幻のとんかつととんぺい焼き と 乾坤一

(1)


 陰気な小路の石畳が場違いに軽やかな足音を響かせる。

 すでに夜は更けて、しかしこの都市独特の湿度が星明かりをも阻んで、闇は深い。その中を、黄色い魔法の灯りを背負って小柄な女が息を切らせて走る。


 まともな女性が独り歩きするなど考えられない物騒な地域だ。この女も、先程からねとつく・・・・視線をいくつも感じている。

 しかし、今はそれよりもとにかく道を急ぐ。足を止めれば厄介事が追いついてくる。いま、それに構っているいとまはない。急げ。急げ。

 殺気立った様子を見れば、余程よほどヤバい件をヤバい先へ伝える密使に違いない。闇に潜む悪漢たちも警戒し、袖を引き合って彼女を見送ってしまう。


 やがて人影は裏路地から魔道灯がまばらにとも丹墳町メルクリアリス通りに出て、赤いランターンの前でその足を止める。

 その光が赤く染める引き戸をガラリと開いて、弾む息を抑えるのももどかしく、叫ぶ。


「とんかつ定食!」



 事の起こりは数日前にさかのぼる。

 あの日は昼前からヒーラー仕事の数が多かった上に日没間近になって手間取る事例が多く、昼食抜きの深夜に至って空腹を抱え、人影のなくなった街をさまよい歩きこの店にたどり着いたのだった。


「なにか、精のつく食べるものを」ひとこと言い残してぐんにゃり倒れたヨランタへ店主・マーチンが差し出したのがとんかつ定食。

 とんかつ、ご飯、味噌汁、突き出し野菜のセット。


 この食事体験は、彼女のこれまでの食事観を打ち砕いた。

 この世のあらゆる白よりも白く、風味豊かにすべてを包み込む白米。世界の全ての濁りを呑み込んだような顔をしてどこまでも優しい味の味噌汁。そして何よりも、とんかつ。

 とんかつは、とんかつだ。とんかつアルファにしてとんかつオメガ。今までの人の世の営みはすべてこの料理を生み出すためにあったのかもしれない。

 そう絶賛してもマーチンは渋い顔をしながら「いま腹が減ってただけやろ」と、つれない返事。



 などと思い返して、よだれが垂れないよう緩む頬を引き締めて店内を見渡す。そして、ギョッと目を見張る。

 満席だ!


 マーチンがじろりとこちらを一瞥してひとこと。

「今日、とんかつもご飯も品切れ。悪いね。」


 賑わう楽しげな騒音のなか、くたくたと入口のその場にくずれ落ちるヨランタ。真っ暗にくらむ目に歪んで映るのは、席を埋める冒険者たちの皆が皆、美味そうに突付く皿の上のとんかつ。もし、彼女が黒魔法の使い手であったらこの場で何らかの破局が訪れただろう呪いの波動が漏れている。


「そんな…昨晩からずっととんかつを食べたいと思ってたのに!…」


「その昨晩も、一昨日もとんかつ食べてたやん。…ま、5日連続でとんかつ定食は止めといたほうがええから丁度ええやろ。

 それよりヨランタさん、ウチのとん定を宣伝しててくれたらしいね。気持ちはありがたいけど、俺は日に4人までしか接客でけへんにゃわ。困る。」


 そんな店って、ある? 突っ込みたくなるが、その元気もない。

 ここ最近の昼間、回復魔法仕事で魔法を効かせている間の気まずい空き時間にひたすらとんかつの旨さを語っていたんだった。そのトークを聞いていた本人や周りの人がやって来てしまったようだ。

 怪我人にも病人にも、生きる欲をかき立ててやるのが効く。回復魔法の技能よりも患者の気力が生死を分ける。そういう場合、不思議に性欲の法悦はそのまま死に至りやすい。睡眠欲は論外だ。食欲に限る。

 だが、そのために自分が食いそびれてしまっては本末転倒だ。


 他人の生命より自分の元気。ヒーラー職は聖職者に独占されているが、ヨランタは聖職者ではない、よく言えばフリー、世間的にはヤミのヒーラーという立場。酒も肉もニンニクも禁忌にならない。

 とにかく、今は己の腹をどうにかせねば。



 マーチンがいっぱいいっぱいの今、元気さえあれば「手伝いますー」とか言ってあげれば好印象を与えられるだろうが、考えてみればいつも、この店に来るときにそんな元気を持て余していることなど無い。

 諦めて寝床に帰っても食べ物の用意は無い。席が空くのを待つか?立って飲み食いするか? しかしとんかつはもう無い。泣きそうだ。迷っていると、思わぬ横から「ヨーラちゃーん」と声がかけられる。


 奥の座敷席だ。4人掛けに座る、見知った3人の男たち。なるほど、満席ながら1席空いている。

「どうもー」なんてペコペコしながら、ありがたく狭い席につく。一度、入ってみたかった座敷だ。

 靴を脱いで上がるらしい。つくづく、謎の異文化だ。外で靴を脱ぐなんて浴場と沼にはまったとき以来だ。大丈夫? って何が。いや、すごく緊張する。死にやしないさ、えいっ。


 飲食店にふさわしからぬ男たちの獣臭も漂うがしかしこればかりは背に腹は、いや足に鼻は代えられない。野郎どもは「女の子がいるだけで飯がうまくなるねぇ~」などと言いつつ「エールをもう1杯、あと焼いた肉!」なんてアバウトな注文をしている。

 案外、世の中に珍しいものを飲み食いしようとする人は少ない。そういう人さえ評判だけで引き付けるとんかつ、嗚呼とんかつ。……いい加減、それは明日ということで割り切ろう。私はお腹が減っているんだ。


 忙しげにキッチン仕事をしているマーチンに聞いてみる。

「とんかつに似てる料理を!」


「だからさ、揚げ物は3日に1度くらいにしときよ。太るよ?」


「知ってる。余分な油は毒素として解毒魔法სისუფთავეで排出してるから大丈夫!」


「大丈夫!ちゃうわ。人の料理を馬鹿にしてんのか。今日はフライ禁止! そうやね、豚の薄切りとキャベツ、卵はあるから、とんぺい焼きにしたる。大人しゅう待っとき。」



 同席の冒険者たちは古い馴染みだ。狂魔術師退治や未踏の湖沼地帯の調査、ミスラル銀の採取など様々なクエストを共にした。お互いの尻の穴まで見知った間柄だが色っぽい関係性は皆無。ヨランタとしては微妙に納得しづらくもあり、いまさら迫られても困るばかりなのも確かであり、“戦友” という言葉のみがしっくりくる雰囲気。

「肉を食え、肉を!」と押し付けられるのを避けつつ、注文の品が届くを待つ。


 思っていたより早く、突き出しと酒が届く。本日の突き出しは、麻婆茄子。

「昨日からお初の客が増えてるから、油と塩気が濃い味噌田楽を出してやったんけどあのアホども箸をつけもせぇへん。せっかくええ味噌出してやってるのに!

 早々に諦めて、子供でも好きな麻婆茄子に変えてやった。丸美屋のな!

 酒は、どんな強いアテよりも強い、東北の酒・乾坤一ケンコンイチ!まずは飲んでみ!」



 マーチンも知らない所で参っているらしい。というのも、この辺では “戦うオトコは草なんか喰わない” なんていう信仰に近い思いを抱く人種が男女を問わず支配的なのだ。

 おそらく、この魔都の人口の6割程度はそうなんじゃないかと思う。


 出されたものをひとくち食べて、マルミヤが何かは知らないが、これはオヒタシなど絶対に口にしない男たちでも充分美味しくいただけるものであることがわかった。ひき肉らしきものも入っている。

 辛い。甘い。繊細さには欠けるが、この店で食べるもののご多分に漏れない初めての味だ。それらのなかでも、特に柔らかくねっとりと濃厚な旨味に塩味、そして舌を刺す刺激。

 あの男はなにやら軽んじているようだが、こういうのいいんだよ、と思う。

 作り手のこだわりというのは、例えば魔法薬屋のミカルが「ダメ、ダメ、回復ポーションは満月を見ながら大樹に抱きついて飲まないと効果は半減だ」と押し付けるように客の都合を無視するタイプの悪徳だ。


 キッチン前まで詰め寄ってそういうようなことを言って絡んで、ついでに手を付けられなかった田楽もつまみ食いさせてもらう。うん、冷めててもおいしい。やっぱりお出汁が入って良いお味。でも客を考えたら高度すぎるわ。

「そうね、マーチンが考える最低のメニューって何かしら?」


「業務用ポテチを、パンまつりの皿で。それとガブガブくんのボトル。」


「それをあのテーブルにお出しなさい。それでもまだ文化度が高すぎると思うわ。」


「えぇー、嘘ぉ…」

「さっさとしなさい!」

「本気で? うわぁ、料理人のプライドが…せやけどちょっと楽しくなってきた。うひゃあ~!いま、タブーを踏みにじってる!」

「なんでそんなのを用意してるの?」

「いや、ヤクルトが効かなかったし。」

「私のために? 傷つくわぁ…」



 この店のガラにもない喧騒は、まだまだ収まる気配もない。

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