覆面魔術師、切田くん。ヤンデレ聖女に愛されて夜も眠れる異世界７日間戦記

切田くん、召喚される

「あれ、嘘」

（……ん？）切田くんは困惑した。突然の告白。言葉の意味が、まるで脳内に入ってこない。

　この世界に召喚されて３日目の夜。今にも雨の降り出しそうな、真っ暗夜道の曇り空の垓下（がいか）。……『迷宮都市』東部を流れる、大河のほとりの、大きな橋の下。

　暗夜行路。夜間低空より侵入して、ご飯を食べて。毛布の上で抱き合って、彼女とキスをして。

　――この、月夜みたいに冷たくて美しい人と、今は、こうなってしまっている。

　抱き合ったままの、腕の中の彼女は動かない。――触れているのに、触れてはいけない。そんな畏（おそ）れを伴（ともな）った空気が、……腕の中にある温度が、恭（うやうや）しくも高価な人形であるかの様に錯覚（さっかく）させる。

　口づけの余韻を掻（か）き消（け）す、奇妙で、不吉な空気。見慣れぬ天井。夜空を塞（ふさ）ぐ、橋の底盤。……密着する衣服越しの、しなやかな躰の奥底の熱。

（……え？）「…何ですって？」

「出来て当然だって思ってる。『私には出来る』って信じているし、類くんに頼りにして欲しいとも思ってる」滔々（とうとう）と歌う彼女は、重ねてお（・）か（・）し（・）な（・）こ（・）と（・）を言い出した。

「――それに、類（るい）くんが喜ぶかと思って」

（…弱音を吐いた事が？）「…鋼（はがね）さんが僕に、弱々しい所を見せることがですか？」

「いいえ」重みが離れ、じ（・）っ（・）と（・）、覗き込んでくる。……深淵の双眸（そうぼう）。曇天の橋の下、虚（うつ）ろを宿して艶（あで）やかに笑う、――月蝕みたいに空虚（からっぽ）な、透明な美貌。

「……そんな嘘をついて笑（わら）う、私を見て」

「ずっと見てるよ？切田類（きるた　るい）くん」

「類くんは、私のそういう、ちょっと黒いところが好き」

　……腕と躰が、強く絡みついた。……可憐で、艷（つや）やかで、しっとりとした唇が、――地を這う蛇の舌みたいに、耳の穴へと直接囁（ささや）きかけてくる。

「…私も好き…」

　……囁（ささや）きが、鼓膜を通って脳幹を揺らす。

「私が嘘の猫を被（かぶ）っても」

「……あなただけには、そっと、教えてあげるね？」

　顔を上げて、じっとりと笑いかけられる。

「私を選んでくれたこと、後悔なんてさせないから」

「おやすみ、類くん」

「…え、ええ。おやすみ、鋼（はがね）さん」切田くんも固く、笑い返す。

　彼女の手で、二人の毛布が折りたたまれる。寝袋状になった。

　よ（・）り（・）深く、とグイと抱き寄せられて、……もぞもぞと、収まりの良い位置を探（さぐ）っている。

　――彼女の固く、深い吐息は、しばらくすると、静かで浅い寝息へと変わった。

　切田くんは身を固くしたまま、ふたりを取り巻く夜の向こうをじっと見つめていた。――体中（からだじゅう）が酷（ひど）く混乱している。…ぐるぐる、…ぐるぐると、意識が回っている。

　まるで、異世界に迷い込んでしまったみたいだった。

（……ここは、どこだ……？）

　この物語は、彼女と僕がこの場所に飛ばされた、たった数日間の、戦いの記録だ。

　◇

　切田類（きるた　るい）がふと気がつくと、周囲で大（・）喝（・）采（・）の（・）拍（・）手（・）が巻き起こっていた。

（……何？）

　拍手の主より突き刺さる、好奇の視線。中世欧風を思わせる奇矯（ききょう）な姿の人々。

「ようこそ」「成功ですな」「おめでとうございます！」「成功おめでとうございます！」

　義務的な拍手や歓声を終えると、彼らは顔を突き合わせ、口々に何かを囀（さえず）りだす。ざわめきの中聞こえる安堵と、どこか空々（そらぞら）しい称賛の声。

「何事も問題なく…」「胸のつかえが…」「来る日も来る日も…」「大口を叩くだけの…」「わざわざ出張（でば）ったかいが…」「しかし、よ（・）う（・）こ（・）そ（・）は良かったですな…」「ハハハ…」

　状況は分からない。だが、何（なに）かがマズい。

（…なんだ、この嫌な感じ。教室じゃない。何処（どこ）だ？ここ…）汗ばむ拳を握り締め、何とか状況を読み取ろうとする。

（コスプレカルトの査問会（さもんかい）にでも巻き込まれているのか？）

「見栄えもなかなか…」「技術の粋（すい）が…」「どうやって厳選を…」「サービスでしょうな…」「ハハハ…」「うちにも回して…」「しかし、予算が…」「奴隷市場ですかな…」「ハハ。お上手で…」

　狂気にさえ感じる、白々（しらじら）しい生暖かさ。集の暴が支配するそ（・）れ（・）を一方的に向けられる状況。動悸が激しくなり、息が詰まる。焼け付くような緊張に、じっとりと冷たい汗が吹き出す。

　立ち竦（すく）む彼の目に、さらなる『凶兆』が映った。

（鉄格子？最悪。どうしてこうなったの？）頑丈な鉄格子が目の前に立ちはだかっている。ここは牢屋の中だ。自分は今、格子（こうし）を隔（へだ）てた狂人たちによって閉じ込められているのだ。

（…だって今、授業中だったはずなのに…）

　手にはシャープペンシルを握ったまま。教室も、机も椅子も、鞄も黒板も。教師もクラスの人間たちも。そこにあったはずのものすべてが消え去ってしまっていた。…何の前触れもなかった。世界が突然寸断されたかのようだった。

　替わりに現れたものは、突き刺さる好奇の視線。値踏みしつつもせ（・）せ（・）ら（・）笑（・）う（・）様な、そんな目だ。

　今、確実に、良くないことが、ここで起きている。

　◇

（じょ、冗談じゃないっ！組織か何かの犯罪イベントでしょ、これ！？大規模のっ！）喉がカラカラに乾く。ざわめきに飲み込まれて声も出ない。

（…マジでぇ？なんで僕！？）

　胸のざわめきを押し殺し、浮き立つ足を踏みしめて、切田くんは慎重に辺（あた）りの様子を窺（うかが）う。（…皆さんが楽しそうで何よりです…）自分以外の周りが盛り上がる事など日常茶飯事である。悲しくもあるが、今はそれどころではなさそうだ。

（とにかくマズイ感じだ。この人たちは僕を良いようにする気満々。『僕がどうなってもかまわない』どころか、『それを楽しみにさえしている』向きがある。…つまり、普（・）通（・）の（・）人（・）た（・）ち（・）って事なんだろうけど、今の僕には極めて危険な現状…）

（…落ち着け、切田類。とにかく今は詳しい状況を確認しないと…）閉じ込められているこの部屋は、牢屋にしては広すぎ、そして清潔すぎた。

　汚れの気配がまったくない、白くなめらかな壁と床（…足跡つけちゃる）。床一面には不思議な文様（もんよう）が浮かび上がり、光を放っている。細部まで描き込まれた、多重に円を描（えが）く光の文様。光源に照明装置はなく、光そのものがそこに存在している。あからさまに非日常めいた光景だ。

（ファンタジーに出てくる魔法陣ってこと？頼むから、『これで僕らを呼び出した』なんて変な事を言い出さないでくれよ。せめて、ガスか何かで僕を攫（さら）ったコスプレ集団であってくれれば…）カリカリと、小さな異音。

（…『待て、切田類。不思議な事はもう起きている。今は現実を把握するんだ』）

　自（みずか）らのその考えに、切田くんは少し違和感を覚える。

（なんだ？我ながら僕は、ずいぶんと落ち着いているな。そりゃあ、落ち着けとは言ったけど…）ムムムとなる。

（確かに僕の言う通りだ。ガスを使えるコスプレ集団だったほうが不味いだろ。魔法みたいなふ（・）わ（・）っ（・）と（・）し（・）た（・）フィクション要素が絡んでくれたほうが、まだ状況に紛（まぎ）れがある…）

　奇矯（ききょう）な彼らがガスマスクを被る姿を想像してみる。すごく怖い。

　牢屋の中には切田くんの他に、二人の高校生が捕（と）らえられている。

　彼らは何をするでもなく、ただその場に悠然（ゆうぜん）と立っている。自発的に動こうとする意思は、一切感じられない。

　捕まっている一人は、背の高い男子高校生。見慣れぬ他校のブレザーを着ている。

　スポーツをやっているのだろうか、体格が良く筋肉質で、スラッとしていて眼光が鋭い。押しの強そうな顔つきだ。（…多分、僕とは合わないな）

　制服姿もどことなくファッショナブルで、大人びた顔立ちには自信が満ちている。

　もうひとりはまた別の学校の、洗練されたデザインのブレザーを着た、女子高生だ。

　……とんでもないほどの美少女だ。

　目を向けた途端、空気がサアっと変わった気がした。時が止まったみたいに一瞬で惹き込まれ、考えることが出来なくなる。

　切田くんは思わず立ち竦（すく）み、彼女に見惚（みと）れてしまっていた。

（……きれいな人だな……）

　凛とした、自然と引き込まれるような美貌（びぼう）。柔らかな可愛らしさが硬質な美しさに変わろうとする、そんな均衡を秘めた少女。少し年上だろうか。

　立ち姿にも雰囲気がある。そのことも不思議と目を引いた。そこにいるだけで静やかな緊張感が増す、彼女はそんな空気を纏（まと）っていた。

　気の強そうな、それでいて繊細な顔立ち。まつげの長い、力のある双眸（そうぼう）。……そこにある、少しの冷（・）た（・）さ（・）。

　背が高く、細くもメリハリのある体型。肩まで伸びた髪には丁寧に編み込みが入っており、手がかかっている。

　そして、きりりとした表情。立ち姿。

　綺麗だった。切田くんにとっては住む世界が違うように感じられた。

（たたずまいに力がある感じがする。育ちが違うって、こういうことなのかな？）

（……異世界って有るんだな。……美人とイケメンか……）

　彼らと違い切田くんは、平凡な学ランを着て、背は普通。何もスポーツらしきものをしていない貧相な体つきだ。

　顔は決して醜くはない――他人の目を引かない程度には整ってはいるが、決してモテた覚えなどない。

（まあ、僕は僕か）落ち込んでいる暇などない。さっと切り替え、次に鉄格子の向こう側をうかがう。

（……ハロー異世界。こんにちわー……）

　切田くんたちを拉致監禁した異常者とおぼしき、こちらを興味深げに覗き込む奇矯（ききょう）な面々。（ファンタジーフェスタかパン祭りだな）パン祭りは無いだろうが、その奥には幾人もの、忙しく雑務をこなす者たちがいる。

　ブカっとしたワンピース状の姿が目立つ。ローブと呼ばれるものだろうか。ますますファンタジーめいてきた。

　他には体格の良い軍装の男が数人。帯剣している。……ブ厚さと質量を備えた金属の刃。ひと振りで人体など簡単に引き裂いてしまう、こちらを簡単に殺しうる凶器。銃刀法が守らぬ場所で、無駄な抵抗をするべきではないだろう。

　同様に軍服を纏（まと）いつつも、剣ではなく杖を持った男が何人かいる。その杖に施された意匠や象嵌（ぞうがん）は、――床で光る文様（もんよう）と同じ、不条理に基づくものだと感じさせる。どうやらただの警棒ではなさそうだ。

（……敵の潜水艦を発見！）

　ごてごてした偉そうなローブを纏（まと）う、ひどく太った男がいる。弛（たる）んだ顔面に嫌らしい笑みを浮かべて、横の老人にヘラヘラと媚を売っている。

　媚びへつらいを向けられているのは、豪奢（ごうしゃ）で上品な服装の老人だ。たたずまいにも気品があり、この場ではその白髪の老人が一番目を引く。……こ（・）い（・）つ（・）だ。

　老人から向けられている、理知的な、鋭い視線。

　……嫌な予感。

（…気取（けど）られた！？）潜水艦よりアクティブソナー（音響探信）音。ゾ（・）ッ（・）とした切田くんは思わず意識を外し、息を殺して目を宙へと彷徨（さまよ）わせる。岩礁（がんしょう）。

　白髪の老人はわずかに眉をひそめ、日（・）本（・）語（・）で言った。

「【ブレインウォッシュ（洗脳）】の魔法は、本当にもう効いているのか？所長。危険はないのだろうな」

「グヒヒュ！もぉちろんですとも宰相閣下！！すでにと（・）お（・）っ（・）て（・）も（・）安全です！…ささ！どうぞ、是非（ぜひ）とも御覧くださいませっ！！」

　理知的な空気に差し込まれる不快な異音。……所長と呼ばれた太った男。その所作（しょさ）からは隠しようのない傲慢（ごうまん）さがにじみ出ている。

「どうです？どぉんなものです！？凄いでしょう！！これがこのワシめの成果にございますよぉ！！…まさに大・成・功！にございますなぁ～。ンフフ」

「勇者どもには召喚と同時に、高位隷属魔法【ブレインウォッシュ（洗脳）】を付与する術式を組み込んであるのでぇす。抵抗できる暇（いとま）など、これっぽっちも有りませぬよ！」ふんぞり返って含み笑いをしながらも、所長は切田くんたちをジロジロ見回す。

「…よって、すでに奴らはワシめの思うがまま。ええ。そうなりますな。…グヒッ…」

　死肉喰らいの粘（ねば）ついた眼光。…舐（な）めまわすようなおぞましい視線に、切田くんの肌がざ（・）わ（・）り（・）と粟立（あわだ）つ。

「『スキル』持ちは貴重な人材だ」

　宰相と呼ばれた老人は言葉を切り、声の温度を下げる。「…傀（・）儡（・）であろうともな。彼らには期待させてもらう」

「『聖女』の枠は毎度、見目麗しき美女ぞろいですからなぁ！」所長はよだれをジュルリとすすり、下卑た笑い声を上げた。

「ええ、ええ。是非ともご期待ください！まさしく宰相閣下も、お気に召す事でしょう！！」

「…ふむ」

「…さ、さーてさて、さて。発生座標から鑑（かんが）みるにぃ？…ふむふむ、ふーむ、なるほどぉ？このワシめにはわかりますぞぉ、お任せください閣下ぁっ！」

　宰相のそ（・）っ（・）け（・）な（・）さ（・）に鼻白んだ所長は、失地を回復しようと執拗（しつよう）にもったいぶった挙げ句、

「ドンドコドコドコドン。はいっ！！」

　ふんぞり返り過ぎて反（そ）り返りながらも、切田くんを真っ直ぐに指差した。

「左から～っ、『賢者』っ！」

（賢者て）

　笑い出したくなったが我慢する。…今は、怪しまれれば死ぬ局面だ。

「中央が『勇者』！」

　自信に満ちた男子高校生は、未（いま）だ超然とたたずんでいる。彼は主張したり取り乱したりするどころか、（……やっぱりおかしい……）何の反応も見せることはない。

（見るからに何か言い出しそうな人なのに、さっきからずっと…）

（……そうか。洗脳……？）その考えが、胸を嫌にざわつかせる。（…何か言ってたな。隷属魔法とか、洗脳とかなんとか…）

（……ぐっ……）切田くんの動揺をよそに、太った男は三人目の女子高校生を指差した。

「そして右が『聖女』となっております。…んーむ…今回の聖女も当たりですな…」

「…これはなかなかに…」

「…ふぅむ、…いや、これは美しい…」

　欲情している。太った男は鼻息荒く、舐（な）め回（まわ）すように『聖女』を覗き込む。

　脂ぎった顔を陶然（とうぜん）とさせ、よだれを垂らしグヒグヒ笑って、何かを想いながらも神経質に奇声を上げる。

　そして、未練がましく躊躇（ちゅうちょ）した後（のち）、…白い老人へと振り返って、心底嫌らしい笑みを浮かべた。

「…どうです、どうです宰相閣下。…さっそくドンドコ。…別室でお試しになられますかな？ヒヒッ」

　太った男はここぞとばかりに、下卑（げび）た笑いを深めた。

　◇

　凛と立つ女子高生、『聖女』と呼ばれたその少女は、『勇者』と同様に超然と構えていた。……だが、所長の下卑（げび）た笑いに反応し、彼女はビ（・）ク（・）リ（・）と身じろぎする。

　かすかに開いた口から、小さな声が漏れ出すのが聞こえた。

「……ぁぁ…ぁぁ……」

　切田くんは息を殺して耳を澄ませ、現在の状況を察する。…すでにず（・）っ（・）し（・）り（・）と気が重い。

（…つまり僕らは彼らによって、フィクション的な手段で拉致されたんだ。…そしてどうやら、抵抗できないように洗脳されてしまったらしい。…僕もそうなのかな？だったら嫌だな…）

　自分に出来ることは何もない。まな板の上、薄ら笑う無貌（むぼう）の人々に踏みつけられて、今、焼きかまぼこみたいに蹴り潰されようとしている。

（…残念だけど、これが現実。僕らは囚われ、すでに彼らに屈服させられている）

（よって僕らは、これからドンドコ。彼らの良いようにされる）

　横で悲しき唸り声を上げる、女子高生のことを意識する。

（……彼女は特に）

（……なんだよ、それ……）

　衝動が、膨れ上がった。

　それが引き金であったかのように、切田くんの脳裏に閃光が走った。