八話
〈前回のあらすじ〉
悠は風呂に入ることになった。
〈本編〉
「夜の二十二時か……」
と、壁に掛けられた時計を見つつ呟く。
昼寝とか部屋の整理整頓だけで、かなりの時間を使ったらしい。
「入るか」
二階の方なので一階よりはかなり狭い。
脱衣所で服を脱いで、籠に入れて、タオルやらで衣類を隠す。
ドアを開けると、誰一人いない風呂場。
「広いなこりゃ」
泳げそうなくらいのデカい風呂場。
離婚前の割と裕福な方のでもこの広さは無かった。
稼ぎ頭は誰なんだろうかね、と。
下世話な考えをしつつ、シャワーを浴びる。
座って浴びるシャワーというのは中々ない。
俺の場合、風呂は辛うじて幼馴染の家のシャワーを使わせて貰っただけで、入浴なんて以ての外だ。
もう子供じゃないんだし、変な毛が浮いてたらヤバい。
とはいえ、今も変な毛が浮いてそうなのには変わらないのだが……
サッとシャワーを済ませ、結構広い浴槽へ。
ちゃぽん、と音を立てて入浴。
おお……濁りなき湯に汚れが溶けていくような感じがする。
こう、切り傷や擦り傷、不眠症、鬱病、動脈硬化、アトピー、関節リウマチ、耳鳴り、冷え性、その他諸々に効能がありそうな感じだ。
「……」
声を出せるほど力が入る訳もなく、無言で湯を堪能する。
俺はもっぱらシャワーだけだった。
だがこれを機に、長風呂勢になってしまいそうだ。
肩までしっかりと湯に沈める。
一息して、次の瞬間、ガチャリ、と、音が鳴る。
ん? なんだこの音……
ドアの方を見てみると、女の子がいた。
左手には眼鏡を持っていて、俺に背を向け、シャワーの方に向かっている。
誰よりも長い髪。この髪は家に入ってから見ていない。
まさか……
地金さんというやつなのでは……?
女の子は、眼鏡を傍に置いて、鏡と相対した。
違和感。
後ろを振り返る。
ゴボ。
水飛沫を上げて、風呂の中に潜る。
「……」
「……」
水の中、声は聞こえない。
突如、頭部を掴まれる。
雑草を引っこ抜くみたいに、雑に引き上げられる。
水が滴る。目を開ける。陸にあげられた俺は、目の前の女の子と目があった。
女の子はタオルを巻き、眼鏡を付けていた。
俺の頭を掴んでいない方の手で眼鏡を取る。
頭の上にクエスチョンマークを浮かべて三秒見る。
瞬きを三回。最後の瞬きはたっぷり三秒も掛けた。
眼鏡をタオルで拭いて、もう一度掛ける。
目と目があった。
「アンタ……誰」
「そのですね」
「うん」
「実は……」
(省略)
「ふーん」
バスタオルを付けたまま足湯をする女の子。
「だからなのね。アンタは知らないと思うけど、
今回は殺さないであげるけど、次やったら殺すわよ」
「……す、すみません……」
「もう十回くらい謝ってない? ウザいから辞めてくれる?」
「いや、でも、本当に申し訳なくて……」
女の子から、露骨に溜息が漏れ出る。
「にしても、アンタも災難ね。よりにもよってアタシ達九條家なんて。
同じ立場だったらって考えると普通に無理だわ」
足で湯を跳ね上げながら、会話を続ける。
体が動いた瞬間に、香りが浮き立つ。これは……
「なんか……匂いがしないか?」
「嗅いでんじゃないわよ」
「あ、はい」
腕でシッシッと振り払われると、香りが飛んでくる。
なんというか、濃い香りだ。
女の匂い。雌を感じる匂い。
癖になってしまいそうだ。
「〇時台はジブが使ってるから、明日からは
「そうする……っと、なんで死風はそんな時間に?」
「さあ。知らないわね。まあいいでしょ、自由じゃない」
曇った眼鏡をタオルで拭く。
足の付根まで中に浸かる為、少しずって前に出てくる。
「ねえアンタ」
「何だ?」
改まって訊いてくる。
「ぶっちゃけ今までの話はどうでもいいのよね。
アンタにとっては役得だろうし、アンタは今後気をつければいいだけ……あんまり公平ではないと思うのよね」
「……いや、公平じゃないか?」
「そうかしら?」
あまりそちらの方を見ないようにしている為、表情は見えない。
しかし湯気の向こうから漂ってくる、妙案を思い付いたという感じの雰囲気は感じ取れた。
「アタシの部屋に入っていいから、アタシのこと手伝ってくれない?」
「……それは、どうして?」
「再婚が解消されたら、アンタ達五人はたぶんどっか行くんでしょ?」
今までの話からある程度予想は付いていたらしい。
少なくとも、否定できない仮定を論じてくる。
「どうせ破局よね。お母さん、結婚とかそういう経験無いし、アンタのお父さんも……聞く限りだとゴミじゃない」
「お母さん、結婚したことないのか?」
「そこ触れるの?
脱線しちゃうからあんまり長くは話さないけど、簡単に言うと、アタシらを産んだのは今のお母さんの姉よ」
「ああ……そういう感じなのか」
「じゃあ」と、女の子は話を戻して……
「破局するまでの間……
そうね。アタシの予想だと、春休みが終わるまでには離婚してるんじゃないかしら。
じゃあ、春休みが終わるまで毎日、午後七時からアタシの部屋に来てくれない?」
それから続けて、
「そうしたら今回の件は無かったことにしてあげる。
アンタは犯罪者にならないし、トモカから言い寄られることもないし、ついでに眼福を記憶に残せておける。
いいと思わない?」
「拒否権はあるのか?」
女の子は少し黙った。
数秒考えて、結論を出す。
「最低時給は千円ちょいでしょ?
午後七時から午後二十二時あたりまで働いて、一日五千円。
明日は四月二日で、四月十三日から学校が始まる。
ってことで、十二日までの計十日間、つまりは五万円で手を打とうって言ってるのよ」
「五万円払えばいいんだな?」
「そうね。働くか五万円か」
「……働く」
「まあ、そうよね。アンタの説明聞いてると、五万円は不可能よね」
「ただ」と前置きして、「離婚するまでだから、実際はもっと短いわよ」と魅力的な条件を付け足す。
「分かった。働くよ」
「そう。ならいいわ。
じゃあ、アタシは上がるから、アンタは十分待ってから上がりなさい」
「はい……」
ドアが開ける音がして、去り際に声がかけられる。
「明日の午後七時ね」
「分かった」
そうして、ドアが閉じられた。
波乱の風呂場だったが、大騒ぎにはならずに済んだらしい。
今俺が無事に布団に入っていることが、それを表していた。
「……風呂、大きかったな」
と、しみじみ言う。
焦りのあまり満喫は出来なかったが、死風の情報を知れたので良しとしよう。
さて、にしても、明日から……事実上の労働か。
まあ、そんなことはどうだっていい。
ベッドの上に敷かれた布団は、エンペラーらしく少々ふわっと盛り上がっており、いかにも柔らかそうだ。
一度昼寝はしたものの、元より夜勤で寝れてない日もザラにある。
地金。
風呂で会ったあの子は恐らく地金だ。
詳細はともかく、肉体労働は嫌だな、と、デスクワークに思いを馳せた。
一旦座椅子に座って、ゆったりと息を吐く。
もう睡眠の時間だ。
電気を消してエアコンを付けつつ、一度一階へ。
飲み物を飲んでから、二階へ。
屋根裏部屋へと戻り、暗がりの中でベッドにまで辿り着く。
「寝るかー……」
イレギュラーがかなり起きてしまった。
結構疲れたな。
布団を捲って、中に侵入する。
おお、昼寝してた時のぬくもりがまだ残っている。
エンペラーベッドは流石だな。
「昔、星宙のベッドで寝てた時を思い出すな……おやすみ……」
「ちょっと待って」
……?
「誰その女」
「あ……?
?????
……!?」
……
いつもと変わらぬ束縛気質。
寸分違わぬ声と顔。
冬と横倒しで向き合っていた。
「ッゥ!!?」
一気に起き抜けて、ベッドからずり落ちる。
「ど、どうした……冬」
「あのねお兄ちゃん」
「ああ……」
なんとなく嫌な予感……
「わたし、今日からお兄ちゃんと一緒に寝ようかなって」
と。
まだ波乱は終わっていなかった……
〈次回予告〉
「六番シノミヤフユ、得意の重馬場、先月の好記録を保つことができるのでしょうか。見物ですね。
一方対抗馬は二番クジョウチカ。
今回でGⅡは初出場ですが、どこまで食らいついていけるか。
さあ位置に付く。
今、スタートが切られました。
下馬評通りシノミヤフユが勝つか、未知に満ちたクジョウチカが勝つか。
シノミヤフユは調子にムラがありますからね。
やる気が高い時は飛び抜けて素早いんですが、おおっとこれは……
なんと、スタートが切られたというのに、二番クジョウチカ止まっている! 止まっているぞ!
これは想定外奇天烈予想以上の展開ですッ!
六番シノミヤフユ、やる気が見るからに削がれましたね。
先月より七秒遅れで第一コーナーを突破しました。
一方二番クジョウチカ、やる気を出さずのんびりと歩いています。
先頭との差は二十馬身以上は離れている。このままの進行方向ですと、コースを逸れてしまいそうですが……
まさに未知という下馬評通り、何がしたいか全くわからない行動ですね。六番のやる気を削ぐためでしょうか。
第二コーナーを抜ければ最後の直線です。U 字型のコースですが、最後の方は下り坂となっており、決して平坦ではありません。
っと――これは――
ここで二番がコースアウト! しかし止まる気配はありません! U 字を大幅に短縮して最後の直線へ。
シノミヤフユ焦った! 二馬身後方から直線を駆ける!
と、ここで並んだ!
クジョウチカ負けじと並走する、しかし――並走状態のままゴールです。
タイム更新はないようですが、順位結果はどうなるのでしょうか。おっと、今でました。
シノミヤフユ――一位! ですがこれは完全に同時にゴールインしているようですね。
さて、ここで実況を終わりにしたいと思います。
実況はわたくし、篠刻雨星宙と、
私、篠刻雨星宙がお送りいたしました。
また次回のレース場でお会いしましょう。
次回はマイルのGⅠレース、のと⁴ステークスでお送りいたします、『西洋木蔦賞』です。
では皆さん、本日はありがとうございました」
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