水面に浮かぶ

あの日聞いた父さんからの話は、僅かではあるが、僕の中にあるなにかをはっきりと変化させていた。

はたしてそれがなんなのか、当時の僕には到底知りようもないことだったが、長いあいだ心の奥深くに沈んでいた “ありのままの僕を受け入れてほしい” という、いわばガスの溜まった気持ちが、父さんの言葉でようやく水面へと浮き上がってきた死体のように姿を現し、誰もいない大海原の真ん中でプカプカと揺れていることは確かだった。


僕は少しずつだが、ありのままの自分を受け入れ始めていた。そして周りの人間にも、自分を受け入れることを求めたかった。

ルイス・スコットという存在は、決して罪なんかじゃないと、何度も自分に言い聞かせた。

あの時の僕は、自分への自信と、他人への期待を取り戻していたんだと思う。


だが同時に、自分がゆっくりと人生の道を踏み外し始めていたことも確かだった。



「…ルイス、ルイスくん、大丈夫か?」


僕の目の前で手を振り、心配そうな顔をしながら言うバンディ先生の声に、僕はハッと意識を取り戻した。

自分がカウンター席に座っていることに気が付くと、たちまち騒がしい店内の様子がワッと聞こえ、しばらく耳をすましていると、今度は奥でビートルズの“She Loves You”が流れているのが分かった。

そうやって段階分けされている音を全て認識したあと、僕はようやく先生の「大丈夫か?」という言葉を受け取った。


「あっ…すみません。なんの話でしたっけ?」

僕は申し訳なさそうに言って、先生の顔を見た。


「君とその、先日会ったダニエル・ランバートくんの話を聞かせてもらおうと思ったんだけど、もし君の体調が優れないようなら、無理しなくても結構だよ。」


それを聞いた僕はやっと数分前の会話を思い出し、急いで先生に話しかけた。


「あぁ、あぁダニエルですか!いえ、全然、ただ考え事をしていただけなので大丈夫です。余計な心配をさせてしまってすみません。でも、正直どこから話せばいいのか…」


僕が謝りながら不安げに言うと

「すまない。友人の自己紹介は、意外に大変だよな」と、先生は優しく笑った。


「私でもたった1人の友を紹介するのに、一体何時間かかるのか。いや、逆に一言で終わってしまうかもしれないな。“私と同じで最低だ” と言えば済む奴だからね。」


僕はその言葉に思わず目を見開いた。

逆に目を細めながら微笑する先生を前に、僕は「これは決して酷いことを言うわけじゃないんですが…」と前置きし、彼に対して意外だと思ったことを話した。


「バンディ先生、あなたに友達が?」


真剣な顔をしながらも、少しふざけた様子でそう聞く僕に、先生は一瞬だけ隙をつかれたように動きを止めた。

僕になにか言おうと口を開いては閉じ、開いては閉じ、驚きを隠せないようだったが、最終的に彼は眉を下げながら笑いだし

「君は、失礼だな」と、諦めたように言った。


「私にだって友人はいるよ。そりゃ君たちみたいにすぐ会える位置にはいないけど、大学時代や、それこそスペインで教師をしてた頃なんかは、そいつとは嫌になるくらい顔を合わせてきたさ。」


度数の弱い酒を1口飲みながら言う先生に、僕が「あなたの私生活には人影が思いつかなかったので、つい…」と言うと、先生は

「今は君以外いないよ」と返し、僕の肩 ―というより、限りなく二の腕に近いところ― をサッと撫でた。


「じゃあ…とりあえずダニエルと出会ったときのことを話します。1番初めから」

「あぁ、たとえ君たちが10年来の仲で、話し終わりが閉店までかかるとしても、私は忍んで聞こう。」

「ふふ、それなら良かった。ダニエルと出会ったのは去年の夏、たった1年の仲ですよ。」


そうして僕は長かったようで意外に短く、小さいようでとても大きな感情を抱えた、たった1年のことを話し始めた。

先生には僕が彼を好きだったと悟られないよう、できるだけ過去の感情を思い出さずに、ダニエルの行動や言動を中心に話していた。が、それでもやはり思い出は愛しく、次第に僕の気持ちは高まっていった。

先生はたまに相槌を打ち、適度に会話を止めないくらいの質問をするだけで、あとの時間は静かに僕のおしゃべりを聞いてくれていた。


約30分弱ほどの時間が経ったころ、僕は彼らのバンドについて話し始めていた。


「ダニエルたちのバンド、小さいやつだけれど、何度かフェスにも出たことがあるんです。最近ようやく波が乗ってきたらしくて、僕、あいつらがずっとバンドを続けていれば、きっとイギリスを代表するバンドになれると思うんですよ!」


もはや、大好きなクイーンの話でもしているようだった。

ダニエルたちの前では口が裂けても言えないようなことが、先生の前だと、ものすごく気楽な言葉としてスラスラ発せられた。

“こんなに喋っているのは、はたして自分なんだろうか?”と考えてしまうほど、僕の気持ちには強いアクセルが踏まれていた。

恐らくバンディ先生には、10年来の友人の話と同じくらいの内容量に思えただろう。

それでも僕はあと少し、あと少しと、できる限りという形で、ダニエルへの気持ちを消化しきりたかった。


「ダニエルは、ダニエルたちは、本当に僕にはもったいない奴らで、だからこそ…なによりも、誰よりも大切な仲間だと思います。」


だが、そこまできて、僕は勢いを無くしポツリと呟いた。


「でも…みんなのためにも、僕はいつか執着をやめて、みんなから離れないといけない。それだけは、嫌という程分かるんです。」


先生にも聞こえているかどうか分からないほどの小声だった。でも多分、聞こえていたのは先生だけだっただろう。

僕は滅入った気分で俯きながら、カウンターへ肘をかけて座っていたが、先生はすっかり酒の減ったグラスを持ち上げた時、僕の代わりになにかに気付いたらしい。

そのことについて先生は僕の視界に指を置き、僕がそれに注目するとその指を動かして、ピッと僕の後ろを指さしてきた。

先生に誘われるがまま、自分の後ろを振り返ってみると、そこには今の話を聞き、非常に嬉しそうな顔をして突っ立っているダニエルがいた。


「なんだよ、俺たちの前ではそんなこと、絶対言わねぇくせに」


彼はいつにもないしたり顔で僕を見た。

予想だにしなかった出来事に僕は滅入った気持ちなどなくなり、思わず身構えながら立ち上がってしまった。


「ダニエル!驚いたな、盗み聞きしてたのか?声くらいかけてくれたらよかったのに、黙って聞くなんて、下品なやつだな」


ドアを背に座っていたから、耳の情報だけでは、ダニエルの来店に気付けなかった。しかも、気持ちが高揚していたから尚更、耳は聞こえていないも同然で、自分がかなり恥ずかしいことを言っていたと思い知るのに、2秒も要らなかった。


「ま、そう照れんなよ。声をかけるタイミングを逃しただけさ」


手を前に出し、適当にちゃらける彼に、僕は


「よく言う。もっと自分への褒め言葉を聞きたかったんだろ。安心してくれ、もう二度と言わないから」と、ため息をつきながら髪をかきあげた。


「今バンディ先生に君の話をしてたんだよ。一生分の話をね。よかったら僕んとこ座って先生と喋っててくれよ。僕もそろそろ仕事に戻るからさ」


僕は自分が座っていたところを指し示し、ダニエルを座らせた。

この間から、彼に席を譲ってばっかりだ

僕はカウンターの向かいへ行き

「みんなは?」と、シンクにちらほら置いてあるグラスを洗いながら彼に聞いた。


「それがめずらしく全員用事だ。明日は雪が降るぞ」と、彼はタバコに火をつけながら言った。

そこへ先生が体を向け、話を始めた。


「君はバンドでキーボードをやっているんだってね。実は私も趣味でピアノを弾くんだ。」

「えっ、本当すか?偶然ですね。でも恥ずかしい話、俺はバンドの趣旨にあったもんしか弾けないんですよ。できてもヘイ・ジュードとか、ビリー・ジョエルとか、そんなんが手一杯で。伝統的なものはなにも…。ベリアルさんは普段どんな曲を?」


先生は“ベリアル”という単語に少し戸惑いながらも、なんでもないように続けた。


「…私も伝統的な曲しか弾けないよ。今どきの音楽も嫌いではないが、わざわざ弾きたいと思えなくて、結局クラシックに落ち着いてしまうんだ。」

「ふぅん、お互いに得手不得手ありますね。」


「あと、2度目だけど、私のことはバンディと呼んでくれないか」先生は付け加えた。

注意されたことに、ダニエルは気まづく笑い「忘れっぽくて」と謝っていた。


一方僕はグラスを洗い終わったタイミングで、ひとつのスコッチがきれかけていたことに気づき、父さんにその酒の在庫を確認していた。


「ねぇ父さん、このスコッチの在庫ある?」

「あぁ、それか…参ったな、追加するのを忘れてた。」

父さんは白髪まじりの頭をかいた。


「悪いけどルイス、奥に追加する酒のリストがあるから、そいつに名前を書き足してきてくれねぇか?」

「分かった、他に足りない酒は?ついでに書いてくるよ」

「ダンカートンとグレンリベットを頼む」

「オーケー」


僕は父さんに言われ、 “従業員以外立ち入り禁止” と書かれている部屋の中へ入った。

ステンレス製の扉の先は酒たちの保管場所になっており、基本的に部屋の電気以外の光は入らない構造になっていた。そのため、ここは明かりをつけなければ足元も見えないほどの暗室だった。

しかし、酒を第1に考えているこの部屋は夏でも涼しい温度が保たれているので、外が暑くて仕方がない時はここへ10分避難することもしばしばあった。


部屋の電気をつけ、目線を真ん中より下に向けながら室内を一周見回すと、TNTのような木箱の上に、バインダーに挟まれたリストが置いてあった。

僕はリストを手に取り、持ってきたペンで先程父さんに言われた酒とスコッチの名前を書き込んだ。

つい10分前まで興奮していたせいか、ひんやりとした部屋の中で、自分の顔だけが温かくなっていることに気がついた。ただ、頬が赤く染まっているわけではなさそうで、どちらかといえばいい気分だった。

リストを元置いてあった木箱の上へ置き、ほんの数秒だけ無駄に手で顔を仰いだあと、僕はもう一度部屋を真っ暗にしてから退室した。


部屋から出て、当たり前のように騒がしくしている男たちの声が響く中、ふと先生たちが座っているはずのカウンター席の方へ目を向けた。

瞬間、僕は密かでへんな違和感に襲われた。

その違和感の正体は、ただ1人、席から立ち上がっているダニエルにあった。

彼は何を言うわけでもなく、只々先生をジッと見つめ、左足を1歩半うしろへと後ずさりさせながら、なぜか呆然とその場に立ち尽くしていた。

ここからじゃ彼の顔はよく見えなかったが、その僅かな立ち振る舞いから、彼はなにかに困惑していることが分かった。


なにか変だと感じた僕は少々早歩きで2人に近づき「どうしたの?」と声をかけた。

突然聞こえた僕の声に、ダニエルは肩を揺らし、酷く動揺したような調子で


「…ルイス」


と、僕の名前だけを呼んだ。

馴れ馴れしいような感じでそう呟く彼に、僕は緊張し、思わず失笑をうかべた。


「なに?どうしてそこに突っ立ってるの?」


すると次は先生が立ち上がって

「すまないルイスくん、どうやら私がすこし失礼なことを言ってしまったようで…」


と、僕とダニエルを交互に見ていた。

ダニエルはしばらく喋らず、カウンターに右手をつきながら、もうひとつの手で口元を押え「…悪ぃ、今日は帰る」と言った。


「いや、君は今来たばかりだ、私が出ていくよ。」


先生は帰ろうとするダニエルを引き止め、彼の手を持って握手をした。

「ダニエル、今日は会えてよかった。不躾にも色々聞いてしまったことを、どうか許してくれ。」

「…いえ、こちらこそ…なにかとすみません。」

「いいんだ。また会おう」


先生はそう言って手を離すと、素早く店を出ていってしまった。

次々と事が運んでいく様に、僕は“一体なにごとだ?”と首を傾げたが、とりあえずいつものように先生を角まで送っていかなければならないと思った。


「君はすこし待っててくれ。バンディ先生を送ってくるから」


僕は早々とダニエルに告げ、彼のどんな声も聞かずに、さっさと先生の後を追って外に出た。

というのも、僕は今日、どうしても先生に話しておきたいことがひとつあったのだ。


「先生!どうしてさきに行っちゃうんですか?いつも僕とそこまで歩いてるのに!」


駆け足で追いつく僕に、先生はこれっぽっちも分かっていないような顔で


「だって、君はダニエルと話をするんじゃないのかい?」と言った。

僕は息を上げながら先生と肩を並べて、微笑を浮かべた


「あぁ、奴なら大丈夫ですよ。そんなに気を遣わなくたって、逆にあいつに構うほど、よく肩を落とすことになりますよ。」

「そうなのか?でも、あの様子はすこし…」

「あなたはほとんど初対面なんですから、そういうことくらいありますよ。」


そうだ、ダニエルはなんかを気にするたちじゃない。そんな言葉があることさえ、分からない時があるくらいなんだから。

先生は軽く安心したふうに「そういうものか」と呟いていた。

しばらく歩いたあと、僕は静かに大きく深呼吸をして、心で十字をきりながら先生の方へと手を伸ばした。


「バンディ先生。」

僕は先生の服の裾を掴み、彼を引き止めた。


「…なんだい?」

先生は、物腰柔らかな声で僕を見た。

暗闇のせいか、彼の目は緑ではなくなっていた。


「実は、あなたに話したいことが…、どうしても、言っておかなければならないことがあるんです。先生、聞いてくれますか?」


腕も声も吐息も、とにかく全身が小さく震えていた。

僕は今この瞬間、目の前にいるこの男に、自分の本性を明かそうとしていた。

だが先生は、なにも変わらず冷静な態度で、僕にゆっくりと声をかけた。


「…それは、本当に今ではないといけないことかい?」


先生の予想外な返答に、僕は思わず「どういう意味ですか?」と訊いた。


「もし、今君が話そうとしていることが、とても大事で、大変重要なことなら、こんな夜更けに話すべきではない。お互いの顔もよく見えないのなら、尚更さ」


先生は低く落ち着いた声で淡々とものを言い、僕の目に被さっていた髪を、その細い手で払い除けた。


「そういうことは、太陽の出ている昼に話すんだ。…ルイス、僕の言ってる意味、分かるよね?」


そっと頬を撫でる仕草に、僕はすこし恥ずかしくなったが、それ以上に“昼に話すべきだ”という先生の言葉の説得力を、強く感じていた。


「…じゃあ、明日あすなら良いですか?明日の昼、10時20分…いや、10時30分ごろに」


僕がそう提案すると、先生は微笑み

「あぁ、それならいいよ。その時間に私はここへ来よう。」と言った。


僕は先生に頷き、彼の服からゆっくりと手を離した。

そこからはお互い一言も喋らず、別れ際に先生が「おやすみ」と僕に声をかけただけで、晴れに晴れた日の夜は終わりを迎えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る