36.ロイド・クレメンス、外なる宇宙を彷徨する
ただっぴろい空間が広がっている。
その空間の中に、俺|(ロイド・クレメンス)とオスティルが浮かんでいる。
オスティルは裸の上に薄絹を一枚まとっただけの格好だ。
俺の腕の中に身を預け、いたずらっぽくこちらを見上げてくる。
「なあ、俺たちは今どこにいるんだ?」
俺が聞く。
オスティルは無粋なことを言うと非難するように俺を見る。
「もうどうにもならないのだから、最期の時くらい、甘美に過ごさせてはもらえないかしら?」
「俺は、あきらめちゃいない」
「そうね。あなたはそのせいで、最も愚かな選択をした。永遠の悦楽も、わたしとの永劫の逢引きをも断って、あなたはあなたのままで、事態が急変することに賭ける道を選んだ」
「俺のパーティメンバーはあきらめが悪いからな。桜塚のじいさんは不安要素だが、あいつらならやってくれる……かもしれない」
「あら、弱気ね」
「絶対にやってくれる!って言い切れたらどんなにいいかとは思うけどな。いいとこ、30%ってとこだろ。でも、俺はパーティのリーダーとして、あいつらが賭けに出た時に、自分だけ安全な場所に逃げちまってるって状況は許せねぇんだ」
オスティルに迫られた選択への答えは、そのようなものになった。
俺が聖櫃の中で消滅するまでの十日の間に、あいつらがどうにかして聖櫃を取り戻す。それができなければ、俺はもう消滅するしかない。
「しっかし、こいつは予想外だったな」
聖櫃は今、グレートワーデンを離れ、外宇宙を漂っている。
外の様子は聖櫃の機能によって全方位に投影される。
退屈ないかにも「宇宙」といった感じの空間が続くこともあれば、極彩色のオーロラが乱舞することもある。得体の知れない巨大なマンボウのような生き物(ただし目が十個以上あり、口はない)が、こちらをぎょろりと睨んできたこともあった。
ある意味、退屈しない空間だ。
「ええ。オストーの力を吸収したあの魔導師ナザレによって、聖櫃は外宇宙へと流されてしまった。ロイド、あなたの仲間がいくら優秀でも、この状況をどうにかすることは、はっきり言って不可能よ。それでも、あなたは仲間を信じて待つというの?」
「ああ。悪いな、オスティル。おまえを一人にしたくないって気持ちも強いんだが……それ以前に、俺はリーダーとしての責任を果たさなければならないんだ」
この会話は、初めてのものだったろうか?
何度となく繰り返したような気もする。
外宇宙では時間すら数ある次元軸のひとつでしかない。うつろい、くりかえすのが外宇宙の時間だ。ある意味では、時間のない世界とも言える。
途方もない時間が過ぎた。
いや、逆にあっという間だったような気もする。
聖櫃の全方位に投影された外宇宙の光景の中心に、白い手が現れた。
どこかで見たような手だ。
と思って気づく。
その手は、オスティルの手にそっくりだったのだ。
しかし、そのサイズがまるで違う。
白い手は映画館のスクリーンを埋め尽くすくらいの大きさだ。
その手が徐々に下がっていく。
腕、肘、二の腕、肩、鎖骨、首。
繊細な造形の白い肉体は、ますますオスティルに酷似しているように思えた。
この空間で、何度となく確かめた、オスティルの美しい身体。
今さら、見間違えるはずがない。
投影された映像が、ついに首から上に到達する。
銀色の艶やかな髪とルビーの瞳。
その顔は、オスティルによく似ている。
オスティルをもう数歳年上にした感じだろう。
投影された「オスティル」が淡く微笑む。
その微笑みには個人的な好意などかけらもない。ただ、ありとあらゆる命あるものを慈しむような、神にしか作りえない笑みだった。
『おかえりなさい、オスティル』
「オスティル」がそう言った。
その声は聖櫃の中に届くはずがないのに、何の障害もないかのようにクリアに俺の脳裏に響いてきた。
「えっ……あなたは?」
オスティルが戸惑った声を上げる。
『ああ、わからないのね。それはしかたがないわ。あなたはまだ神だものね。神として世界の寿命を見届けて戻ってきたわけではないのだもの。今のあなたは早産した赤子と同じ。その粗末な
「あなたは……誰?」
『あなたが今使っている言語に該当する概念がないのだけれど……しいていえば、私はあなたの母にあたる存在』
「は、母?」
オスティルが絶句し、二人の会話が途絶する。
わけがわからない。
が、これが何か重大なチャンスかもしれないってことだけはわかる。
「俺たちが今いるのは、『外なる宇宙』でいいのか?」
答えはないかとも思ったが、
『その通りよ』
案外気さくに、オスティルの自称母が答えてくれる。
「あんたがオスティルの母のようなものなんだとしたら、オスティルはこの外なる宇宙で生まれたってことか? グレートワーデンではなく?」
『個別世界の名称までは私の知識にはありません。しかし、オスティルがここで、私から分枝したことは事実です。オスティルは、私の部分であり、かつ全体をコピーしたものでもある。フラクタルに類似した、しかし紛れもなく下位の存在です。喩えて言うなら、私の
まったくわからん。
が、そこはどうだっていい。神の成り立ちなんて詳しく理解したところで何だって話だからな。
「俺たちを、元いた世界に戻してくれないか?」
ダメ元で聞いてみる。
『私にはそのような機能はありません』
「じゃあ、誰にだったらあるんだ? あんたより上位の存在がいるのか?」
『自分の上には、自分を枝とする、より上位の存在がいます。その上位の存在にも同様の存在がいます。そのさらに上位の存在も』
「無限にいるってか?」
『無限ではありません。有限です。無限は観念としてしか存在しません。宇宙は実体であるがゆえに、確実に有限です。しかし、その有限は無限に限りなく近似できる点まで続いているため、私には観測不可能です』
「……わけがわかんねぇ」
『あなたがそれを知ったところで、意味があるとは思えません。生きることはそれ自体がひとつの不条理です。何の
「ちっぽけな俺らには関係のないことだってか」
『端的に言えば、そういうことです』
オスティルと同じ端正な顔は、淡く微笑んだままでそう言った。
もっとも、オスティルと似ているのは形だけで、サイズは日本の観音様くらいのように思える。いや、周囲に比較物がないから、ひょっとしたらもっと巨大なのかもしれない。それこそ、太陽より大きかったとしても驚かない。
(そういえば……)
肝心なことを聞いてなかった。
「あんたの名前は?」
俺が聞くと、「オスティル」はきょとんとした……ようだった。
相変わらず表情が変わらないのでわかりにくいが、そんな気配がした。
『……私にそのような問いを発したのはあなたが初めてです。宇宙開闢以来初めてのことですよ』
「そりゃ光栄だな。で?」
『私に名前はありません。フラクタルな分枝を繰り返し、無限に等しい有限を拡大するもの……しいていえば、宇宙そのものの『歴史』と言えるでしょう。宇宙とは、世界とは、神とは、人とは……畢竟、私の分枝した末端にすぎないのですから。もちろん、私自身も私自身の末端でしかありません』
「唯一の神に名前はいらないってか? でも、それじゃあ呼びにくくてしょうがない」
『あなたの好きに呼べばいいでしょう。名前という名の識別子がほしいというのであれば』
俺は少し考えてから言う。
「じゃあ……フラクティカってのはどうだ?」
『フラクティカ。結構です』
「……気に入らなかったか?」
『いえ、簡潔で的を射た名付けだと思います』
こいつ――フラクティカとの会話は肩が凝るな。
「それで、フラクティカ。あんたには俺たちをグレートワーデンに戻す力はないんだったな?」
『はい』
「じゃあ、俺たちはこのまま外宇宙で消滅するのを待つしかないのか?」
『いえ、正確には、あなたの魂の消滅より、その
「その、
『知らないで乗っているのですか? あなたとオスティルが今乗っているもののことですよ』
「ああ、聖櫃のことか」
聖櫃=
つまり、聖櫃とは外宇宙を航海することのできる宇宙船だってことか。
「……って、まずいじゃねぇか!」
「そ、そうよ! 聖櫃が壊れたら、あなたは生身で外宇宙に放り出されることになるわ! わたしだって無事でいられる保証なんてない!」
俺とオスティルが慌てる。
フラクティカが、落ち着き払って言った。
『オスティル、あなたはたしかに早産でしたが、私の分枝として迎え入れることができます。それから、人間よ』
「ああ、名乗ってなかったか。俺はロイド・クレメンスだ」
『ロイド・クレメンスよ。あなたの魂も、オスティルとともに回収することはできます。でなければ、あなたは魂の海である外宇宙を果てもなく漂い続けることになります』
「……そうなるとどうなるんだ?」
『あなたの魂は徐々に平常を失い、同じく平常を失った他の魂と食い合います。果てしなきソウルイーティングによって生まれるのは、悪意を持った神です』
「要は、オストーみたいになっちまうってことか……」
俺とオスティルは顔を見合わせる。
『あなたがたの旅は終わりです。私の中に入り、『歴史』の一部として、時も空間もない場所で永遠に生き続けるのです。そこは、天国と呼んで差し支えない場所であることは保証しましょう』
フラクティカが、これで決まったとばかりに明言する。
こちらが拒むことなど想像もしていないらしい。
しかし、
「……気に入らねぇな」
『何がですか?』
「オスティルといいあんたといい……人を、快楽さえ保証されれば満足するもんだと思いやがって」
俺の言葉に、オスティルが反応する。
「ち、違うわ! わたしはただ、あなたと一緒にいたくて……それができなくても、せめてあなただけでも幸せになってほしいと……」
「わかってるさ、オスティル。おまえが善意で言ってくれてるのはな」
「じゃあ……」
「でもさ、違うんだよ。俺は、仲間を信じてる。天国だかなんだか知らないが、餌をちらつかされてそっちに食いついちまったらリーダー失格だ。俺みたいなおっちょこちょいにずっとついてきてくれたあいつらに顔向けができねぇ。そんな気持ちのまま、永遠の悦楽だとか天国だとかに入っちまったら、永遠に後悔し続けるハメになるじゃねぇか」
俺は、顔を上げ、フラクティカを見据える。
フラクティカは相変わらずデカい。
顔だけで聖櫃のスクリーンを覆い尽くすくらいの大きさだ。
オスティルと同じ色の双眸が、初めてまともに俺を見た。
「だから――教えてくれ。一緒に考えてくれ。どうやったらグレートワーデンに……みんなの元に戻れる? あんた、神の元締めみたいなもんなんだろう!?」
俺の質問に、フラクティカは表情を何ひとつ変えない。
代わりに、端整なラインを描く唇をゆっくりと開く。
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