九重

「まさか、とお思いになるでしょう」


 目の前にいる男の人は、両手を組みながら笑っている。


「ところが物語ではないのです。これは一から十まで、本当にあった話です」


 そう言ってから言葉を止め、男の人は傍に置いていたグラスを取って、喉を潤した。


「あなたはなかなか信じる気にはなれないでしょうな」


 彼がグラスを置いた。グラスの中の液体は、光を受けて琥珀色に揺れている。


「いまはまだ分からなくてもいい。しかしきっといつか、お分かりになる時がきます……」




 しばらくしたのち、私はその建物を出た。そのまま歩きながら、私はいま過ごした時間の余韻に浸っていた。


 どうにも不思議な話だった。あの人が話してくれた内容は、聞くぶんには面白かったが、現実にあった話だとは、私には到底信じることが出来なかった。


 私は後ろを振り返る。もといた建物は、他の建物に隠れてもうここから見ることはできない。そのことが、つい先ほどまで自分があそこにいたのだということさえも、なんだか夢のようにおぼろげな出来事にさせていた。




 「私にもいつか、分かる時が来るのだろうか」


 私は自分自身に問いかけてみたが、その答えは、どうにも出そうにはなかった。


 とはいえ歩みを止めるわけにはいかない。私は進んでいかなくてはならない。


 そのうち、広い通りに出てきて、私は交差点ににさしかかった。

 

 雑踏が私を飲み込む。うねる人並みは巨大な意思のように、私をどこかへと運び去っていった。

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