第六話 交わる心とわかれ道

交わる心とわかれ道-1

 翌朝、朝食を済ませたノインとヴィンセントは、先日出会った早駆けの馬の理由を探して、街の中で人の多い場所へ行ってみることにした。

 そうしたいと言ったヴィンセントに、ノインは当たり前のように一緒に来てくれた。


「こんな世の中だもの。情報は大事よ」


 何でもない顔をしていながら、彼女の手は、ヴィンセントの手を握っている。今までより近づいた距離は、ヴィンセントの心をうわつかせ、そして今だけだと切なく痛む。


 いつまで一緒にいられるだろう。


「ヴィンセント、そんなに強く握られたら、少し痛いわ」

「あっ……ごめんなさい」


 離れたくなくて、無意識に入ってしまった力を抜く。ノインが安心したように重く手を預けてくれるのを感じ、無性に愛おしくなる。


 視線を上げると、ノインと目が合った。女性としてはさほどではなくとも、ヴィンセントと比べるとだいぶ背の低い彼女がこちらを見上げてくれている。ヴィンセントはつい頬を緩めてしまう。


「広場と市場、どちらがいいでしょうか」

「そうね……それこそ、あの馬の理由によると思うわ。まだ早い時間だし、先に市場に行ってみない?」


 市場には、街の大通り以上の活気があった。


「年市でもないのに、相当ね」

「ここの領主は、こういった交易路にある街が主な税収源ですから、力を入れているのでしょう」

「屋台使用税だけでも、かなりありそう」


 ノインは胸元に手を当ててから、続けた。


「異国のバザールみたい」

「大きな都市に限られますが、毎日、このような市が開けることも、わが国の豊かさ……『楽園』と称されるゆえんです」

「これだけの『楽園』が滅ぶなんて、神官たちは何か読み間違ったんじゃない?」


 呆れさえ滲ませながら、ノインが周りを見回している。

 市場の売場は、屋台のほかに、街路に面して商品を並べた工房などもあり、青果や穀物、肉やパンなどの日常の食料品、香辛料や織物、雑貨などの交易品、靴や染物、鉄工製品など職人の手によるものと、あらゆる需要に応じようとするかのようだった。ところどころには、領主やギルドなどからの通達が貼り出された掲示板が立っている。


「魚屋が少ないわね」

「内陸の街ですからね。川魚や塩漬けはあるようですよ」

「川魚に、塩漬けねぇ」


 残念そうに言う。


「ノインは、海の魚が好きなのですか?」

「そうね。海の新鮮な魚や貝はおいしいもの。バター焼きや、パイ包み、フライや煮付け、スープも。海辺の街では、つい贅沢してしまうの」

「いつか、一緒に行きましょう」


 ノインは黙って微笑んだ。夢物語や戯言だとしても、想像にも幸福はあった。


「特に、おかしなものは見当たらないわ。この中から何かを見つけろというのが、難しい話かもしれないけれど」


 人や物でごった返す中を手を繋いで進みながら、ノインがヴィンセントに顔を寄せてささやく。彼女より背が高い分、周囲を広く見回していたヴィンセントも、めぼしいものは見つけられなかった。


「ヴィンセント、ちょっと待って。おじさん、その果実水、ふたつちょうだい」

「姉さん方、夫婦で旅行かい?」

「そうなの。辺境伯領まで行ってみようかと思っているのよ」

「ああ、あそこにゃ何か、永遠の愛がどうのっていうやつがあるんだろ」


 にこりと笑って硬貨と引き替えに木製のコップを受け取るノインを、ヴィンセントは気恥ずかしく眺めた。そういうヴィンセントの落ち着かない態度が、ノインの話にいっそうの信憑性を持たせたようだ。


 屋台の店主は、ヴィンセントの分を、果実水から蜂蜜酒に変えて差し出してきた。

 ノインはそのまま受け取り、何も言わずにヴィンセントに手渡してくる。

 花婿が蜂蜜酒を飲むという民衆の習慣は、ヴィンセントも知るところだ。

 ほんのり頬を染めるヴィンセントを、ノインが果実水の飲み口を唇にあてて傾けながら、楽しそうに見ている。

 もともと甘みはあるとはいえ、渡された蜂蜜酒をやけに甘ったるく感じたのは、ノインの視線のせいかもしれない。


「酔ったの?」


 コップを店主に返し、また手を繋いで歩きだしてしばらく、頬の火照りが引かないヴィンセントに、ノインが笑いながら尋ねる。


「あなたは慣れているのかもしれませんが……」

「慣れてないわよ」


 少し恨みがましくヴィンセントが言うと、ノインはふいと顔をそむけてしまった。淡い金髪が揺れた拍子に見えた彼女の耳は、赤く染まっていた。


「……そうですか」


 うわついた気持ちが声に滲んだのだろう。ノインはやや強めにヴィンセントの手を引きながら言う。


「うかれすぎだわ、このくらいで……」

「ふふ」


 ヴィンセントより半歩前に出たノインはかたくなに顔を見せてくれなかったが、いつもは冷静な彼女がそうしているだけで、ヴィンセントの気持ちを満たすには十分だった。


 そのまま市場の端まで通り抜けたところで、ふたりは道を折れ、何度か曲がり角を曲がって、人の少ない通りへ入った。表通りとは違い、街の住人の生活に使われている道のようだった。

 ノインが周囲へ注意を払いながら口を開く。


「辺境伯領へ観光に行くと言っても、あのおじさん、止めなかったわね」


 馬が向かった方向はブレン子爵領だが、この街から辺境伯領へ行こうとするなら、子爵領を通り抜けるのが通常の道のりだ。


「少なくとも彼の知る限りでは、この辺りにも、ここから東の地域にも、異変はないということですよね」

「あの馬が辺境伯領へ向かうとしたら……でも、あんなに急ぎで、しかも軍人なら、険しくても北から向かったでしょうし……。十中八九、行き先はブレン子爵領よね」

「逆方向へ走っていたなら、まだ、魔女を逃がしたか、捕らえたか、そういう知らせだったかもしれませんが……」


 そのような事態も、できれば起こっていなければいいと願いながらも、ヴィンセントは不可解さに眉を寄せた。


「人々がいつも通りなのだとしたら、交易や生活の異変ではないのかもしれません」

「人々にかかわらない異変って、何か怪しいわ。そういうの、政治や軍事ってことでしょう」


 事の深刻さを予感して、ヴィンセントもノインも、表情が険しくなる。

 もの思いに沈みそうになったとき、ちょうど建物の影から走ってきた少年が、ノインを避け損ねて尻餅をついた。

 ノインも少年の勢いに弾かれてたたらを踏んだが、ヴィンセントがその背を支えたので、転ばずに踏み留まる。そしてすぐに、少年が落とした荷物を拾い、起きあがった彼に差し出した。

 少年はうつむきがちにノインの手から小包を取り、何も言わずに走り去る。


 庶民の子どもには普通なのかもしれないが、ヴィンセントにはずいぶん無礼に思える彼をつい目で追っていると、ノインがヴィンセントの腕を引いた。見下ろした彼女は、かすかに表情を強ばらせていた。


「ねえヴィンセント、二匹の蛇と雄牛の紋章って、隣国のものよね」

「そう思います。この国では、蛇は珍しいですから。隣国は、王家の先祖が、もとは西方の古代都市にルーツを持つというので、使われているものだったはずです」

「その紋章のある小包を、あんな子が、どうして……」


 ヴィンセントは、思わず少年の去った方向を振り返ったが、もうその姿はどこにも無かった。


「その子を探すべきでしょうか」

「こんなに人が多い街で? 無理よ。それに、下手をすればこちらが怪しまれるわ」


 ノインが小声で答えながら、ヴィンセントの手を引き、何事もなかったかのように歩き出す。


「隣国との関係って……」

「良くはありませんね。辺境伯領を巡る争いは、『楽園』の、唯一の憂い事でした」

「……ヴィンセントだったら、そんな隣国と、どんな取引をする?」


 ノインは睦言をささやくかのようにつま先で立って、ヴィンセントの耳元に唇を近づけ、物騒なことを言った。

 ほとんど同じことをヴィンセントも思い浮かべてはいたが、ヴィンセントには、答えとなるものは思いつかなかった。かの地を辺境伯領として得ているこの国には、わざわざ取引などする理由がない。


 ヴィンセントも、恋人の睦み事に見えるよう彼女の頭に頬を寄せてささやき返す。


「……取引相手は、少なくとも辺境伯ではありませんね。防衛を任されて重用されている辺境伯には、何も利点がない。隣接するブレン子爵……。しかし、やはり取引をする理由はないように思います」


 ブレン子爵領は、北を辺境伯領、東南は隣国と接し、西は山脈に挟まれた、ごく狭い領地だ。建国の際、当時は隣国の小領地で、辺境伯領のついでにこの国に編入された経緯を持つ。貧しい土地だが、隣国の末端にあるよりも、物資の差配があるこの国での待遇のほうが、ずいぶん良いはずである。


「辺境伯領で採れる石炭を融通する代わりに、この国に攻め込まないよう協定を結ぶのはありえるかもしれないわね。国は、滅亡に繋がる要素は消したいはずだから」

「意味があるでしょうか。隣国にとっては、この国が弱ったところに攻め込むほうが、協定より手っ取り早いかと」

「それは隣国の状況にもよりそうね……。あちらも弱っているなら……だけど」


 ノインがひとつ瞬きを挟んで、改めてヴィンセントを見る。ヴィンセントなら、その辺りの情報を知っているだろう、という視線だった。


「あちらは近年、東方との交易で、むしろ豊かなはずです」

「そういう動向は、滅びの予兆が出て、真っ先に探るわよね」

「はい。でも、今のところ不穏な動きは……」


 ノインは小さく息をついて、かかとを地面に下ろした。


「一度、宿に戻らない?」


 少し疲れた様子で、ノインがヴィンセントに寄りかかってくる。その目は、けれど、疲れよりも何かもの思うような、悩ましい色を見せていた。


「そうしましょう。僕も、じっくり考えてみたいと思います」


 ノインともう一度手を繋ぎ、今度はヴィンセントが先に立って、そっと彼女の手を引く。


 宿を出て、市場を歩いていたときよりも心は重かったが、彼女の柔い手のひらの感触は、国のことに思い煩うヴィンセントの思考の片隅で、彼女を守りたいという、柔らかな思いを抱かせた。


 それは、不穏な国のゆくすえを思うときでも、ヴィンセントにとって、とても大切なことのような気がした。


 少なくとも、今までのひとりぼっちの自分では、持つことのできなかった何かだった。

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