28 一緒に行こう
手に力をこめる。
けれども、触れる物は何も無い。
目を開けてみる。
そこには暗い闇が広がるだけ。
先へと進んでみる。
いくら歩けども、足が地に触れている感覚が無かった。
千秋節宴で意識を失い目覚めると、どこまでも真っ黒な世界が続く奇妙な空間であった。いつの日か、夢で見た場所だ。
(いよいよ、本当に死後の世界に来てしまったのかしら?)
足元を見下ろすと、以前この場所へ来た時と同じく、踏んだ場所を中心に波紋が広がっていた。相変わらず、いくら歩いても果てが見えないが、不思議と不安な気持ちは湧いてこなかった。
もしかすると、また彼女に会えるかもしれない。そんな期待を胸に進んでゆく。
歩いているうちに女性が、すすり泣く声が聞こえてきた。
声がした方へ向かうと、その先で彼女が待っていた。
全身を赤の衣で身を包み、頭に金の冠を被っている。そして、彼女の額には牡丹型の
あれは儀式の際に使う正装だ。
しかも、ただの正装ではなく皇后が使うもの。喉から声を振り絞り彼女の名前を呼んでみる。
「
呼びかけられた事に気づいた夏鈴は、涙を袖で拭い顔を上げる。
「どうして貴方は泣いているの……?」
夏鈴の唇が震える。
『許せない……だから涙が止まらないの』
「誰を許せないの?」
『貴方よ』
反射的に足を止め、夏鈴から少し離れる。
「私が貴方に何かしたかしら?」
『何もしていないわ』
「なら、どうして私を恨んでいるの?」
『それは……貴方が愛されているから』
愛されている?
私が?
「私が陛下から寵愛を賜っている事がやらるせないの?」
ならば、どうして貴方は生前、彼を避けていたのよ……!
彼が今、どれだけ貴方の死を悲しんで、後悔して、苦しんでいるのか分かっているの?
心が身勝手な感情に支配され、ぐちゃぐちゃになってゆく。
(許せないのは私の方よ――!)
怒りに身を任せ、喉を震わせる。
しかし、その刹那――夏鈴の表情が『怒り』から『絶望』へと変化した。
『違う……あの人じゃない……』
そして怯えるように悲鳴をあげてから、すぅっと、跡形もなく姿を消してしまった。
何となく嫌な予感がして振り向こうとすると、右肩を誰かに捕まれる。そして、そのまま後ろを振り向かされ、右肩を掴んでいた手は、顎へと移る。顎を持ち上げられ、手の主と視線が交差する。
「あの女には逃げられちまったが、またお前と二人きりになれて良かったよ」
純黒の冕服を
体は痩せ細っており、病人――というより死人のようであった。三日月型に細められた目はギラギラと輝いている。ニヤニヤと笑う口は獲物を前に喜ぶ獣のよう。そうまるで――猫みたいだ。
「
「あー、そうだよ。なんだよ、てっきり俺の事なんか忘れちまったと思っていたけどな」
目尻が熱くなる。
「そっ、そんな訳ないじゃない。鬼猫は私の相棒だもの。忘れる訳ないわ」
「でも、今のお前には俺なんか要らないだろ?」
「バカ言わないでよ。鬼猫が要らなくなったことなんて一度も無いわ!」
彼の手を振り払い、冕服の袖を掴む。
背丈ほどある彼の髪が不規則に揺れた。
「私はお父様が殺さてから、ずっと孤独だった。知らない世界――知らない人達に囲まれて毎日不安だった。それでも、ここまで来れたのは鬼猫のおかげよ。それなのに、何で急にいなくなっちゃったのよ!」
「
鬼猫の大きな手が、私の頭を撫でる。
「わりぃな。お前にとって俺がそんなにかけがえのない存在だとは、思ってもみなかった」
「私は一度も鬼猫が要らないだなんて言ってないよ」
「でも、お前は皇帝と共寝するようにらなってから俺に『一緒に居て欲しい』と言わなくなったじゃねぇか」
鬼猫が頬を膨らませる。
もしや、彼が姿を消した原因は、拗ねていたから……?
「だっ、だって、いつまでも鬼猫に頼ってばっかりじゃ居られないと思ったから」
「俺は曇月にもっと頼られたいけどな」
涙を袖で拭く。
すると、鬼猫が、スっと手を差し出した。
「曇月には俺が必要だよな?」
「うん」
「じゃあ、一緒に行こう」
「行くって、どこへ?」
「少なくとも後宮よりは楽しい場所」
鬼猫の顔を見る。
少なくとも彼の顔は笑顔だ。
悪意はなさそう。
でも――それでも、この手は取るべきでは無いと、本能が告げている。
「私と青衣殿へ帰らないの?」
「それはダメだ」
「どうして……?」
「だって、俺があの場所にお前を導いたせいで、お前は苦しむ事になったから。蔑まれ、疎まれ、果てには命を狙われ……」
「確かに後宮に来てからは苦しい思いを沢山したけど、それは私が何処に居ても同じことよ。生きている限り苦難からは逃れられないわ」
右手を鬼猫に掴まれ、そのまま体を引っ張られそうになる。
(このままだと連れていかれちゃう……!)
誰か助けを呼べそうな人はいないかと、周囲を見渡すと、鬼猫の後ろに女性が一人立っていた。禁書庫で暗殺された官女だ。
「こっちに来てはいけない」と言わんばかりに、首を横に降っている。
「待って、私はそっちに行きたくない!」
覚悟を決めて、袖の下に隠していた物を取り出す。赤紐がついた小型の八卦鏡だ。赤紐も、八卦鏡も、魔除けとしての効果がある。
本音としては、八卦鏡より護符とか、厄除けの短剣を携帯したかったが、万が一内侍官に見つかれば色々面倒な事になりそうなので、誰が見ても魔除けだと分かる八卦鏡をいつも携帯していた。
(鬼猫相手に、どのぐらい効くか分からないけど……)
鬼猫は八卦鏡を見てキョトンとした顔を、浮かべた。残念ながら効果は無かったが、手を離して貰うことはできた。
「おい、人を
「
「あ……言われてみれば、そうだな」
「なら、貴方は何者なの?」
「そっ……それはだな……」
先ほどの、威厳溢れた姿はどこへやら――鬼猫は言葉を詰まらせる。焦っている事がひと目で分かる。
「あー、振られちゃいましたねぇ」
「だから、言葉足らずなところを直した方が良いと
隣から聞きなれた声が響く。
これがした方を向くと、呆れたような表情を浮かべた
「もう諦めて本当の事を全て話しちゃいましょうよ」
「そうですよ。このままだと、もっと嫌われちゃいますよ。
別に嫌いになってはいないよ――とでも返したいところだが、今はそれどころではない。
「えーと、鬼猫の本名――というより正体は、
「そうだ、本当は教えたくなかったが……」
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