泡にならなかった人魚
囀
泡にならなかった人魚
最近、205号室から変な音がする。
そう隣に204号室に住む
俺は大学卒業後、たった一人の家族だった兄が突然亡くなったため、兄の管理していたアパートの大家の仕事を引き継ぐことになった。
「それで、変な音とは……?」
「深夜のことなんですけれどね、205号室が妙にうるさいんです。別にギャーギャー騒ぐような感じじゃないんですけれど、ゴポゴポって音がするんです」
「ゴポゴポ……?」
聞いたことない音だなと首を傾げると、鯖田さんはその真っ赤に目立つ唇を再び動かした。
「ええ、なんて言うかあのー。水に潜るような湿った音っていうのかしら?」
彼女の証言によると以下の通りだ。
亀田さんは深夜、物音で目が覚めた。何やらその「ゴポゴポ」という音が聞こえた。それは自分の部屋ではなく、隣の部屋205号室の壁からだった。
壁越しに耳を澄ませるとその音ははっきりと分かったらしい。
「もしかしたら魚でも飼ってるんじゃないかなって思っちゃってね。ここってペット飼うの禁止じゃない? だから気になったのよー」
「まぁ、基本的にはペットは禁止させて頂いてますけれど、観賞用の魚とかだったら周りに迷惑をかけない限りは大丈夫となってます」
俺がそう教えると亀田さんは「あら、そうなのね」と頷く。しかし、本人の表情はあからさまに不満げな様子で眉を顰めていた。
この人は納得のいかないことがあると、自分の納得がいくまでしつこく
普段は温厚な兄だが、それくらい粘り強いと流石に参ったのだろう。まるで噛み付いたら離さない
取り敢えず早いとこ対処しなくてはいけない。俺は亀田さんの機嫌を損ねないよう様子を伺う。
「取り敢えず明日、205号室を直接訪問してみますね」
「それがね、実はあたしもあまりにも気になっちゃって、一昨日訪ねてみたのよ」
「えっ?! 205号室にですか?!」
「そしたら、とっても若い男性でねえ! 多分大家さんと変わらないくらいじゃない? だけど、スラリとしててモデルでもやってるんじゃないかってくらい身長も高いし」
「え……? 男性?」
興奮気味に話す亀田さんに俺は再度聞き返す。
「さっきも言ったじゃない! 205号室には男性の……確か、
「あはは……。すみません」
眉を下げて謝るが内心、この煩いお局野郎に対する鬱憤がひしひしと増すばかりである。
(このクソババアぁぁ……!)
しかし、腐ってでも大家を務めないといけない為、本音を吐かないよう我慢する。数秒もしないうちに俺の表情はいつも通りになる。
「しかし、鯉野さん……ですか」
「何か問題かしら?」
「いや、俺が205号室の住人の性別は確か女性だった気がしたんですけれど……。黒髪で肩まで伸ばした方で……。てか、鯖田さんが実際に訪ねたなら改善してくれる筈ですよ?」
「……あー。それがねえ、あまりのスタイルの良さに、ねえ?」
「はぁ。本題のことを言うのを忘れた……と?」
わざと視線を鋭くさせる。鯖田さんは気まずそうにゆっくりと頷く。俺はため息が吐きたくなった。そして、我慢出来ずに明らかに呆れを含んだ溜め息を漏らした。
「どうして、そんな余計なことをするんですかー? せっかちも度が過ぎると周りから白い目で見られますからねー」
「それは悪いと思ってる。でも、大家さんも見たらきっとあたしと同じ気持ちになるわよ!」
「はぁ……。そんなに住人の顔に興味はありませんって。大体、顔を見るのは家賃を払う時かたまに会うくらいですし……」
「そういや、205号室の方ってあまり外出してる所を見たことがないわ」
「なら尚更ですよ。取り敢えず、明日205号室に行ってみます。なので、これ以上の深掘りはやめて下さいね?」
こうして、俺と亀田さんの会話はそこで終わった。
そして次の日になった。
俺は今、例の205号室の前にいる。
「どうせ水槽の音でしょ。全く、小さいことでいちいち呼び出すなよなー」
隣の204号室をちらりと睨む。鯖田さんは近くのスーパーに買い物中だ。
「それにしても……。やっぱりおかしいよなー」
俺は手元にある資料を再度読み直し疑問視する。それは、現在ここのアパートに入居している住民たちの個人情報が掲載されている。俺は紙を捲り、とある部分を見つめる。205号室の住民の個人情報だ。
『
性別 女性 年齢 26歳
血液型 O型………』
「やっぱり鯉野さんって女性だよな? でも、出てきた時には男性だった。もしかして彼氏? あーでも、205号室の人はあまり外に出ないって聞くよな。一体どう言うことだ? ま、まさかジェンダーレスの方ってことか……?」
あれよこれよと考える内に、思考が深いところまで進む。考えることに集中して変な気分になるのは御免だと思い、俺は早速205号室の扉を数回叩いた。
「すみません。大家の
しかし、返事はない。それどころか部屋から物音も聞こえない。
「外出中か……? 全く、良いタイミングで出かけたな。しょうがない、また日を改めてるか」
そう諦め後ろを振り返った。
「僕に何か用でしょうか」
目の前には男性が立っていた。聞き慣れない声が俺の耳に入り、突然現れたことによる衝撃で俺は思わず口を開いた。
「うわぁ?!」
「あぁ。すみません、驚かせてしまいましたね。どうも僕って、何故か影が薄いらしいんですよね」
「も、もしかして鯉野さん……?」
「はい。そうですけれど」
目の前の人物である鯉野さんはこくりと頷く。俺は鯉野さんを見て更に頭がこんがらがった。目の前にいる鯉野さんは、俺より頭ひとつ分背が高く、俺よりしっかりした体格、首も太く喉仏が見える。
鯉野さんは確かに男性だったのだ。
もしかしたら質問の仕方ではデリカシーの欠片もないと思われるかもしれないが、ここは覚悟を持つことにした。
「可笑しいな、鯉野さんの個人情報には性別が女性って書いてありまして……」
「……ん? あぁ、そうですね。僕は正真正銘性別は男性です」
「え? そうなんですか?」
素っ頓狂な声を漏らしながらも俺は再度資料を確認する。やはり、そこには鯉野さんの性別は女性と記されている。
「どうやら記入する時に間違っていたみたいですね。それ、直しておいてくれませんか?」
鯉野さんは淡々とそう言う。
「え、あ、はぁ……分かりました」
俺は渋々頷く。
(って、何承諾してんだ馬鹿野郎!! 鯉野さんが周りに流されない人だからって、これじゃあ俺がペースに巻き込まれている感じになる!)
俺は鯉野さんに視線を移す。彼の肩まで伸びた黒い髪は綺麗に手入れされているのか艶が見える。
(確かにこの美形は、鯖田さんが興奮するのも分かるな。てか、205号室の住人ってこんな煌びやかだったか……? 鯉野さんはもっとこう……地味で大人しい感じだった気が……)
俺は記憶を無理矢理引っ張り出す。そこで、俺はとあることを思い出した。
(そういや、205号室の人って兄さんが生きていた頃から住んでいたよな)
兄が時折「205号室に行ってくるね」と俺に言っていたのを思い出した。あの時の俺は、特に気にすることもなく兄を送り出していた。どうしてそんなことを忘れていたのだろうか。
「あの……そろそろ良いですか?」
俺がいつまでも黙り込んでいることに痺れを切らしたのか、鯉野さんは眉を顰めていた。
「あ、はい! お時間かけてすみません……」
「別に大丈夫ですけれど」
「あ、あと! 最近、夜中ここから変な音がするらしいと連絡が来たので……その、あまりうるさくしないでくださいね。このアパートの壁ってそう分厚くはないですし、何よりここの住人は神経質な人が多いもんで……」
「分かりました。それはすみません。以後は気を付けますので。それでは、失礼します」
鯉野さんは俺に軽く会釈した後、205号室に入ろうとする。ポケットから鍵を取り出しドアの部に嵌めようと回す。その時、鍵にぶら下がっている革キーホルダーに目が止まった。
深い青色に染まった革のチャームに、波のイラストと共に筆記体で「I.W」とイニシャルが施されていた。
俺はそのキーホルダーを見て目を見開いた。鯉野さんは俺の視線に気がつくことはなく、鍵を抜いた後そのまま部屋の中へと入ってあった。
ガチャンと扉の閉まる音が響く。その途端に俺は、震えが止まらなくなった。空いた口で、やっと今の状況を吐き出すことができた。
「なんで……何で、お前が兄さんのキーホルダーを持ってんだよ」
それは間違いなく、俺が今はもうこの世には居ない兄にあげたものだった。
◇◇
俺の兄
だから、歳で働けなくなった親父の代わりにアパートの大家の仕事を何食わない顔で熟していた。
俺は、そんな兄を尊敬すると同時に兄のようにはなりたくないと心の底から思った。何故なら兄のようなお人好しは、良いように使われて得しないことが多いからだ。
そのような場面に出会っても兄は、何も言わずただ笑顔だった。
『
『あとは、もし誰かに助けて貰ったらちゃんとありがとうを言うこと』
『人に優しくされたいのなら、まずは自分が優しくならなきゃ。そしたらきっと、その優しさは他人だけではなく自分のためにもなるから』
兄はいつもそんなことを言っていた。俺に教える時も、まるで自分にも言い聞かせているように。
そう呟いていた。
だけどさ。
(恩を仇で返されたら、意味なんかねーじゃん……)
その考えが更に明確になったのは、兄が死んだ時からだった。霊安室で安らかに眠る兄を見て、俺は涙一つも零せなかった。
兄が大家として勤めて三年が経った時ぐらいだ。兄はアパートの外にある駐車場に倒れてた。心臓目掛けてナイフが刺さっていた。
きっと兄のことだ。善意なことをしたから。それを殺人という仇で返されたんだろう。
俺はずっとそう思っている。
しかし、一つだけ不明な点があった。それは、兄の死因だった。兄は心臓ひと突きで即死の筈だった。
それなのにも関わらず、兄の死因は溺死だった。兄は全身びしょ濡れで大量の海水を飲んでおり、それが肺の方にまで溜まっていたのだそう。
警察側の推理によると、犯人は兄を溺死させた後何らかの理由で兄を刺したとのことだ。そして、犯人は未だに捕まっていない。
何故、陸地にあるアパートの敷地内で海水という関係のないものが出てくるのだろうか。兄は倒れていたのにも関わらず、何故溺れて死んだのだろうか。
何故、犯人は見つからないのだろうか。何故、警察はこんなにも思考範囲が狭いのだろうか。何故、兄が死ななければならないのだろうか。
何故、本当に優しい人がいつも損しないといけないのだろうか。
◇◇
(もしかしたら、鯉野さんが……兄さんを!)
その日の夕方、俺はそう思ったらいてもたっえも居られず、もう一度205号室に向かうことにした。本当に運が良いのか、鯉野さんは俺と別れた後に再び外出した。
そして、今の時間帯まで戻ってきていない。
「こんなことするのは、人として完全な犯罪だって思ってる……。でも、流石に無関係の鯉野さんが兄の私物を持ってるのは怪しすぎる。その真相を突き止めなくちゃ……」
俺は205号室へと辿り着き、マスターキーでその扉の鍵を開いた。扉をゆっくりと開け、玄関内を見回す。
空は日が暮れ始め、それに比例するように部屋にも光が徐々に消え始めいく。これくらいの明るさなら懐中電灯を付けなくても平気だろう。
俺は、脱いだ靴を持ち中へと入る。
壁を触りながら、物音一つもない部屋の中を進む。
「物が極端に少ないな……。設置済みの台所には最低限の家具しか置かれていない」
すぐそばのキッチンを通り、手前にあった扉を開ける。そこは浴室とトイレがくっついた場所だった。それでもやはり、生活感のないがらんとした空間が広がっていた。
「リビングとかは向こうだよな」
特に気になるものがなかったため、俺は部屋の奥へと足を歩み始める。
「鯉野さんはまだ、帰ってくる気配ないな」
リビングへ続く扉を開け中を覗いた。しかし、そこだけ異様に暗く辺りを探すことが難しい状態だった。念の為と持ってきた懐中電灯を点けることにした。
明るさを調節し、弱めの光にすることでバレる可能性を少しでも減らす。
「それでも見つかるかもしれないけれどな。って、うわ!!」
灯りが照らす方向に向かって歩こうとしたとき、ふと何かが足に当たって躓きそうになる。壁に寄りかかり間一髪の所で免れる。その衝撃で、俺の足に蹴られた何かはガコンと床に叩きつけられた。
「何か、硬いものでも当たったよな。確か……この辺りに、あった」
俺は目の前に見える四角い物体を手に取る。薄いが頑丈で、重さも十分にあった。
「これは、スマホか……?」
俺がそう呟くと、突然スマホのロック画面が表示される。俺はそれを見て思わず息を呑んだ。画面には、お昼頃に撮られたであろう公園を背景にど真ん中で一人の男性が写っている。
俺は目の前の男性を一番よく知っている。
「俺だ……」
そう、ロック画面に写るのは紛れもない俺自身だった。大学生時代の俺が幸せそうに笑っていた。そして、この写真を撮ったのは一人しかない。間違いなかった。
「これ、兄さんのスマホだ。何でこんなものがここに……」
俺はふと、懐中電灯で前を照らした。よく見るとガラスが張られ中に水が入っている。しかし、俺が不審に思ったのはそれが懐中電灯の一つの光では収まりきらないことだった。
左右に、そして上下に明かりを灯す。その動作を行ったことで俺はとあることに気が付いた。
「何だよ、このでっかい水槽。こんなものどうやってアパートに運んだんだよ」
リビングにはテレビやソファ、など生活する上で欠かせない家具が設置されておらず、目に余るほどの大きな水槽があった。水槽内には、何も入っておらず水槽いっぱいの水が入っていた。
視線をその先に移すとろ過装置が見えた。やはり、水槽がそれ程の大きさのせいかろ過装置も大きい。そこから出る水が、水槽の中へとゴポゴポと泡を生み出しながら流れていく。
「もしかして、亀田さんが言ってたのってこの音のことか? 取り敢えず、兄さんの携帯のことを警察に連絡しなきゃ……!」
これ以上は特に探索する必要はないと判断し、玄関へと向かうことにした。俺は懐中電灯ごとくるりと振り返る。
「大家さん」
「っ?! な、何で……」
俺の目の前にはそこに居る筈のないこの部屋の住人鯉野さんが立っていた。鯉野さんの表情は黒い髪で隠れ、どのような顔をしているか分からない。
「ご、ごめん! 俺、すぐ出ていくから……!!」
とにかくこの状況は危険だと感じた俺は咄嗟に謝罪をする。だが、別に警察に通報されても良かった。俺が心配していたのは、俺が殺されるかもしれないということだ。
もし、兄さんの携帯のことを警察に言うことがバレてしまったら、俺まで殺されるかもしれない。
俺にとって鯉野さんは、既に兄を殺した殺人鬼に見えている。
「どうかしましたか? もしかして、僕に用があって来たんですよね……?」
「いや……俺は、その……!!」
「ん? 大家さん、体調悪いんですか? 顔色が良くありませんよ」
それでも鯉野さんは落ち着いた態度を取る。俺はその普通ではない振る舞いに更に呼吸を乱す。鯉野さんは首を傾げた後、後ろの方を見やった。
「あの水槽……」
「も、申し訳ない……! 凄く気になってしまい勝手に部屋に入ってしまった」
「あぁ、別に良いですよ」
「……は?」
俺は頭が真っ白になった。鯉野さんは今、なんて言ったのだろうか。別に良い、そう言っていただろうか。
数秒間の沈黙が訪れる。俺は鯉野さんに赦されたということを理解するには少し時間が必要だった。
「それに、もうそろそろ良いかなと思っていましたし。まぁ、少し予定が早いですけれどそれでも良いかなと」
「な、何の話をしてるんだ……?」
「取り敢えず、着いてきてください」
鯉野さんはそう言うと、俺の手を引っ張り水槽の前へと連れ出す。俺が彼の名前を呼ぼうとすると、鯉野さんは突然俺を水槽の中に突き飛ばした。
「え、ちょっと?!」
俺は何が起きたのか分からず、水の中をもがく。焦りが募り、口や鼻に水が入り俺は咳き込む。同時に水の跳ねるの音が聞こえ、鯉野さんも水槽の中へと飛び込んだのだと分かった。
(急いで上がらないと、溺れて死ぬっっ!!)
俺は水槽の淵に捕まり登る。すると、突然足を掴まれ手を滑りそうになる。懸命に足をジタバタさせ、運良く掴む手を思い切り蹴り付けた。
「ぜぇ……はぁ……。げほっ、げほっ」
そして、水槽から上がった俺は床に倒れる。水を飲み込んでしまった衝撃で喉が軽く詰まり、何度も咳き込んだ。
「この水……、すげぇしょっぺぇ……。まさか、海……水?」
「よく分かりましたね」
「?!」
くぐもった声だが凛とした声に気付き、俺はすぐに振り返った。水槽の中には鯉野さんが微笑んでいた。だが、彼の様子がどこかおかしい。どうして水槽の中に平気でいられるのだろうか。俺は鯉野さんの下半身に目をやった。
「こいのさん……それ」
「はい。漸く気付いてくれましたね」
そう頷く鯉野さんには、足がなかったのだ。いや、正確に言うならば二本足がなかった。その代わりに彼の下半身に、魚のような尾鰭が付いていたのだ。半分人間で半分魚の奴なんか見たことがなかった。
「ば、ばけ……化け物っっ!!」
「化け物だなんて失礼ですね。人魚と呼んでください」
「そ、そんなこと知らねーよ……!!」
「そうですか。貴方のお兄さんは、化け物とか罵倒しなかったのに……」
「やっぱり、やっぱりお前が……兄さんを!!」
鯉野さんが兄の存在を知っていたことを改めて理解した時、俺の中で沸々と怒りが湧き上がってきた。
「お前が兄さんを殺したのか……?!」
「殺した……? 嫌ですね。人聞きの悪いことを言わないでください。僕はただ、君の兄を愛していた。それだけなんです」
「……は?」
「知ってますか? 好きな人と結ばれずに泡になって死んだ人魚の話を」
「なんだ、それ……」
そんな話知らない。そもそも、人魚とか聞き慣れない言葉だ。俺は懸命に首を横に振った。鯉野さんは、俺の言葉に目を見開かせた。鯉野さんは震えた声で、途切れ途切れで話す。
「どうして忘れるのですか? 貴方達人間が、僕達を創り出したんでしょう?」
「忘れる? 創り出した……? ど、どういうことだよ……。分かりやすく説明しろよ……!!」
訳が分からず声を荒げた。誰だってこんな状況で意味不明なことを知ってますかと言われたら混乱に陥ることは仕方のないことだ。鯉野さんは少し取り乱すも、すぐに元の澄ました顔に戻る。
「人魚の女は、助けた人間の男に恋をするんです。そこで、自分も人間になり男と共に生きたいと魔女に頼みます。人魚は自分の声を差し出すことを条件に人間になることを契約しました。しかし、人間になれたのは良いものの男には既に愛する人がいたんです」
「愛する……人って、失恋したってこと……?」
咄嗟に出た言葉に鯉野さんはこくりと頷いた。
「そこで、男を殺すことで人魚は助かることを姉妹たちから教えてもらいました。さもないと、人魚は泡になって死んでしまうから。しかし、男の幸せを壊すことはできずに、人魚は殺さずに自ら海に身を投げ死んでいったのです」
そこまで話し終えた鯉野さんの表情は、この部屋の暗さでも分かるくらい悲しげな顔だった。瞼を伏せ、視線を落とす。しかし数秒後、鯉野さんは表情を歪ませ俺を見つめた。
「だけど、僕はあの可哀想な人魚のようにはなりたくなかった」
「え、それってどう言う」
鯉野さんは俺を一度見た後、静かに話し始めた。
「そこで僕が取った行動は、相手を殺して自分も死ぬことだったんです。そしたら、共にあの世で一緒に暮らせるでしょう?」
「殺して、自分も死ぬ……?!」
その時、俺の顔は青ざめた。鯉野さんは会話を途切れさせることなく続けた。
「僕が彼、大家さんのお兄さんと運命の出会いをしたのは、今から5年前です。あの日僕は近くを渡る船に巻き添いを食らってしまい、不幸にも尾鰭に怪我を負って泳ぐことが出来ませんでした。そして意識が朦朧とする中、君のお兄さん
「兄さんが、お前を助けた……」
「えぇ。久しぶりでした。誰かに優しくされたのは。あの暖かい眼差しと、心配する声に僕は意識がうっすらとでしたが、それでもその顔だけは覚えていました。だから、人間になってどうしても彼と一緒にいたかった」
「だから、兄さんを殺して自分も死のうとした……」
「概ねはそれで合ってます。ですが流石に、突然近づいて襲うだなんて野暮な真似はしませんよ。だから、一砂さんの管理するアパートの住人になりすますことにしました」
「なりすます……?」
「……大家さん、いいえ。貝斗さん。貴方に見せたいものがあるんです」
そう言って鯉野さんは「右を見て」と指を差した。くるりと首を動かすと、何か物が積み重なって見えた。薄暗くシルエットしか分からなかったが、懐中電灯で照らすと、革製のシックな鞄があった。
しかし、鞄の中身が散乱しており床に物が散らばっていた。そこから俺は小さなカード入れを目にする。
クレジットカード、マイナンバーカード、保険証、運転免許証。生きていく上で持っておかなければならない物が沢山ある。
その中でも、運転免許証に目が入った。名前と生年月日、そして、視線をずらすと俺は驚愕した。
そこには、女性の顔写真が貼ってあったのだ。
「こいの……? 恋野真珠……?!」
「ふふ、これで分かりましたか?」
「まさかお前、その為だけに見ず知らずの女性を殺したって言うのか……?!」
「うん。なので、大家さんの推理はとても正しいんです。205号室の住人は女性で、あの個人情報の書類の記入ミスは嘘なんですよ」
ニタニタと気持ちの悪い笑顔でそう述べる彼に、俺は信じられないと言葉を失った。その口調はどこか他人行儀で自分が何を犯したのか自覚してないようにも思えた。
「じゃ、じゃあ……
「もう、とっくの昔に海に捨てました。彼女、元から影が薄いから他の住人にバレることはなかったんです。人って他人に興味がそんなにないんですね」
「なんで……そんなこと……」
「それ、
「……」
「だから、僕は一砂さんの事も殺して自分も自殺しようとしました。でも僕は、人間じゃなかったから多少の傷は負っても死ななかったんです。ほら、僕は俗に言う化け物ですから」
鯉野さんは水槽から勢いよく這い上がる。全身水浸しで、身体中に浸された水が床中を濡らした。呆然とする中、こちらまで水溜りが迫ってきていた。
彼の下半身が徐々に二つに分裂していく。程よくついた筋肉が目が留まり、それが両足であることはすぐに気付いた。鯉野さんの長い腕がこちらまで伸び、俺の頬を濡らす。
彼は徐々に高揚した顔になり、甘い吐息を吐いた。
「あぁ、やっぱり。大家さんは一砂さんにとても似てますね」
「は、離せ……!!」
俺は必死にもがく。
「そんなことをしたって兄さんは帰ってこない!!」
「えぇ。だから、今度はもう失敗しません。死んだら、どこに逝くのか分からないんですから」
鯉野さんはそう言うと、どこから灰褐色の固形物を取り出した。その見た事あるソレに俺は眉を顰めた。
「何してんだよ……」
「人魚のお肉って不老不死になることが出来るんです。少しの欠片を齧っても効果は抜群なんですよ」
「まさか……お前、それを……!!」
嫌な予感がよぎり、俺は咄嗟に水槽から離れた。しかし、全身が濡れていることにより足を滑らせ、俺は床に尻餅をついた。そのまま腰が抜けてしまい、下半身を懸命に動かし後ろに下がった。
「大丈夫ですよ。生で食べさせることは人間の体に悪いと知ってますので、既に焼きましたから」
「そんな問題じゃないだろ……?! とにかく、やめろ!! その気色悪いもの提げろ!!」
だが、彼の腕の力は想像を絶する程強くピクリとも動かない。俺が渾身の力を発揮しても到底にも及ばない。次第に疲れ始め、手の力が抜ける。
それが隙だったのか、俺の口は呆気なく彼の手によってぐわぁと開かれた。じりじりと迫り来る
舌先に柔らかい食感を覚えた。
「僕と一緒に生きてください。ずっとね」
◇
205号室から出た後、俺は部屋のドアの部にしがみつき、ふらつく体を抑えた。視界が段々とぼやける。はぁ、はぁ、と息が乱れ始める。
呼吸をする度に、心臓が血液を巡らすと同時にどこかで空虚感に触れる。何も考えたくない。全てが空っぽになってしまったのにも関わらず、腹は満たされている。
吐きたい、今すぐここで喉に指を突っ込んで嗚咽を漏らしたい。
だが、もう、そんなことしても意味がないと言うのは既に分かっていた。
俺は手すりに捕まりながら、おぼつかない足で階段を降りる。階段に足を乗っける度に、濡れた靴下の湿った音がする。その感覚に不快感を覚え、俺は裸足になった。
その途中で、鯖田さんと出会った。
「大家さん、ちょっと大丈夫? 顔色が悪いわよ?」
「ただの、寝不足ですから。へいき、ですよ」
「そう? なら、良いんだけれど……」
鯖田さんからのこれ以上の探りはなかった。それでよかった。俺は安堵した。
そしてそのまま、彼女の横を通り過ぎる。向かう先は、アパートの敷地外だ。
「あ、そうそう」
俺は鯖田さんに一つ言い忘れたとこがあった。一度立ち止まり、振り返る形で伝える。
「205号室の人が謝ってましたよ。もう、迷惑かけないって」
「あら、それなら良かったわ」
「はい。きっと、今後一切ないので安心してくださいね」
「それでは」俺は鯖田さんに再び背を向け、ゆっくりと歩いた。
「ちょっと大家さん、あんたどこ行くのかしら?」
それでもこのお局は、細かいことばかり聞いてくる。しかし、そのしつこさともこれでお別れになるのなら、少しは答えてやっても良いかもしれない。
「ちょっと、海に行ってきます」
俺はいつもの笑みを浮かべて言えていただろうか。
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