3
「わからない?」
女性はまた眼鏡を指で押さえ、小首を傾げた。
「そうか。たしかに。わからなくてもしょうがない。いささか説明が必要だろうね。ああ、その前に――」
女性が様岡家のほうに視線を向けたので、富田もつられてそっちを見やった。
食器や大工道具たちはだいぶ白ジャージから離れている。とはいえ、先っぽを白ジャージに向けたままだから、何かあればいつでも襲いかかりそうだ。
「帰んぞ……」
白ジャージが踵を返すと、赤ジャージと黒ジャージも続いた。白ジャージはポケットに手を突っこんで、走ってなどいない、肩で風を切って歩いているふうを装おうとしているようだが、どう見ても限界一杯の早歩きだ。
食器や大工道具たちは、白ジャージどもが引き返してくることはないと見たのか、音もなく金物店に戻ってゆく。
まったくおかしな話だけれど、食器や大工道具たちはそれぞれが意思を持つ生き物のように動いている。ドローンなんかよりも滑らかで、あまりにも静かな空中移動だ。
とんでもない異常事態だし、富田やもしゃもしゃ眼鏡女性以外にも、通行人や近隣の店員など、目撃者はそれなりにいるのに、騒ぎにはなっていない。
食器や大工道具たちの出元である老舗の金物店は、たしか客が店内に入ってこないと店主が姿を現さないはずだ。金物店の店主は、自分が扱う商品たちがこんな暴挙というか壮挙を成し遂げたことに、おそらくまだ気づいてないだろう。
こうしてジャージ男たちを追い払った彼女が、把手を掴んで様岡家の引き戸を開けた。
「待って」
呼び止めたのは、もしゃもしゃ眼鏡女性だった。
彼女が振り向くより早く、もしゃもしゃ眼鏡女性は富田の腕を鷲掴みにした。富田を様岡家のほうへ引きずってゆく。
「なな、なんで……」
「そこのきみ。すてきなヘアスタイルの。話がしたい!」
「……今度は何?」
彼女は振り返りながらため息をついた。
まずい。
富田は焦る。
もしゃもしゃ眼鏡女性に連行されて、富田は彼女に接近しつつある。
これ以上、近づいたら、富田の匂いが。
ゾンビ臭が彼女の嗅覚を刺激してしまう。
でも、もしゃもしゃ眼鏡女性は?
平気なのだろうか。もしゃもしゃ眼鏡女性は富田の腕を掴んでいる。かなり臭うはずだ。
「話すついでに、ラーメンを奢ろう!」
もしゃもしゃ眼鏡女性はそんな提案を持ちかけながら、ついに様岡家の出入口付近にまで到達した。
富田はもしゃもしゃ眼鏡女性の手を振りほどこうとしたり、踏んばってみたりして、いくらかは抵抗した。富田なりに本気で抗ったつもりではあるものの、体に力が入りきらない。
彼女は出入口の把手を握って、こちらに顔を向けている。
富田のほうに。
というか、彼女はもしゃもしゃ眼鏡女性を見ているのだろう。
近い。
数メートル。いや、二メートル以内、下手をしたら一メートルくらいだ。
この近さで彼女の尊顔を拝する機会が巡ってくるなんて、想像だにしなかった。ありがたすぎて、なんとも畏れ多い。富田は戦慄してさえいた。眉毛がほとんどない彼女のつるんとした顔を、これ以上、まじまじと見るべきではないと思うのに、どうしても目を逸らすことができない。
自分が生きている間に、まさかこんなことが起こるなんて。
死後ならばともかく。
死んだあとに何が起ころうが、富田の関知するところではないわけだけれど。
なんと、三人で様岡家に入店した。
並んでカウンター席に座った。
しかも、なぜか富田が真ん中で、左にもしゃもしゃ眼鏡女性、右に彼女という並びだった。
もちろん富田としては、右でも左でもいいから端がよかった。言いだしっぺのもしゃもしゃ眼鏡女性が真ん中で、富田と彼女が左右といったあたりがベターだろう。富田的にはむしろ離れたかった。もしゃもしゃ眼鏡の女性と彼女が並んで座り、一席か二席、間をあけて富田、というのが本来は妥当だ。それなのに、ついもしゃもしゃ眼鏡女性に指示されるまま着席してしまった。結果、こんなことになった。
様岡家は食券を券売機で買うシステムだった。もしゃもしゃ眼鏡女性が富田と彼女のぶんも買ってきてくれた。彼女は味噌ネギチャーシューの麺大盛りで、富田は伝統の味らしい醤油ラーメンにした。というか富田が迷っていたら、彼女がそれにしてはどうかと勧めてくれたので、一も二もなく従った。もしゃもしゃ眼鏡女性は、プレミア塩豚骨という特別メニューを選んだようだ。
「いやあ、しかし、奇遇だな」
もしゃもしゃ眼鏡女性がカウンターに肘をついて少し身を乗りだし、富田の向こうの彼女を見やった。
「こんな形で超能力者が見つかるなんてね」
彼女はグラスを持って水を一口飲んだ。
何も答えない。
もしかしたら、返しようがないのかもしれない。
「……超能力者?」
富田が呟くと、もしゃもしゃ眼鏡女性は「うん」とうなずいてみせた。
「ぼくはわけあって超能力を持つ人間を探していてね。それも、ただの超能力者じゃだめなんだ。女子高生でないといけない」
さっきから何言ってんだこいつ。
富田は怖くなってきた。だいたい、もしゃもしゃ眼鏡女性は富田の名前を知っていた。フルネームだけじゃない。コッヒーという、ハザマくんだけが呼んでくれた愛称まで。
久しぶり、とも言われた。
まるで初対面じゃないかのように。
「あの……つかぬことをうかがいますけど、あなたは……どちら様……です?」
「ずいぶん他人行儀だな、コッヒー」
もしゃもしゃ眼鏡の女性は口を尖らせた。そういえば、ハザマくんもよくそんな仕種をした。唇をすぼめて、ちょっと頬を膨らませる。はっきりと覚えている。
でも、ハザマくんは男子で、富田と同い年だった。今、富田の左隣にいるのは、ハザマくんと同じく眼鏡をかけている。パーマをかけているのでなければ、癖っ毛なのだろう。けれども女性だし、明らかに富田よりずっと年長だ。とくに老けて見えるというわけじゃないが、もしかしたら十歳くらい上かもしれない。
「……え……引っ越してったハザマくんの……お姉さん、とか? きょうだいがいたかどうか、ちょっと記憶が定かじゃないんだけど……」
「ぼくは一人っ子で、きょうだいはいない」
「じゃあ……え?」
「そのハザマだよ。間剣太郎さ」
「でも……」
「あのあと、いくつもの異世界を渡り歩いて、途中、女になっちゃったりしたものでね」
「異世界……女、に……」
「数回分の人生を経験したってわけじゃないけど、気分的にはそんな感じかな。ようやくこの世界に戻ってきて、静かな余生を送ってたんだ」
「余生……」
「こう見えて、なかなか波乱万丈だったんだよ。一線を退くつもりだったんだけど、そうも言っていられなくなった。ところで、ぼくは予知ができる」
「余地……」
富田は目をつぶって両手で瞼を揉んだ。
余生。
余地。
余繋がりだ。
何か関係があるのだろうか。
ないか。
どうなのだろう。
異世界。
男性だったハザマくんが、女性に。
たしかにそれだけでも十分、波乱万丈だ。
「ぼくの予知は、未来をすっかり見通せるほど便利なものじゃないけどね」
ハザマくんはそう言ってちょっとだけ笑った。
富田は目を開けた。
「あぁ……予知……そっちの?」
「自動書記の一種なんだけど。わかるかい?」
「いえ、わからないです……」
「やり方は簡単だよ。こうやって」
ハザマくんは割り箸を一本とると、それを割らずにペンを持つように握ってみせた。
「鉛筆でもボールペンでも、毛筆でもかまわない。心を無にして紙か何かに走らせる」
そういえば、ハザマくんは印刷されたような美しい字を書く人だった。ついでに富田は思いだした。いつかハザマくんのことをケンちゃんと呼びたかった。現在のハザマくんなら、ハザマくんよりもケンちゃんのほうがまだ似つかわしいかもしれない。
「……いきなりですけど、ケンちゃんと呼んでも? いい……ですか?」
「もちろん」
ケンちゃんは即答した。
「かまわないよ、コッヒー。ケンちゃんか。いいね。悪くない。ぼくはコッヒーと呼ばせてもらってたのに、ハザマくんだったものね。ちょっと気になってたんだ」
「……なんか、馴れ馴れしいかなって」
「馴れ馴れしいなんて。ぼくらは友だちだったじゃないか」
そんなふうに言ってくれて、富田としては胸がいっぱいになるほど嬉しい。でも、あのケンちゃんがすっかり変わってしまい、複雑でもあった。
「そうだ、きみ」
ケンちゃんは片手を富田の前までのばし、カウンターを、とんとん、と叩いた。彼女がこちらに顔を向けた。
「何?」
「ぼくは話していたとおり間剣太郎で、こっちは富田承久。承久の乱の承久と書いて、コトヒサと読む。差し支えなければ、きみの名を教えてくれないか」
「差し支え……」
彼女はうつむいた。全剃りしていなければ、眉がひそめられているだろう。
「やす」
「……やす?」
富田は彼女が口にした言葉を繰り返した。
「それは」
ケンちゃんが人差し指と親指で眼鏡のフレームを押さえた。
「名字の一部かい? 安井とか安田だとか安川とか。それとも?」
「やす」
彼女は鋭い横目で富田とケンちゃんを撫で斬りにした。
「それ以上でもそれ以下でもない。やす」
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