけでは満足できなくなっていった。
クラスメイトの都羽瑞雲が、クラス全員に向かって声を上げた。
『みんなも今日は参加してほしい』
どうやら学園祭の練習が佳境を迎えていると言う。けれど、それがどんなに大切だと言われても、俺にとっては木曜日の予定の方が何よりも重要だった。学校行事なんて、心の空洞を埋めるものではない。
学校が終わると、有馬神社へと足を向けた。夏の夕方はまだ日が沈まずに残っているけど、その神社の裏手は静まり返り暗かった。誰一人いない闇が広がっている。
また一度、猫を殺めた。
以前のような満足感は得られなかった。何かが足りない、どこかで感じていたはずの昂ぶりが、いつの間にか遠のいているようだった。
次は、人を殺めたい。
俺は自分の根底にある欲求に気がついていた。
だが、一線は超えてはいけない。人を殺めたい――抑えれば、抑えるほど、欲求は膨れていく。人を殺めたい――何かを求めるように俺は歩く。
人を殺めたい。
人を殺めたい。
人を殺めたい。
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