第31話 契約

 悪魔は目の前にいる男を、涎をたらさんばかりの表情で見つめた。

 建物の壁に背を預け、痛めつけられる中年の男を見ている鋭い目をした男。


 その目からは強烈な自我と強い渇望を感じる。


 ――おう。これは凄い。

 悪魔は男の放つ欲望の香りに狂喜した。

 まるで、周りの空間が歪むほどのエネルギー。これこそが、自分の求めていたものだった。


 路地にある小さな街灯の上にとまると、強烈な力を放つ男に見とれる。

 すると、不思議なことに気がついた。


 その男には本来、地獄に由来するはずの瘴気がまとわり付いているのだ。

 これはどういうことだ? 悪魔は首をかしげた。


「どうやらお前は、自力で地獄の力と通じたらしいな?」

 悪魔は唐突に、男に話しかけた。


 その男――恭一は、悪魔の話しかけてくる声に気づき、微かに冷気の漂ってくる街灯を見上げた。


「お前は何だ?」

「我は悪魔だ」


「何? 悪魔? 俺の知る悪魔とは違うようだ……」

 恭一が首をかしげる。


「お前の知る悪魔? それは何だ……?」

「暗い穴の奥から俺に助言をくれるんだ」


「なるほど……」

 悪魔は恭一の目を覗き込み、その記憶を瞬時で読み取った。


「教えてやろう……それは地獄の力そのもの。地獄の大いなる意志だ」

「地獄の意思?」


「ああ。お前の抱いた深い絶望。それは誰もが経験する類いのものではない。だから繋がることができたのだろうな」


「お前、俺の記憶を読んだのか?」

「我は悪魔だからな……造作も無いことよ」

 悪魔が笑うと、ギロリと恭一が悪魔を睨んだ。


「二度とするな」

 静かに……しかし、怒気をはらんだ声で恭一が言った。


「す、すまない。もう二度としない。だから、話を聞いてくれ」

 悪魔は慌てて言った。ここで、恭一を逃がすわけにはいかない。


「お前は何だ? 本当に悪魔なのか?」

「ああ。そうだ。我は悪魔――悪魔ビゼムだ」

 悪魔は名乗った。


 これは運命だ。この男が欲しい。

 悪魔そう思いながら必死に言葉を紡いだ。


「自力で地獄の大いなる意思と通じるほどのお主と……悪魔である我が出会ったのは運命だ。我はこの世を地獄に作り替えたい。我と一緒になってくれないか」


「一緒になるって、なんか気色悪いぜ。お前と一緒になって、俺に何かいいことがあるのか? 俺のメリットは何だ?」

「お前に力を与える……」


「力? 俺には既にあるぜ。ブラック・マンバという力と、この阿佐田という男が産む麻薬による金だ。メリットがないのなら、この話はなしだ」


「待て。我が与えようとする力はそんなものではない。お前がそれを手に入れれば、暗黒の王になれる」


「暗黒の王?」

「ああ。好きに生きたいんだろう? この世を弱肉強食の本当の姿へと変え、そしてそこで頂点に立ちたいのではないのか?」


「ああ。まあ、それはそうだな」

 恭一は眉根に皺を寄せ、悪魔を見上げた。


 みすぼらしい小さな蝙蝠こうもりとも蜥蜴とかげとも言えないようなもの。こいつに本当にそんな力があるのか? と、恭一が訝しんでいると、


「今、お主の為したいことを成し遂げさせる。何か、その男から聞き出したいのではないか?」

 悪魔はそう言って、恭一の目を覗き込んだ。


「本当に、お前にそんな力があるのか?」

「ある」

 悪魔は断言した。


「ふうん……」

 恭一はしばらく考えて、口を開いた。


「お前が本当に悪魔なら、俺がその男から何を訊き出したいのかも分かるだろう。俺はそれが何かは言わん。俺の訊きたいことが何なのかを当て、聞き出して見せろ。それくらいできないと、お前の言うことは信じられん。何より、今のお前はちっぽけ過ぎて、本当に悪魔かどうかも怪しいぜ」


「わ、分かった……ちょっと待ってろ」

 悪魔はそう言うと、街灯の上から地面に腰を落としている阿佐田を見つめた。そして、しばらくすると口を開いた。


「そ、その男。名前は阿佐田、とか言う男の、持つ何かを……聞き出したいだけじゃないな……。そ、そうだ、麻薬の仕事の関係者のこと、コネクションのこと、それらの全てを乗っ取りたいんだろう?」


「なぜ、分かる?」

 恭一は目を見開いた。


「こ、この場の、か、過去の出来事を視たのだ」

「過去を視る?」


「ああ。我の魔力だ。ここでお前がその阿佐田という男に言っている内容を視た」

「そういえば、さっきも俺の記憶を覗きやがったな。ここで起きた過去の様子まで見るとは、半端ないな。じゃあ、実際に阿佐田の持つ麻薬のルートを乗っ取ることができるか?」


 恭一が笑いながら言った。

 もし、本当にできるのならこいつのことを信じてもいいかもしれない。ただし、利用するのは俺だ。


「我の力、信じさせてやろう」

 悪魔はそう言うと、小さな羽を羽ばたかせ、恭一の周りをぐるりと回った。


 暗闇の中で、恭一の足下だけが明るくなり、跪いている阿佐田が浮かび上がった。

 悪魔は阿佐田の周りを飛び、耳から頭の中へ入り込んだ。


「ひゃあ。な、何だこれ?」

 阿佐田が叫び、耳を何度もはたいた。プールで耳に入った水を出すときのように、悪魔が入っていった方の耳を下にして追い出そうとする。


 ――と、阿佐田の動きが止まった。二つの瞳がばらばらに動き、そして恭一を見た。


 みるみるうちに、阿佐田の顔がしわしわになって頭髪が白くなっていく。

「こ、これから……」

 阿佐田がよだれを垂らし、恭一に向かって口を開いた。


 恭一は黙って様子を見守った。

「これから、何でも、恭一さんの言うとおりにします……麻薬の取引の関係ですね……まずは……」

 阿佐田は、麻薬を売り買いする先の連絡先を話し始めた。


「へえ」

 恭一は感心した顔で頷いた。


「こいつの生体エネルギーも、ついでにいただいた。とりあえず、先ほど話した内容以外で知りたいことは何だ?」

 阿佐田の口を使って悪魔がしゃべった。


 恭一の耳に再び、あの冬の日の雪混じりの強風の音が聞こえてきた。


「もう、お前が体から出ても、阿佐田は何でも言うことを聞く状態なのか?」

「大丈夫だ……」

 冷たい、錆びたような声音で悪魔を頷いた。


「よし。とりあえず、お前はそいつから出ろ。あと、死なない程度にその生体エネルギーとやらを戻しておけ。こいつにはまだしばらく働いてもらわないといけない。さすがにお前が取引先と交渉したりはできないだろう?」

 恭一は笑った。


「我と一緒になるか?」

「ああ。とりあえずはな。だが、気に入らなければすぐに追い出すぜ」

 恭一は大きく口を開け、歯をむき出して頷いた。その表情は、他の人間から見たら、悪魔そのものの表情だったに違いない。


「契約完了だ」

 悪魔ビゼムは歓喜の表情を浮かべると、恭一の中に入った。

 恭一の背が反り返り、目が真っ赤に光る。


 そして、恭一の背後に古びた羊皮紙のようなものが浮かんだ。真っ赤な悪魔の文字が次々と刻まれていき、最後に恭一の体に溶け込んでいった。


 ――こうして、運命の大きな歯車は動き始めたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る