偽りの平穏
それからしばらくして、ぼくらのあいだでは夕食をどうするかという話になり、それでぼくは思い出した。
数時間前――母から電話があり、母はぼくらの会合が遅くなると知るや否や、「翔、よく聞きなさい。きょうの夕食は宅配寿司にするから、夜の七時にはお友達を連れて、ちゃんと家に帰ってくるのよ」と半ば無理やり、ぼくらの夕食を決めたのだ。
もちろん、それに反対する愚かなぼくではなかった。
母の意図はなんであれ、宅配寿司など、めったに食べられるものではない。
ぼくはヨダレを垂らす勢いで、電話越しの母に「ワンワン!」と吠えた。
当然、すぐに電話は切られた。
ぼくは途端に恥ずかしくなり、グラスに入ったジャスミン茶を頭上からざぶりとかけることで、母との電話内容をきれいさっぱり忘れた。
それで今に至るわけだ。
ぼくは遙香さんたちを呼び止め、「実はさ」と前置きをしてから、母との電話内容を彼女たちに伝えた。
すると、こんな言葉が返ってきた。
「翔の家って、お金持ち? 九人分の夕食を宅配寿司で、っていったら、結構の金額になるわよ。
翔の両親、無理しているのではないかしら。別に宅配寿司じゃなくても、わたしたちはなんも困らないわよ」
環奈の懐疑的な意見を聞いて、思わずぼくは沈黙したが、すぐに「母さんの言葉を聞く限り、夜の七時には寿司が届くんじゃないのかな。だとしたら、今さらだと思うんだけど」と気まずげに言葉を返した。
環奈はやらかしたとばかり、口をつぐんだが、それからすぐに「ごめんなさい。なんだか、いらぬことを言ったみたいね」とぼくに謝った。
「謝らなくてもいいよ。きみだって口ではそう言っても、本当は食べる気満々なんだろう?」
ぼくは環奈にほほ笑みかけて、なんとか気まずくなるのを回避した。
それは環奈にも伝わったようで、彼女は「もちろんよ」とほほ笑んだ。
「何はともあれ、翔の両親がいいと言うのなら、おれたちは遠慮なくご馳走になるまでだ。
――お前たちも、それでいいだろう?」
徹の言葉に対し、みんなはそれぞれうなずいた。
こうして、ぼくらは大浦家へと向かった。
梅雨が明けたあとの夜の風は、どこか優しく、どこか寂しく感じられ、なんだか落ち着いていた。
汗をかいて歩き続けるぼくらには、それは心と体を癒やしてくれる風であり、ぼくらの生を強く実感させるものでもあった。
なぜ、ぼくらは汗まみれになっても歩き続けているのか?
それは夏の夜の風を受けるためだ。
その風を受け、汗をかく自分に気付き、生を実感するためだ。
それこそが日本を代表する夏の夜。
日本が誇る夏の夜。
そんな夏の夜を楽しみながら、ぼくは自転車を押して歩いていると、いつの間にかぼくらは大浦家に着いていた。
ぼくと詩織さんは玄関ポーチ付近に自転車をとめ、そのあとにぼくは腕時計に目を遣る。
時刻は午後六時四十分過ぎ。
すでに空は薄暗くなりつつあった。
ぼくは玄関扉を大きく開け、「ただいま」と家の中にいる家族に帰宅を知らせた。
一方の遙香さんたちは「お邪魔します」と口々に挨拶し、なんだか賑やかだった。
そんな賑やかなぼくらの声を聞いて、リビングにいた姉が玄関に現れた。
どうやら姉は遙香さんたちが家に来ると知って、高校時代の学生服に着替えてきたようだ。
なぜそういった服装を選んだのかは分かりかねたが、久しぶりに見る姉の制服姿は懐かしく、同時に親近感を覚えた。
「おー、恋愛反対運動の諸君に、遙香ちゃんと……えっと、どなた?」
姉は詩織さんを見ると、首をかしげた。
「わたくしですか? わたくしは風紀委員会の秘密兵器、恋愛反対運動対策委員会所属の月山詩織です。以後、お見知りおきを」
詩織さんは得意な顔になって、困惑する姉と握手を交わした。
「挨拶はこれくらいにして……みんな、リビングに入れよ。そこで話でもすればいいさ」
ぼくはそう言うなり、靴を脱いで、さっさとリビングに向かおうとしたが、
「こら、翔。靴くらい、ちゃんときれいにそろえなさい。そうでないと、靴の神様がお怒りになるわよ」
という姉のきつい言葉に怖気付き、あわててきびすを返した。
ぼくが適当に靴をそろえたら、姉は「ふざけているの?」とこちらの尻を膝蹴りにし、さらにはぼくの頭にチョップをお見舞いした。
「……仲がいいんだね、二人とも」
その引いたような遙香さんの言葉は、もはや姉には届かない。
なおも怒りが収まらない姉に命令され、ぼくはみんなの分の靴まできれいにそろえることになった。
全員分の靴をそろえたとき、玄関にいるのはぼくと姉しかいなくて、ぼくは寂しくなった。
「これが孤独。そしてこれが寂しいという感情なんだね」
「翔のバカ! あんたにはステキな姉さんがいるでしょう? 大好きよ、翔」
涙を浮かべた姉に抱きしめられそうになり、あわててぼくは姉の抱擁を避け、逃げるようにリビングへと向かった。
リビングはいつもの何倍も騒がしかった。
全員が全員、新鮮な雑談を楽しんでいるようなので、ぼくは一同の邪魔をしないよう、一人ソファにもたれかかった。
そして、
「……疲れた、かな」
とつぶやき、満足げに天井を見上げる。
きょうは色んなことがあった。
誰かに指摘を受けなくても、きょうは様々な出来事のオンパレードで、少々はしゃぎすぎたかもしれない。
だからこそ――。
「……充実した日々、だったよな」
そうぼくは結論付けると、目をぎゅっと閉じ、それから一気に目を開いた。
「あんでま!」
ぼくの顔をのぞき込む一人の少女の存在に気付き、ぼくは意味不明で素っ頓狂な声を上げて驚く。
「だ、大丈夫? 空気が濃すぎて溺れちゃった?」
その少女――茜のほうも意味不明な言葉を口に出し、見るからに驚いていた。
ぼくが落ち着くのを待たずに、茜は用件を言った。
「さっきの何かが衝突した音のことなんだけど……あれって、衝突事故の音だよね。
どうしよう、翔くん。人がケガしているかもしれないよぅ」
「衝突した音だって? ……いや、悪い。考え事していたから、聞こえていなかった」
そのときになって気付いたのだが、先ほどまでの騒がしさはすっかり消え失せていて、代わりにリビングは緊張と不安の声に支配されていた。
この場に父と母がいないのは、きっと現場を見てきているからなのだろう。
「何があったんだ?」
ぼくが茜に訊くと、茜は身体を震わせたのち、ぼくの質問に答えた。
「衝突音の前にはね、車のクラクションが聞こえたの。
つまりそれは衝突事故が起こった、っていうことだよ。だから、だから……!」
茜は取り乱し、その目からは涙がこぼれ落ちる。
「落ち着けって、茜。
衝突したのは人以外の何かかもしれないだろう? 何も人だって決め付けなくても――」
「決め付けるよ、翔くんのバカ!
クラクションを鳴らしたってことは、その対象は人間しかいないでしょう? つまりはね、そういうことなんだってばぁ」
茜の言葉の意味に驚くより、ぼくは茜の理解力に驚いた。
そして誰よりも人を思いやれる茜の性格に、ぼくは胸を打たれた。
ぼくなら見ず知らずの人が衝突事故に遭っても、泣きはしないだろう。
だが、茜はその人の安否を心配し、さらには涙を流している。
彼女は優しい子だ。
ぼくは茜とは違う意味で、自分も涙を流した。
そのとき、どうやら両親が家に戻ったらしく、ドタバタと廊下を走る音がした。
そして、両親はリビングに姿を現した。
「……お二人とも、どうでした?」
徹は硬い表情のまま、ぼくの両親に訊いた。
代表として、父が答える。
「妻と探した限り、ケガをして倒れている人はどこにもいなかったよ。
ああ、それと……彼女は遙香ちゃんの友人の
「夏奈……ですって?」
遙香さんは呆然としたように、口をあんぐりと開けた。
その直後、十人目の人物がリビングに入ってきた。
初めて見るが、彼女こそ、夏奈さんだろう。
温厚そうな柔らかい目付き、肩まで届く茶色がかった黒髪……穏やかで優しげな顔を夏奈さんはしていた。
最初、夏奈さんはきょろきょろと周りを見ていたが、やがて遙香さんの顔を見つけると、彼女に笑顔で手を振った。
遙香さんはというと、驚きのあまり、反応できずにいる様子だった。
夏奈さんは手を振るのをやめ、かわいらしく頬を膨らまし、「あのさ」と口を開いた。
「いきなり遙香の彼氏の家に押しかけたのは謝るよ。ごめん。
……でもさ、いくらなんでも無反応はないんじゃない? って、わたしは思うけどな」
その夏奈さんの言葉で、ようやく遙香さんは反応を示した。
「あ……ごめん。あまりに唐突だったから、驚いちゃった。というか、驚きすぎちゃった」
「いいってことよ」
そう言って、夏奈さんはカラカラと笑った。
そのときだった。
急に遙香さんが悲鳴を上げたのだ。
何事か、とぼくは目を丸くした。
遙香さんは手を震わせながら、夏奈さんを指差した。
そして、
「あなた、服に血が……まさか衝突事故に遭ったのって、夏奈なの?」
と遙香さんは笑っているのか泣いているのか分からない顔になって、夏奈さんに訊いた。
あわててぼくは夏奈さんをよく見てみると、確かに夏奈さんが着ている紺色のワンピースには、血のようなものが肩から脇腹にかけて広範囲に赤黒く染まっていた。
気のせいか、それを見た瞬間、どこからか生臭く不快なにおいがしてくるようで、思わずぼくは鼻と口を手で覆った。
だが、その仕草をこの場でするのは不適切だということに気付き、あわててぼくは手を所定の位置に戻した。
それからすぐに周囲を窺う。
徹は顎に手を当て、真剣な面持ちで夏奈さんをにらみつけていた。
環奈は青白い顔をしながら口をパクパクと動かし、夏奈さんを見つめていた。
ぼくらの動揺を敏感に感じ取った茜は、またもやぶわっと泣き出した。
詩織さんはというと、ショックのためか、彼女は床に倒れてしまった。
父は無言のまま、スマートフォンを握りしめていた。
夏奈さんのすぐそばにいた母も「救急車!」と叫び、あわてた拍子で床に転んでしまう。
姉は目を見開き、夏奈さんを凝視していた。
だが、そんなぼくらの連鎖するパニックとは裏腹に、夏奈さんはおちゃらけてみせた。
「あのねぇ、みんな……わたしは不死身か何か、ってわけ?
もしも衝突事故に遭ったのなら、わたしはこんなにピンピンしていられるはずがないじゃん。そうでしょう?
この赤黒いのはね、ただの汚れだよ。それ以上でもそれ以下でもない、ってわけ。
演劇部の皆様、お分かり?」
上機嫌に体を一回転させる夏奈さん。
直後、鼻をつく臭いがますます周囲に漂った。
それで確信したが、この臭いはやはり血だろう。
遙香さんはぎょっとしてあとずさると、口元を手で押さえたまま、震える声でしゃべった。
「まさか夏奈、通り魔でもしたの……?」
夏奈さんは沈鬱な表情を浮かべたが、やがてうんざりとした表情になり、「とうとうきたか。いよいよきたか。わたしを犯罪者扱いにするなんて見損なったよ、天野遙香。あんた、それでもわたしと友達になりたいの?」と遙香さんをじっと見つめる。
何秒か沈黙が流れたが、そのわずかな時間のあいだで、遙香さんは冷静になれたらしい。
彼女はいつもの穏やかな顔に戻り、「そうだね。夏奈が違うと言っているんだから、わたしはそれを信じなきゃいけないはずだよ」と何度かうなずいてから、夏奈さんのそばに寄る。
こうして二人は熱い握手を交わした。
「おかえり、夏奈」
「ただいま、遙香」
それを見たぼくらは、ようやく平穏が訪れたことを知る。
たとえそれが偽りの平穏だったとしても、ぼくらは目の前の平穏を受け入れた。
平穏な日常の中に不穏な日常など、いらない――それがぼくらの出した答えだった。
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