05 変なことにならないといいけど

 その日、領城のバルコニーから見えるピューレシア市の市民は楽しそうだった。それもそのはず。


「――我が娘ナターシャが婚約することになった。相手はここにおる青年アーサーである」


 私とアーサーの婚約発表。

 アーサーはライラック辺境伯家に婿入することになるけれど、結界魔法が使えるわけではないので継承権は持たない。権力の絡まない、実に平和な婚約だ。


「偽聖女との誹りを受け、傷心していたナターシャを癒やしてくれた恩人こそがこのアーサーである。また彼は薬学にも詳しい。結婚後は夫婦揃って、魔法薬研究所を盛り立ててくれよう」


 お父様の言葉に、民衆はワッと盛り上がる。

 ライラック辺境領は瘴気が濃い。というか、この世界では人類が生存可能な領域の端っこのことを「辺境」と呼ぶので、それは当たり前なんだけど。だからこそ、一般市民でも魔法薬に対する関心が高くて、私はずいぶんと期待してもらっているみたいなんだよね。


 そんなライラック辺境領で唯一の都市がこのピューレシア市である。

 帝都から見ればさすがに見劣りするけど、人口は約三十万、近隣の領地と比較してもかなり大規模な都市であり、何より市民に活気がある。帝都の人間はいつもピリピリしてたから、私はこっちの方が好きだなぁ。


 そんなことを考えながら民衆を眺めていると、隣に座るアーサーが話しかけてくる。


「なんというか、みんなすごく祝福してくれてるね。ナターシャは人気者だなぁ」

「嬉しいことにね。まぁ、魔法薬研究所のおかげで財政が潤ってるからだと思うけど」

「そう? 純粋に慕われてるように思うけど」


 そうだったら嬉しいけど、たぶんもっとドライな感情だと思う。

 もしも研究所が大失敗の金食い虫だったら、きっとここまで祝福はしてもらえなかっただろう。それが良い悪いという話ではなくて、貴族に対する民衆の感情というのはそういう類のものなのだと思っている。


「領民に愛され続けるためにも、魔法薬研究所の運営は頑張っていかないとね」

「そんなもんか。まぁ、僕に出来ることがあれば全力で協力するけど」

「頼りにしてるよ、旦那様」


 私はそう言って、アーサーに笑いかける。

 彼のいた世界とは仕組みからして色々なものが違うから、異世界の薬学をそのまま役立てられるわけではないけれど。それでも参考になることはかなり多いから、新しいことが出来るんじゃないかと思うんだよね。楽しくなるぞぉ。


  ◇   ◇   ◇


 婚約のお披露目が終われば、またいつものように研究所でアーサーと議論する日々だ。


「僕はてっきり、瘴気って何かの細菌やウィルスだと思ってたんだけど……本当に違うんだね。そもそも物質ですらないみたいだ」

「ね、だから言ったでしょ」

「ただ、あまりにも何もかもを魔法や瘴気のせいにし過ぎてる気がするんだよね。一般の魔法薬が効きづらいって病気の中には、抗生物質で対処できるものもあるような気がする。色々と研究してみる価値はあると思う」


 アーサーの視点はなかなか面白かった。

 たしかにこれまで、人の体を蝕むものの大半は瘴気のせいだと考えられていたけど、全てをそうだと決めつけるには少々乱暴な理屈だったかもしれない。


「それと、この世界の人間は魔力が強いからどうにかなってるけど……衛生面はもっと気をつけたほうが、病気の発生は減ると思うよ」

「そう? 例えばどんな?」

「まずは、手洗いうがい。それと毎日お風呂に入る、とかかなぁ。前の世界では、単純に身を清める以外にも様々な効果が期待できたから。といっても、入浴の習慣がない市民に強制するのはなかなか難しいと思うけど」


 なるほど、そうだなぁ。アーサーの世界とは違って、こっちでは入浴なんて貴族の贅沢だ。体を清める洗浄魔道具は、どの家庭にもだいたい一つはあって、日々それで身綺麗にしている。それでも完璧に汚れを落とせるわけではないんだけど。

 そもそも、入浴と病気の関係性を研究する者なんてこれまでいなかったからね。だけどアーサーがここまで言うのであれば、このテーマで研究してみるのも良いかもしれない。


「よし。クレマンに、この件に割り当てられる人がいるか確認してみるね」

「ありがとう。でも、向こうの世界で正しいとされてきたことが、こっちでも同じとは限らないからなぁ」

「それはそうだよ。だから調べるんだし。あ、そうだ。アーサーの知識を専門に検証する部隊を立ち上げてもいいかもね。世界を跨いでも共通することはなにか、違うことは何か……そのあたりを調べるのに、柔軟に人を動かせた方が何かと良いと思うんだ」


 そうして話していると、部屋の扉がコンコンと叩かれる。返事をすると、現れたのは専属侍女のマルゲリータちゃんだった。


「ナターシャ様。猪が来てますが」

「分かった。アーサー、ちょっと離席するね」

「いえ、ナターシャ様。猪はどうやらアーサー様にも会いに来たようです。武器は取り上げさせましたが、まだ鼻息が荒かったので、お気をつけください」


 そうかぁ、困ったなぁ。

 なんて思っていると、アーサーがきょとんとした顔で私を見つめている。どうしたんだろう。


「猪? って何?」

「あぁ、アーサーは会ったことなかったっけ。私の専属護衛をしてる女騎士ブルー・ゴルゴンゾーラだよ。帝都にもついてきてくれた優秀な子なんだけど、度々問題を起こすから、この研究所には出禁になってるんだ。今も敷地外で待ってるはず」

「出禁?」


 そうなんだよねぇ、出禁なんだよ。

 マルゲリータちゃんとブルーは、帝都でも私の身の回りの世話をしてくれていた有能な二人だ。ただ、ブルーは思い込んだら一直線だから、上手くコントロールするにはコツがいるんだ。


「出禁って、何したの?」

「魔法薬の実験のために研究所で飼っていた魔物を皆殺しにしたんだよ。珍しいのも全部」

「うわ……」


 アーサーがドン引きしてるけど、まぁそれはそうだよね。とはいえ、融通は効かないけど有能ではあるんだ。剣を持たせれば意味が分かんないくらい強くて、帝都では何度も窮地を救われたし。

 ただなぁ……ブルーがアーサーに会いに来たっていうのが、どうにも引っかかるんだよね。変なことにならないといいけど。

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