第29話 恭一(1)

「やめろ! やめてくれ。何でこんなことを……」

 腹の出た中年の男が、手のひらを上げて自分を殴りつけてくる男に必死に懇願をしている。


 冴えない中年男を殴りつけているのは、竜一たちのチーム、スカル・バンディッドと敵対するブラック・マンバのリーダー、緋村ひむら恭一きょういちだった。恭一は陰惨な空気を纏い、顔には酷薄な笑みを貼り付けていた。


 路地の出口では、弟の冬次と部下が三人、たむろするふりをして見張っていた。地回りのヤクザに見つかったら、間違いなくめんどうなことになるからだった。


 中年男の名前は阿佐田と言い、その正体はフリーの麻薬の売人だった。ベトナムのルートを通じて合成麻薬であるMDMAを扱っている。そのルートは、在留資格が切れたまま日本にとどまるベトナム人グループを助ける中で培ったものだった。


 阿佐田がヤクザと交渉し、商売を続けられるくらいには金を渡し、扱う商品もヤクザの主力商品の覚醒剤アイスではないMDMAを中心にした。代わりにブラック・マンバで若者を中心にブツを売りさばいた。


 おしゃれなイメージで売りさばいたのが功を奏し、クラブで夜遊びをする若者中心に口コミで拡がった。そしてその後は、ブラック・マンバのメンバーが学校の友人たちを狙って売り込んでいった。恭一は阿佐田と協力し、一緒に商売を拡げていったのだった。


「なぜだ? 今まではうまくいっていたじゃないか? もっと安く卸して欲しいのか?」

 阿佐田が恐怖に彩られた表情で、恭一に訊ねる。


「いや。それじゃ、足りない……」

「どういうことだ?」


「オレの野望を達成するためには、もっと、もっと、金が必要なんだ。お前の持つコネとルートをそっくり寄こせ」


「馬鹿な!? 突然、お前たちが俺の商売相手のところに出向いていっても、売ってもらえるわけがない。この世界、信用とコミュニケーション能力がものを言うんだ」

 阿佐田が恐怖に彩られた表情で一気にまくし立てた。


「お前。俺たちに内緒で卸値にマージンを上乗せしているだろう?」

「それは、俺の調整力に見合ったコンサルティング料だ。実際、卸元や地元ヤクザとのトラブルもないだろ? 長く培った信用がものを言うんだ」


「そうか? どっちにしても売りさばくのは俺たちなんだ。きちんと金を払いさえすれば、卸元やヤクザには信用してもらえるんだろう? お前が絶対に必要だとは、どうしても思えないんだ。信用ってのは金払いを裏切らないってことだろうからな」

 氷のように冷酷な眼差しで、恭一は言った。


 阿佐田の顔が一気に恐怖の色に染まった。これから待ち受ける自分の運命を覚ったのだ。


「た、助けてくれっ!!」

 阿佐田の悲鳴が、細く長く響いた。


 恭一の横に、いつの間にか巨大なハンティング・ナイフを携えた弟の冬次とうじが現れていた。冬次は、ナイフの長大な刃を長い舌で舐めながら、阿佐田の怯える顔を楽しそうに眺めている。


「頼んだぞ」

 恭一は大きく息を吐くと、冬次の肩を叩いた。


      *


 恭一の心は、血なまぐさい路地裏から離れていた。

 眼には雪混じりの風が映っている。


 暴力に高ぶり、心がすさんだときに訪れる幻覚だった。

 強風が体に突き刺さり、びゅう、びゅうという甲高い音が耳元で鳴る。


 目を瞑ると、忌まわしい過去の記憶をたどる。

 冬次は幼すぎて覚えていないはずだが、恭一には両親の記憶があった。


 ――幼い頃。母親は家にはほとんどいなかった。たぶん夜の仕事をしていたのだろう。主に、二人を世話したのは父親だった。


 母親で覚えていることと言えば、アルコールとたばこ――そして香水と化粧の匂い。たまに帰ってきてつけるテレビの音声、父親との喧嘩の声。そういった断片的な印象がほとんどで、顔もうろ覚えだ。


 だから、恭一の心の中で最も輝いている幼い頃の記憶は、父の優しい笑顔と、一緒に過ごした日々のことだった。父の作ってくれる袋のインスタントラーメンの味やおんぶしてくれた広い背中の感触。抱きしめてくれたときのチクチクする髭の感触は、忘れようとしても忘れられない。


 ――だが、自分が四歳、冬次はまだ二歳を少し過ぎた頃に、その幸せが壊れる出来事が起こった。


 とある公園のベンチで、父親から冬次と一緒に待っておくように言われた。

 雪の降る寒い夜だった。


「お前はお兄ちゃんでしっかりしてるから待てるよな……」

 父にそう言われ、恭一は頷いた。


「すぐに帰ってくるよね?」

「ああ、大丈夫だ……」


 父はそう言って、なんとも言えない複雑な表情で頷いた。その顔が今でも脳裏に焼き付いている。


 恭一はその夜、ずっと待った。寒そうにしている冬次に上着を掛け、二人だけでずっと、ずっと、待っていたのだ。途中から風が強くなり、びゅう、びゅうと吹き荒れた雪混じりの風は容赦なく二人の体温を奪っていった。


 その風は暗い空から吹き付けてきた。風は渦を巻き、中心が真っ黒な穴のように見えた。


 いつしか、恭一は、その穴の中心に不吉で恐ろしい者がいるような気がして震えた。恭一はその恐ろしい者に必死で祈った。


「お願いします。ぼくと弟を連れて行かないで……」

 目を瞑り、祈っていると、いつの間にか意識は闇の中へと落ち込んでいた。


 怖い夢を見た。

 父が前を歩いていて、背中しか見えない。


 夢の中で、恭一は「お父さん!」と叫んだが、父は振り向かない。

 隣を歩く弟の冬次が繋いでいる手をぎゅっと握ると、真っ黒な煙が溢れ父の周りを囲んだ。そして、あっという間に骸骨になった。


 その骸骨は振り向くと、確かに笑った。


 ――結局、朝まで父は帰ってこなかった。二人とも意識を無くし、寒さと空腹で死にそうになっているところを助けられたのだが、母親も迎えに来ることはなく、二人は児童養護施設で育ったのだった。


 その日以来、恭一の中で、何かが壊れた。信じられるのは血の繋がっている弟の冬次だけとなっていた。

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