第9話

         

 ヒューゴに送ってもらった後日、近所のカフェのオープンテラスで、二人はクレアの持ち寄ったガイド本を開いて、ああでもないこうでもないと行きたいところを話し合った。

 狼獣人と鉢合わせるのではないかと、トラウマになって、職場と自宅の往復になっていたクレアは、極端に行動範囲を狭めていた。

 だが、ヒューゴが「同行します」とクソ真面目に言うので、ちょっと気が抜けて、お言葉に甘えてもいいのかなあ、と珍しくクレアは肩の力が抜けたのである。

 ページをめくったクレアは、「あ」と手を止めた。

「どうされましたか」

「幻灯機(マジック・ランタン)の紹介があったので」

 ランプやレンズを使って、ガラスに描いた画像を、投影してくれる装置のことだ。ヒューゴが覗き込んで、懐かしいですね、と言う。

「昔、流行したやつですね」

「ええ……」

 クレアは曖昧に笑った。

「ハミルトンさんは観に行ったことが?」

「あ……いえ、私は観たことがなくて」

「……?」

 ヒューゴが少し黙り、クレアの表情をうかがうようにした。クレアの方が話すのを待っている姿勢である。

 参ったな、と思いつつ、クレアはこのことを誰にも言ったことがなかった。口にすると、自分が問題なく立っている地面が、実はぐにゃぐにゃしていて、うまく立ち続けることができなくなってしまう気がしていたからだ。

「あまり、楽しいお話ではないんですが」

「ハミルトンさんさえよろしければ、聞かせてください」

 ヒューゴの言葉に、クレアは思い出しながら簡単に説明した。

 幻灯機には、あまりいい思い出がない。ちょうど大流行した頃、ハミルトン家も例にもれず、幻灯館の上映に一家そろって観に行った。お察しというべきか、クレアをのぞいてである。

『クレアはもういい歳だし、いらんだろう』

『チケット代も馬鹿にならないし、お姉ちゃんだから我慢してね』

『ほら、コーデリアに、このヤンチャな双子の坊やたち、忘れ物はないか?』

『はーい、クレアは行かないの~?』

『行かないってさ~』

『お姉ちゃんはそういうの興味ないんだって。放っておきなよ。はやくはやく! はやく行こう!』

 行く時は待ちきれないとみんなで出かけて、帰って来た後は、大興奮でどんなに幻灯機が凄かったか、面白かったか、毎日聞かされて気が滅入った。

 クレアも観に行きたかった。

 でも、確かに自分は十歳も年上だし、と自分に言い聞かせて、それからすぐギルド職員に就職して家を出たのである。

 結局クレアはその後も足を運ばなかった。幻灯機そのものも観たかったのはあるが、クレアが本当に感じたかったのはそういうことではなかったからだ。

 子供の頃や、未成年の時期に特別に感じていたものは、その時にするから特別なのであって、大人になって一人で観てもかえって当時を思い出して暗い気持ちになりそうで避けていた。

 あまり感情的にならぬように簡素に説明したつもりだが、ヒューゴは黙り、それから、手袋をはめた指先が、ガイド本の幻灯機を指す。

「王立アカデミーにも改良型があります。ちょうど、アカデミーの総合文化祭がありますから、出し物であがっていたはずです。もしよければ足を運んでみませんか」

 アカデミーには妹のコーデリアも、双子の弟たち、フレディとアーチーもいる。顔を合わせたい面々ではないが、彼らと会いたくないからと行動範囲が狭まるのは本末転倒に感じた。ヒューゴも知らないわけではないだろうが、あえて提案してきたようにも感じる。

「そうですね……幻灯機、観てみたいです」

 口にすると、思う以上に、自分が観て見たかったのだと気づかされる。誰か、一緒に楽しかったね、と思い出の分かち合える人と一緒に観てみたいと。

 嫌な思い出を上書きする新しい計画に、クレアは自分でも驚くほど楽しみになっていて、ずいぶん現金だなと内心苦笑した。



 王立アカデミーの総合文化祭は、計三日間行われる。

 クレアたちは、真ん中の二日目に出かけた。こうした王立アカデミー主催のイベントに参加するのは初めてだ。

 学生たちによるバザーや、屋台も出ており、物珍しく見ていると、舌の色が変わるジュースをヒューゴが買ってきて、複雑な顔をしていたので笑ってしまった。知らなかったらしい。

 幻灯館は少し外れたところにあって、魔道科学研究生と映画研究会サークルの合同によるものらしい。

 垂れ幕をめくって中に入ると、円形の何もない空間で、注意の後周囲の明かりが落ちた。

 それから。

 わあ、とクレアは内心歓声を上げた。

 海だった。海中の中に、クレアはいた。

 後ろから、ぐんぐんとイルカやクジラの群が追い越していき、巨大なクラゲがヒューゴに絡みついて、青い顔で青年は引きつっている。クラゲが苦手とは意外だ。

 なんてきれいなんだろう。

 上を見上げると、海面から太陽の光が差して、銀色にゆらゆらと波間が揺れている。

 改良型と言うだけあって、素晴らしい出来だった。

 ヒューゴは最初から最後まで青い顔をしていた。

 海が苦手らしい。クレアは思わず声をかける。

「スターフェローさん、大丈夫ですか、出ましょうか」

「いえ……限界が来たら、言いますので……私も開発に関わっているので、大丈夫です。まだ、最後がありますから」

 え、と思った瞬間、クレアは月明かりの白い砂浜にいた。

 淡いオレンジと紫、赤の濃淡が水平線に混ざりながら、藍色のとばりが更に降りて来て、空は次第に夜の時間へと移り変わっていく。足元に優しく寄せる波の白い糸のような泡立ちが、まるで素足のように感じられた。

 とうとう大きな夕日が最後の光を放ち、完全な夜が訪れると、空には星々が輝き、やがて部屋は段々と明るさを取り戻していった。

 クレアはヒューゴが大丈夫です、と頷くので、安堵する。

「スターフェローさん、本当にありがとう」

 クレアの子供の頃の嫌な記憶は、完全に書き代わっていた。

 もしスターフェローさんとご縁がなくても、一生私はこの日一緒に観た幻灯機の映像を忘れないだろう。

 夢みたい。私にこんなことが起きるなんて。

 余韻でちょっと足元があやしくなりながら垂れ幕を出ると、クレアは心からこの出し物をしていた学生たちにお礼を言い、本当に素晴らしかったと称賛した。年若い学生たちは、こんなに感激されるなんて、自分たちも嬉しいと頬を赤らめていた。

「そもそもこれ、突貫でスターフェロー先輩が――」

 何か言いかけた白衣の女子学生に、ヒューゴが横を向いて、へたくそな咳ばらいをする。少し咽ていて、男子学生たちが生温かい空気になった。

 あーそうっすね、なるほどっすね、すみませーんと、女学生はへらへら笑っている。

「あ、耳より情報っすよ。今の時間なら、中央ステージで舞台やってるっす。今日のメインらしいっすから、よかったら立ち寄ってもいいかもっすよ」

 独特なしゃべりで言い、ヒューゴは早く立ち去りたかったのか、「ハミルトンさん、行きましょう」と促した。

 この時、クレアは演目を聞いていれば行かなかったかもしれない。

 ちょうど二人が中央ステージについた時、舞台は始まったばかりで、演目『草原の娘と王様』は、序盤の草原の王族の娘ディアナが、父親と丁々発止の応酬をしているところだった。 

 ディアナが、父親に呼び出されて、クレアたちの住む中央の王国に嫁ぐよう言われるシーンから始まる。

 ディアナ役が呆れたように腰に手を当て、くちびるを尖らせながらしぶしぶ言う。

「はあ、仕方ないわね。父上、約束ですよ。ディアナは必ず草原に帰って来ますからね!」

 王役の黒いつけ髭をした役者が額を抑えて、

「ああ、ああ、参った参った。ディアナには敵わんわい」

 そこまで聞くと、クレアは眉根を寄せた。

 ディアナは、北方の草原と平地の王国の橋渡しに嫁がされる。

 婚儀初夜で、心を通わせないまま、彼女は次の皇太子を身ごもるのだ。

 丁々発止に父親とやり取りし、仕方のないお父様、お前には敵わぬ、などと仲のいいふりをしたところで、彼女に決定権も拒否権もない。父親と友好国の間で、その証の商品としてやり取りされるのだ。

 劇の中で、ディアナはまるで知恵者のように斜に構えているが、この人にはなんにも大事な選択権も拒否権もない……そのことに最後まで気づくそぶりも劇中にはなかった。

 大昔の話なのだろうか。

 ああ、現代の庶民で良かったわ、と言うべきなのだろうか。

 クレアだって、簡単に身内から、その子宮を使わせろと言われたのに。

 全然他人事じゃない。

 昔、身分のある女性でも、こういう風にまるで贈答品のようにやり取りされた。その延長線上に、点と点を結んだこの線の上に、私もいるんだ――

 ぐら、とめまいがした。

 ヒューゴがクレアの肩を支える。彼に触れられたのは初めてだったが、そこまで頭が回らない。

「すみません、人に酔ったかも」

 ヒューゴは少し険しい心配げな顔をしていた。のろのろと木陰の方に誘導され、飲み物を持ってくるのでここで待っていてもらえますか、と声をかけられる。頷いたところで、ハンカチを渡された。眩しければこれを頭からかけて、との言葉に、クレアは甘えることとする。もう一言二言何か言われたが、音がうまく入って来ない。やがてヒューゴの足音が遠ざかる。

 木の陰でしばらく休んでいると、また足音が近づいて来た。

 スターフェローさん――?

 ずいぶん乱暴な、荒々しい靴音で、不審に思う。次の瞬間、はっ、とクレアは危機感に顔を上げた。ハンカチが膝に落下する。

 ひ、と悲鳴が喉の奥で潰れた。

 リオの夫。狼獣人の男がそこにいた。恐ろしい形相でクレアを見下ろしている。

 どうして。警報が鳴らない。どうして。上級精霊術の施された警報の腕輪はしているのに、鳴らない、どうして⁉

 アミュレット。首にかけていたっけ。震える左手で、首元を掻きむしるように探る。右手は動かない。探る。落とした⁉ かけてない、かけてない――⁉ ああ、そもそも今朝、浮かれて、かけてな……つけたと思う。つけたと思うのに、ない。ない。覚えてない、わか、らな、あ。ああ。あああああ。

 かち、かち、と音がする。クレアの奥歯が笑うように音を鳴らしていた。クレアは立ち上がろうとして、後ろ手についた片手が濡れた草に、手指がずるりと滑る。自分の肉体のコントロールが全然利かない。右手が鉛になったみたいにうまく動かない。 

 その時、狼獣人の後ろから、従兄弟のリオが出て来て、クレアは硬直する。 

 だが、少なくとも抑止力になる彼の登場にほっとし――リオの表情に、クレアは顔面が固まった。

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