第9話 病院(1)

 俺は大学附属病院に着くと、そのいかめしい灰色の建物を見上げた。

 街の中心から東の方角にある五階建てのコンクリートビルで、昔から存在は知っていたが、中に入ったことは無かった。


 ここに、俺の体があるのか――

 猫の体からすると、巨大な建築物にしか見えない。入り口の自動ドアを睨み、どう入ろうか考えていると、患者らしき人が駐車場からやって来るのが見えた。


 このタイミングを逃がす手はなかった。俺はその人のすぐ後ろにぴったりとつくと、入るのに合わせ、自動ドアが開いたタイミングで素早く駆け込んだ。


 入ってすぐのロビーでは、椅子に座っている患者がほとんどで、あとは看護師が数人歩いているだけだ。


 薬品や消毒薬、ほかの人間の臭いに混じって、微かに由里子の臭いが漂っている。死神が言っていたとおり、由里子は病院に見舞いに来ているのだ。俺は微かに残る由里子の匂いを頼りに、病院の中を移動した。


 歩くたびに、足の裏に冷たく硬い床の感触を感じる。

 歩いていると、病院だからか、生気の無い幽霊が所々に立っていた。俺はわざと幽霊の目の前を通り過ぎたりもしたが、何の反応も無かった。ただの幽霊で、あの子どものように反応がある方が珍しいのだろう。


 俺は途中から、幽霊は無視することに決めて、足音を立てないように注意し、隠れながら進んだ。人間に見つかって騒ぎになるといけないからだ。


 由里子の匂いはエレベーターの方へと続いていた。だが、猫の体ではエレベーターは使えない。それに、どこで降りたかも分からない。


 俺は階段の方へと回った。手間だったが、一階ずつ匂いを調べるしかないと考えたのだ。そして、ついに、四階で由里子の匂いを見つけた。そのまま匂いをたどっていくと、424号室に着いた。


 ここか――

 俺は自分の体が入院しているであろう部屋を見つめていたが、すぐに思い直して階段の影に隠れた。


 しばらくすると、タイミングよく看護師が出てきた。出てきたのに合わせて近づくと、ドアの動きを見て部屋に入る。


 部屋の中に由里子はいなかった。

 俺は素早くベッドの上に飛び乗った。


 自分の体が力なく横たわっていた。いつもはリーゼントにきめている前髪が下ろされ、額に真っ白な包帯が巻かれている。青のストライブのパジャマを着て、手首にはビニールバッグから伸びたチューブがつながれていた。


 くそ。

 俺は思わず、自分の体に額を押しつけた。だが、当然のように、何も起こらない。


 ひょっとしたら、という淡い期待は無残にも砕け、俺は呆然と自分の体を見つめた。


 やはり、元の体に戻るには死神に頼るしかないのか――

 目を瞑った青白い自分の顔を見つめていると、廊下を歩く足音を感じ、再びベッドの下へと隠れた。


 入ってきたのは、花瓶を抱えた由里子だった。

 枕元に花瓶を置いた由里子をベッドの下から見上げる。


「竜くん……みんな会いたいって、話をしたいって言ってるよ。私も早く竜くんの声を聞きたいよ」

 由里子はそう言って、寝ている俺の顔を撫でた。


 この状態になって、これほどに元に戻りたいと思ったことはなかった。早く、虎徹を起こして、死神の提案について話をしなくてはいけない。

 そう考えていると、


 ガチャリ、

 と音を立て、ドアが開いた。


 入ってきたのは、スカル・バンディットのメンバーの一人である山元やまもと浩二こうじだった。

 浩二は一個下だが、信頼できる仲間だ。お見舞いに来てくれたのか――


 俺はベッドの下から浩二の顔を見上げた。

「由里子さん……。大丈夫ですか?」

 浩二が心配そうに訊ねた。


「ええ、大丈夫よ。浩二くん、お見舞いに来てくれたの?」

「はい」

 浩二は頷くと、由里子の目を見つめた。


「やっぱり竜一くん、全然目は覚めないんでしょ? 先生は何か言ってましたか?」

「ううん。まだ、何もめどは立ってないって」


「そうすか」

 浩二が残念そうな顔をする。


「そう言えば、リンゴ買ってきたんすよ」

 浩二はそう言うと、おもむろにバタフライナイフをポケットから出した。紙袋から取り出したリンゴをむき始める。


「どうすか?」

 そう言って、素手で手渡されたリンゴを由里子が困ったような顔で見つめ、


「ありがと。私はいいわ」

 そう言って、浩二にさし返した。


 俺は浩二を注意深く見つめた。違和感が徐々に大きくなって止まらなくなる。

 浩二が差し替えされたリンゴを口に運ぶ。


 その時、体勢を変えた背中が見えた。それを見て俺は跳び上がりそうになった。背中に邪霊が貼り付いていたのだった。

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