魔の呼び声④

「あ?」


 突然のことに、冬夜は困惑している様子だった。冬夜の動きが一瞬止まる。考えている暇はなかった。僕は力任せに鉄杭を冬夜の背中から引き抜く。ごぼり、と傷口から血が溢れ出た。僕はそのまま鉄杭を右手で握り直す。


「あああああ!!」


 力の限りに、僕は叫んだ。その声に、冬夜が驚いて体を震わせる。先程まで不敵な調子だった冬夜がその姿勢を崩すことに対して、いい気味だと感じた。吸血鬼としての強さにかまけていたこいつは、自分に脅威が迫ることなんて、想像すらしていなかったに違いない。


 ──強い吸血鬼ほど死が目前になった時、理解が追いつかないものだ。


 あの人の教えが頭の中でこだました。


 ──だから、吸血鬼を相手にする時は、頭で考えるな。そこにいる魔を、何がなんでも滅ぼす。その気持ちだけで、とにかく手を休めるな。


 自分で考える間もなく、あの人の声が記憶の底から呼び起こされている。僕は声の通りにしていた。そう難しいことでもない。あの人が僕に対吸血鬼の闘い方を教えてくれたのは、眞弓が吸血衝動に抗えなくなった時の為だ。もしもの時は、眞弓を殺さなくちゃいけない──吐き気を催しながら、そのことを想定するのに比べたら、こんな奴──。

 僕は冬夜の背中から抜いて握り直した鉄杭を、間髪入れず、力任せに今度は心臓がある胸の位置に突き刺す。


「貴様ッ!」


 そこでようやく冬夜は事態を理解したようだった。休む暇を与えるな。冬夜が僕の左腕を掴む。ぐしゃりと骨が潰れる音がした。痺れる程の痛みに襲われた。意識を失いそうになる。僕は眞弓のことを思い出す。眞弓はこいつに四肢をもがれた。腕の一本くらい、どうってこと、ない。

 僕は鉄杭を抜く。冬夜の心臓の位置から、血が流れ続ける。その血が僕の顔にかかって、前が見えなくなった。


「貴様ッ! オレを誰だとッ!」


 ──知るかよ。お前を殺す理由なんて、いくらでもある。お前は、ヒメちゃんを喰いものにしようとした。仮初の場所ではあったけれど、僕らの居場所を燃やした。かつてリコを殺して、僕の住む町を壊した。

 ──それに何より、眞弓を傷付けた。


 今度は首筋に、痛みが走った。噛み付かれた。こいつ、この期に及んで僕の血を吸おうとしている。僕は左手を動かして冬夜を引き離そうとした。だが、それは無理だ。もう、腕がないことを失念していた。力でこいつを引き離すのは無理だ。


「僕のッ血はッ眞弓のだってッ! 言ったッだろッ!」


 叫び過ぎて喉が痛い。もう、体を動かす感覚なんてない。それでも僕は、今目の前にいる魔を滅ぼすことだけを考えて、三度みたびこの吸血鬼に鉄杭を突き刺した。


「ゴボッ」


 血を吸うどころか、吸血鬼の口から血がとめどなく吐き出された。目を開くことができなかったが、感触で分かる。鉄杭は、この吸血鬼の首を貫いた。


「ゴボボッ」


 吸血鬼が何かを口にしようとしている。だが、何かを言葉を発しようとしても言葉の代わりに血が吐き出されるだけだ。


「お前も終わりだ、吸血鬼」


 吸血鬼の首を貫く鉄杭を手のひらで力いっぱいに押し込む。このまま首を引きちぎってやる。そこでようやく僕の目が開いた。僕の目の前に、怒りの表情で僕を睨む吸血鬼がいた。目は充血して、口からはゴボゴボと止めどなく血を吐き出している。首には鉄杭が突き刺さっているというのに、その首はまだしっかりと体と繋がったままだ。吸血鬼は僕の首に噛み付くのを諦めて、僕の首を握った。


「う……ッ」


 本来であれば、この瞬間に僕の首は潰れていただろう。けれど、この吸血鬼の力は弱っている。何度も鉄杭に体を貫かれ、血を吐き出された。さっきまで無敵を誇っていた様子のこいつにはもう、僕ごときの首をへし折る力さえない。けれどそれでも、僕の命を奪うには充分の力だ。意識が朦朧とする。

 ──相討ち、かな。そんなことを考える。眞弓もリコもまだ生きているはずだ。ヒメちゃんも、リコが言うには安全なところにいるらしい。

 思えば馬鹿なことばかりしている。眞弓を死なせない為に彼女が吸血鬼になる道を望んだ。彼女が人を殺さないよう、彼女を生かす為に血を与えた。けれど彼女は吸血衝動を抑えきれずに両親を殺した。彼女は自分を守る為に人格を殺した。それでも僕は彼女の罪と共に逃げて、僕らの町で人を殺していたリコを殺して、助けて、一度親切にしてもらった程度の理由で住む場所のないヒメちゃんを家に住まわせて、そのヒメちゃんが関わっていた男達を追いかけてたら吸血鬼がいて、そいつを殺したら、また別の吸血鬼だ──。

 思わず笑ってしまう。なんだそれは。どうしたら良かったんだろう。眞弓を死なせたくないというのが僕のエゴだった。眞弓を必要以上に苦しませた。じゃあ、眞弓がまだ人間でいられるうちに死んでいた方が良かったのか。もう何度目の後悔だ。過去を悔やんでも仕方ないと人は言う。あの人もそう言っていた。大事なのは今だと。だけど、悔いることをやめることなんてできない。しょうがないじゃないか。


「ゴボッ」


 失笑した僕を見て冬夜は激昂したのか、僕の首を握る力を強めた。終わりなのは僕の方か──。


「諦めの悪い、愚か者めが」


 さて、その言葉は誰に向けられたものだったか。ひゅっと、風を切る音がした。その瞬間、僕の気道に空気が一気に流れて、僕は咽せた。


「あ」


 僕が首を抑えながら前を向くと、首がぽきりと折れた吸血鬼が、そこにいた。何かに手を伸ばすかのように、片腕を宙に突き出しているその吸血鬼の首から血が噴き出し続けている。僕達の周りはいつのまにか血の海になっている。これだけの量が、この吸血鬼の身体のどこにあったのかと思ってしまうような、溺れるほどの血。その首の向こう側に、これまた血塗れの吸血鬼がいた。蛇が這って来たような赤黒い道が倉庫の向こう側から続いている。眞弓がいる。手足を失った眞弓と、その身体から続く血の道は、薄暗い倉庫の中、本当に大蛇のようだった。


「眞弓ッ!」


 僕も腕で這うように、血みどろの床を滑って眞弓に近寄った。それから左腕で眞弓を抱え上げる。さっきまで四肢全てを失っていた眞弓だが、今は右腕だけがくっついていた。さっき冬夜がそうしたように、身体から離れた腕を無理矢理また引っ付けて、ここまで這って来たのか。僕は横をチラリと見る。目を見開いて、まだゴボゴボと血を吐き出している冬夜が、首だけの姿になって天井を見上げていた。眞弓の右手には僕が冬夜に突き刺した鉄杭が弱々しく握られていた。拾ってくれたのか。多分、さっきの風を切る音は、眞弓が冬夜の首をはたき落とした時の音だ。


「あー、もう」


 僕の背後を、弱々しい声が通り過ぎた。身体中を赤く塗り上げられた女が、脚を引き摺りながら冬夜の首の前に立つ。


「リコ」


 僕は眞弓の身体を腕に抱いたまま、その女の名前を呼ぶ。リコは僕の方を見てニコリと微笑みかけ、それからすぐ冬夜の首を見下ろす。


「あはっ。いい気味。このままでもあんた、死ぬんだろうけど」


 リコは冬夜の頭を踏み付ける。冬夜は口をパクパクと開け閉めしているが、ゴボゴボと溺れるような声が出るばかりだ。


「ま、ケジメよね」


 リコは顔を歪めながら、冬夜を踏む脚に力を入れた。ぐしゃり、とスイカが弾け飛ぶような勢いで、冬夜の頭が吹き飛んだ。


「叶斗……」


 弱々しい声が、僕の名前を呼ぶ。僕はその声を聞いて泣きそうになりながら、眞弓の方を見た。


「眞弓ッ!?」

「あたし……どうしたの」


 僕はハッとする。眞弓の目は虚ろで、どこも映しているようには見えない。これだけ身体を損壊して、血を流している。無理もない。


「痛いよ……叶斗」

「眞弓……」


 眞弓の頬に、水滴が垂れた。息が苦しい。眞弓を抱く腕がブルブルと震えて、今にも彼女を落っことしそうだと思った。


「眞弓、大丈夫。眞弓は大丈夫なんだ。だって──」


 彼女は傲岸不遜な吸血鬼。人の血肉を喰らい、生きる。何を相手にしようとも不敵に笑い、そして蹂躙する魔。


「血を吸って」


 僕はそう言って、眞弓の顎。僕の肩に乗せて、左腕で彼女の首を動かしながら、ゆっくりその口を僕の首元に近づけた。


「そうすれば、君は生きられるんだから」


 ──いつまでも。僕の命がたとえここで尽きてしまうのだとしても、彼女は生き続ける。


「叶斗、ありがとう……」


 弱々しい眞弓の、掠れるような声が僕の耳元に響く。僕の肩に、冷たい液体が流れた。


 僕らは今、一体何のせいで泣いているんだろう。


 眞弓は荒々しく息を吐きながら、僕の首筋にむしゃぶりつく。ジュルジュルと音を立てて僕の首を食んでいたが、彼女の歯はいつもみたいには僕の肌に刺さっていかない。僕はそこで一度眞弓の頭に手を当てて、彼女の顔を僕の首から離す。それから彼女がずっと握っていた鉄杭を奪い取ると、先端を僕の首筋に当てて、ナイフで裂くようにして、首を切った。

 ──鮮血が、僕の目の前を飛ぶ。


「これで良い」


 僕はもう一度、眞弓を抱き締める。手のない左腕と、鉄杭を握ったままの右手で。それからまた眞弓に首を差し出す。眞弓の涙が、僕の首元を流れる。そんな中、彼女は裂かれた僕の首筋にしゃぶりつく。そして彼女は、まるで赤子が母乳を求めるように、僕の血をひたすらに舐め続けた。

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