第10話 白鳥
連絡しても無視され、しつこいかもしれないが『自分に悪い所があったなら謝りたい』と、長文でメッセージも送った。
だが但馬から反応はなく、何が悪かったのかすら分からない。
最初はメッセージに既読がついたが、それもなくなり、ブロックされた事を知る。
あの時の絶望は筆舌に尽くしがたく、泣いて、泣いて、全身の水分がなくなってしまうと思うほど号泣した。
あまりにもつらくて、但馬と巡った場所には近づけなくなったほどだ。
食べられなくなり、貧血気味になった春佳を癒してくれたのは兄だった。
当時大学一年生だった冬夜は、無気力な妹を車の助手席に乗せ、特に何も言わずドライブに連れ出してくれた。
『アイスなら食べられるだろ』
そう言ってソフトクリームを差しだされたのは、山中湖まで行った時だ。
二人は湖畔の柵に寄りかかって、青い湖で白鳥が優雅に泳いでいる姿をぼんやりと眺める。
『……白鳥って、渡り鳥じゃなかったっけ』
大型連休が近かったからか、周囲には家族連れや恋人とおぼしき人々が大勢いる。
悲嘆に暮れているというのに風光明媚な観光地に来てしまい、せっかく落ち込んでいた気持ちが台無しだ。
『ここの白鳥は通年いるらしい』
天気予報で快晴と言われたその日は気温が高く、春佳は半袖と短パン姿だった。
冬夜は英字プリントのある青いTシャツの上に白いシャツ、ジーンズだ。
思えば、兄は夏場になっても半袖にならない人だった。
あとになってから『お兄ちゃんの事だから、日焼け予防かもしれない』と思い、その美意識の高さに舌を巻いた。
『……優雅に泳いでいていいね。つらい事なんて知らないみたい』
投げやりに言った春佳の言葉に、兄は小さく笑った。
『そう見えるだけだよ』
視線を上げると、冬夜は遙か向こうでくっきりとした稜線を見せる富士山を見て、どこか悲しげに言う。
『この綺麗な青い湖の下にだって、泥があるしゴミも捨てられている。白鳥は見えない水面下で、必死に足をバタつかせて泳いでいるんだ。氷山の一角という言葉があるけど、皆見えているものしか見ようとしない。その下に隠されているものを、想像しているとしても認めたくないんだ』
途中から抽象的な話になった兄の言葉を、春佳はソフトクリームを舐めながらぼんやりと聞いていた。
『富士の樹海に行ったら自殺者の遺体があるとか、心霊番組で幽霊を連れ帰ったとかやってるだろ。美しいものの足元には必ず闇があるんだ。皆、それを知ったら面白半分に興味を持つだろう。でも自分にはどうしようもないから、楽しむだけ楽しんだあと、そっぽを向いて他人のふりをする。……人間なんてそんなもんだよ』
突き放した事を言う兄が何を言いたいのか分からず、いつしか春佳は冬夜の真意を測るように彼の綺麗な顔を見つめていた。
その視線に気づいた兄は我に返ったようにごまかし笑いをし、春佳の手元を見て「アイス、溶けてる」と話題を逸らした。
冬夜はそういうふうに、常に何かに対して苛立っているように思えた。
兄は兄の事情を抱えているのだろうが、彼はあまり自分の事を話さないので何に悩んでいるのか分からない。
その時、冬夜はすでに一人暮らしをしていたので、彼がどんな生活を送り、何を考えているのかまったく想像できずにいた。
**
(自分から距離をとったくせに)
現在、列車のドア近くに立った春佳は流れる景色を見ながら、苛立ち混じりに心の中で呟く。
兄を好きだったからこそ、家から出て〝知らない大人〟になったのが寂しかった。
自分はまだ実家にいるのに、冬夜だけ独り立ちして、置いて行かれるような心地になったのだ。
春佳は自分にあまり口出ししない父や、何かあったらヒステリックに怒鳴る母より、優しく面倒を見てくれる冬夜に懐いていた。
庸一はヘビースモーカーだが、深酒はせず、ギャンブルも女遊びもしない。
春佳にとっては温厚な性格をした〝いい父〟だ。
けれど困っていた時に相談に乗ってくれ、道を指し示してくれるタイプではない。
家の中にいる〝父親〟という存在ではあるが、彼に父性を感じた事はあまりなかった。
母は情緒不安定な人で、春佳に愛情は持っているのだろうが、過保護なところもあってお互いうまく接する事ができずにいた。
子供の頃は少し帰りが遅くなっただけで打たれたし、大学生になった今も厳しい門限がある。
(だから但馬くんは自由に遊べなくてつまらなかったんだろうか)
そう思った事はあったが、真偽のほどは分からない。
母は確かに厳しい人だけれど、自分を深く愛してくれての事だと思っている。
酷く怒られた時は、自分が悪い事をしたからだ。
(合コンに行った挙げ句、お兄ちゃんの所にいたとはいえ、朝帰りすれば酷く怒られるだろうな)
母の事を思うと、ズンと気持ちが沈む。
(お詫びにコンビニスイーツでも買おうかな。最近お酒ばっかりでご飯を食べないし、甘い物なら入るかも)
気落ちしている母を気遣い、春佳は地元駅に着いたあとの事を考える。
だが一度過去の事を思い出すと、つられてポロポロと嫌な事が脳裏に蘇った。
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