JKドラゴン

十文字青

 富田は制服を着て家を出る。もちろん制服は通っている高校のものだ。

 アパートの階段を下りて通りを歩く。べつに天気が悪くなくても、十メートルほどで雲行きが怪しくなってくる。

「やっぱりな……」

 そう思ってしまう。思うだけじゃなくて、だいたい口に出して呟いてしまう。

「迷惑かけたくないしな。おれって、いるだけでわりと迷惑だし……」

 そんなわけで、富田の足は高校に向かない。

 結局、ほとんど毎日、三十五、六分かけて、ネコマ小路まで徒歩る。

 富田は市の中心部に位置するこのアーケード街が大好きだ。

 初めて訪れたときのことは覚えていない。でも、感動して大興奮したはずだ。それは間違いない。

 とにかく、店の種類が豊富だ。

 各種飲食店。

 衣料品店。

 コンビニ。

 ドラッグストア。

 ディスカウントショップ。

 パチンコパチスロ店。

 ゲーセン。

 カラオケ。

 フィットネスジム。

 こぢんまりとした映画館。

 眼鏡店。

 金物店。 

 土産物店。

 等々。

 古めかしい店から新しい店まで、ネコマ小路には何でも揃っている。

 朝だと大半の店は営業前でシャッターが閉まっているので、あちこちに設置されているベンチに腰を下ろしてくつろぐのもいい。

 平日の午前中は人通りが少ないから、こんなふうに余裕で座れてしまう。

「大人になったら、ここに住みたいな……」

 それはかねてより胸に秘めている富田の夢だ。

 秘めているわりに、口に出してしまっているが、どうせ誰も聞いていない。

 聞かれているわけがないと、富田はたかをくくっていたのだ。

「はっ――」

 息をのむ。

 視線を感じる。

 というか、向かって左斜め前方、ドラッグストアのシャッター前に立っている眼鏡をかけた女性が、富田を見ている。

 かなり髪が長くて、もしゃもしゃ、ごしゃごしゃと波打っている。パーマをかけているのだろうか。天然の癖っ毛なのか。前髪だけは短めに切られていて、顔の大部分はあらわになっているけれど、レンズが分厚い眼鏡のせいで、容貌はよくわからない。

 高校生の富田よりは年上だろう。

 ただ、何歳くらいなのか、見当がつかない。

 黒っぽいスウェットか何かの上下は、ユニセックスというか、とりたてて特徴がないデザインだが、体形からすると十中八九、女性だと思う。

 いやでも待って。

 富田は思い直す。

 あの女性はただこっちのほうに顔を向けているだけで、富田を見ているわけじゃないのかもしれない。

 それで一度、目をそらしてから、戻してみると、女性はまだ富田を見すえていた。

 なんで?

 知ってる人?

 それはない。

 はずだ。

 心当たりがまったくない。

 それなのに、女性が動きだした。

 歩いてくる。

 こっちだ。

 こっちのほうに。

 富田めがけて歩いてくる。

 あぁ。

 ひょっとして、と富田は思いつく。

 ベンチ?

 富田が座っているベンチは四人くらい腰かけられる。富田はその端っこに座っている。つまり、かなりスペースがある。女性はただ単に座りたいだけなのかもしれない。

 いやだけど、とも富田は考える。

 じつは富田が座っているベンチの隣にも同じベンチがある。二台のベンチが少し距離をあけて設置されていて、現在、隣のベンチには誰も座っていない。女性が座りたいなら、そっちのベンチを選ぶはずだ。ということは?

 どういうこと?

 なぜ女性は富田に歩み寄ってきたのか。

 どうして富田の真ん前で足を止めたのだろう。

 やっぱり知り合い?

 でも、きっと二十代なのだろう、十代ではなさそうで、なんとなく三十代でもなさそうな、こんなふうに長い髪が波打っていて、眼鏡をかけていて、クロックス的なサンダルを履いていて、バッグの一つも持っていない、手ぶらでネコマ小路にいる女性の知り合いなんて、富田にはいない。

 だいたい、富田が日常的に口をきく相手は、同居している母親くらいだ。小中高一貫して、友だちらしい友だちが富田にはできなかった。

 いや、一人だけ例外がいる。

 ハザマくん。

 小学校のときに短期間、仲がよかった。

 髪がくるくるっとしていて、眼鏡をかけていて、やたらと字がきれいで、富田のことを、名字の富田でも、富田が好きになれないあだ名でもなく、下の名前、承久、コトヒサをもじって、コッヒーと呼んでくれた。

 間、と書いて、ハザマ。

 間剣太郎。

 いつか、ケンちゃん、と呼べるような間柄になりたい。

 しかし、富田の望みは叶わなかった。

 ハザマくんは転校してしまったからだ。

 それきり彼とは会っていない。

 連絡をとることもできなかった。

 夜逃げしたんじゃないかと噂されたほど、急な転校だったのだ。

 女性が顔をしかめて低く呟いた。

「……この匂いは」

 富田はベンチ上で体を横滑りさせた。そうして女性から距離をとると、富田は立ち上がって駆けだした。

 逃げなきゃ。

 というより、女性から離れないと。

 その匂いがどういう匂いなのか、富田にはわからない。けれども、自分が何らかの匂いを発していて、それが他人にとって不快なものだという認識はある。

 だから、離れないと。

 できるだけ早く、可能な限り女性から遠ざからないと。

 富田自身には感知できない匂い、悪臭のせいで、見も知らない女性に不快な思いをさせたくない。迷惑をかけるわけにはゆかない。

 叫びたい気持ちを抑えて、富田はひたすら走った。

 アーケード街を駆け抜けて、歩行者信号が青だったからそのまま渡り、さらにアーケード街を突き進んで、ひとけのない小道に入った。

 ここまでくれば大丈夫だろう。

 それでも安心できなくて、小道を通り抜け、裏道に出てから走るのをやめた。

 あたりを見回す。

 誰もいない。

 例の女性の姿も当然、見あたらない。

「……それにしても、何だったんだ。あの人……」

 動悸がおさまらない。汗がにじんでいる。

 汗をかくと、気になってしょうがない。みんなを不快にさせる匂いが強まっているんじゃないか。

 富田自身には嗅ぎとれない匂いだし、発汗との関連性は不明だ。

 そもそも、本当に匂うのか。

 富田は臭いのか。

 疑ったこともある。

 母に尋ねてみたら、疑惑はたちまち氷解した。

『あの、母さん、おれって臭い?』

『慣れてるし』

 母は否定してくれなかった。

 もっとも、考えてみれば、わざわざ確認するまでもない。母は換気扇を絶対オフにしないし、真冬でも帰宅すると必ず窓を開ける。こたつに入って震えながら、かなりこまめに換気する。富田は、実の母親にとっても耐えがたい臭気を発している、ということだ。

 学校で誰かが言っていたのだが、富田は何かが腐敗しているような、最大限よく言えば、甘酸っぱい匂いがするらしい。

 人によっては、あまりにも臭すぎて何もかもいやになり、世界を呪いたくなる。

 寒い時期の教室のような密閉空間だと、数十分と経たずに富田の匂いが充満して、恐ろしいことになってしまう。

 ついでに、富田はすこぶる血色が悪い。幼いころから目の下に隈ができていて、濃くなることはあっても、薄らいだことはついぞない。

 おかげでずっと、ゾンビ、と呼ばれてきた。

 学校の先生はさすがに、富田、と名字で呼んでくれる。

 でも、他は、ゾンビ。

 もしくは、富田ゾンビ、だ。

 ちなみに、母は、あんた、とか、おまえ、とか。

「ハザマくんは、コッヒーって呼んでくれたんだよな……」

 例の女性の件があるので、すぐネコマ小路に戻るのはまずい。ような気がする。おそらく。

 富田はネコマ小路の周辺を歩きながら、ハザマくんのことを思いだす。

 ハザマくんと一緒に下校した日々。

 帰り道でいろいろなことを話した。

 何を話したのだったか。細かいことは思いだせないけれど、ハザマくんはよくしゃべる人で、物知りだった。富田が何か質問すれば、絶対に答えが返ってきた。

 ハザマくんは毎回、富田をアパートまで送ってくれた。途中、寄り道して、公園で話しこむこともあった。

 富田は一度もハザマくんの家に行ったことがない。ただし、場所はだいたいわかっていた。ハザマくんが転校してから、その一軒家の様子をうかがいに行ってみた。表札はなくなっていて、誰も住んでいないようだった。空き家になっていた。

「会いたいな。ハザマくん。もうずいぶん経ってるし、あのころはおれより背が低かったけど、大きくなってるだろうな。でも……」

 富田はふと首をひねった。

「ハザマくんは平気だったのかな。おれの匂い。臭くなかったのかな……」

 そうこうしているうちにそれなりの時間が経過したので、富田はネコマ小路に舞い戻ることにした。

 シャッターが開きはじめたアーケード街をゆっくりとそぞろ歩く。

 富田は出入口が開け放されているタイプの店以外には足を踏み入れない。開放型の店でも、他の客がいるときは近づかないようにしている。

 迷惑をかけたくないからだ。

 母から毎月昼飯代をもらっているものの、買い物らしい買い物はどうせできない。こうやってネコマ小路をうろついたり、たまにベンチに座ったりしてるだけで、富田には十分だ。

「それだけでもないけど……」

 行く手に様岡家が見えてきた。

 様岡家は市内のあちこちに何店舗もあるラーメンのチェーン店だ。

 店員がのれんを掲げている。

 ちょうど開店の時間だ。

「どうかな、今日は……」

 富田は期待に胸を高鳴らせてアーケードの支柱に身を隠した。

「あ……きた……」

 向こうから制服姿の女子高生が歩いてくる。

 その女子高生が着ているのは、ほぼ濃紺一色のセーラー服だ。

 富田が通う公立の高校とは違う。

 由緒ある私立の女子校で、お嬢様学校と見なされている。

 楓女子高等学校。

 通称、カエジョ。

 彼女は紛れもなくカエジョの制服を着ている。

 でも、本当にカエジョの生徒なのか。

 髪型は一見、センター分けのボブカットだが、単なるボブじゃない。彼女はもみあげから後頭部まで、かなり短く刈り上げている。

 ようはツーブロックだ。

 数ミリに刈りこんだサイドとバックに、トップの髪の毛を被せてある。

 そして、彼女には眉毛がない。

 睫毛は長くて量が多いので、体質的に眉毛が生えないというわけじゃないと思う。

 たぶん、全剃りしている。

 化粧気はない。

 いや、口紅だけは塗っているのか。

 唇は赤い。

 少し吊り上がってアーモンドのような形の目はとても大きくて、尋常じゃなく強烈な印象を与える。

 見るからに、彼女は普通じゃない。

 ただそこにいるだけで、誰であろうと無視できない強烈な存在感を放っている。

 どう考えても、厳しい校則で有名なカエジョの生徒っぽくはない。

 第一、富田が彼女をネコマ小路で見かけたのはこれが八回目だ。

 いずれも平日の午前中で、今回を含めた六回はあのラーメン店に入っていった。

 カエジョには制服姿で街を徘徊してはならないという規則があるという。真面目な生徒はコンビニに寄ることすらないようだ。

 明らかに授業中だろう時間帯に、制服姿で家系ラーメンを食べる。

 そんなことが許されるものなのか。

 許されるわけがない。

 それなのに、彼女は堂々としている。

 すっと背筋を伸ばし、前だけを見すえて、他の何にも目をくれない。

 微塵も迷いのない足どりで、まっすぐ様岡家へと向かう。

 彼女を目にするたび、破天荒、という言葉が富田の頭に浮かぶ。

 端整な顔立ちで、とてもきれいな人だとも思うのだけれど、それより、かっこよさに胸を打たれる。

 震えてしまう。

 憧れる。

「あんなふうになりたい……」

 なれるものなら。

 なれないか。

「無理だよ……」

 どうしたってなれっこない。

 おそらく彼女は、様岡家のラーメンをこよなく愛している。

 富田も一度でいいから食べてみたい。

 店に入ってみようとしたこともある。

 何度も、何度も。

 しかし、入れなかった。

「おれ、ゾンビだし……」

 他に客がいないときを見計らったとしても、店の人に迷惑をかけてしまうかもしれない。

 そうだろうか?

 様岡家のスープは純度の高い豚骨スープだ。店に近づくと、そうとう濃密な豚骨の香りがする。正直、臭いと感じるほどだ。

 あの豚骨の香りには、富田のゾンビ臭でさえ打ち勝てないのでは?

 意外と大丈夫なんじゃないか?

 そう思いはすれど、やはり踏み切れない。

 臆病な、弱い自分を、富田は心の底から情けなく思っている。

 所詮、富田は富田ゾンビでしかないということだ。

 彼女は間もなく様岡家に入ってゆくだろう。

 その姿を一人の、というか、一匹の? 一頭、だろうか。一体? ともあれ、アーケードの支柱の陰から、ゾンビがこそこそ眺めている。

 彼女が出てくるまで、ゾンビはここにいる。

 ひたすらじっとしている。

 そのうち彼女が店から出てくる。

 ゾンビは立ち去る彼女の後ろ姿を見送るのだろう。

 そうして幸福感を噛みしめる。

 今日は彼女を見られた。

 ラッキー。

 よかった。

 すばらしい日だ――

「おぉい、ねえちゃん!」

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