薄情者

 奈蔵高等学校から徒歩十五分の距離にある、カフェレストラン「カレス」。


 そこにぼくと遙香さんはいた。


 この「カレス」という店はぼくら学生にとって、安心とくつろぎを提供してくれる唯一の場だ。

 夕方だけでいえば、学生のたまり場ともいえるだろう。

 それを知ってか知らでか、「カレス」側も学生たちが喜びそうなメニューを日々提供し、それでいつの間にか、ぼくらは蜜月の仲になっていた。


 とはいうものの、朝はシニア世代の客がモーニングを注文しに来て、昼は主婦たちがランチ目当てに訪れ、夕方は学生たちがくつろぎを求めにだべりに来て、夜はファミリー客が押し寄せるカフェレストラン「カレス」は、すべての人に平等だ。


 きょう一日をがんばれそうなモーニングはあるし、舌鼓を打つほどのおいしいランチもあり、ゆったりとくつろぐことができる店内で自由にだべることもできて、豊富な料理で家族と夕食をともにすることができる「カレス」は、誰にとっても一番の場所だった。


 ちなみに説明すると、「カレス」はぼくが通学する学校にも近く、ぼくの家にも(もちろん、隣人である遙香さんの家にも)近いため、ぼくをはじめとした恋愛反対運動のメンバーは、第二の家として利用している。


 あろうことか、そのような第二の家にも関わらず、ぼくは酷く緊張していた。

 それはそのはず、ぼくの対面に座る相手が遙香さんだからだ。

 しかも遙香さんは例の話をするため、ぼくと二人席に座っているのだから、緊張しないわけがなかった。


 周囲のテーブル席には奈蔵高等学校の生徒が大勢いて、ここは教室かと見間違えるほど、見知った顔がそろっていた。


 唯一、店で注文したのはドリンクバーで、ぼくの席にはメロンソーダー、遙香さんの席にはミックスジュースが置かれていた。

 もっとも、ぼくのドリンクは一杯目で、遙香さんのドリンクは四杯目だった。

 この場合、ぼくが飲んでいないのではなく、遙香さんが飲みすぎなのだ。


 先ほどから遙香さんは例の話を避け、ドリンクを飲んでばっかりでいる。

 ぼくはというと、緊張のしすぎでドリンクを飲もうにも飲む気力が湧かなく、半分ほど飲んだところで、グラスを持つ手がストップしてしまった。


 そんな気まずい雰囲気の中、唐突に遙香さんが「実はね」と話を切り出した。


「今から話すことは、わたしの恥だと思って。そしてどうか、わたしを哀れんで。

 いえ、わたしの恥だと思わないで。そしてどうか、わたしを哀れむのはやめて」

「……どっちだよ」

「もちろん、どっちもね。

 ――それでね、翔くん」


 遙香さんはテーブルに両手をつき、身を乗り出した。

 それに釣られたぼくも、遙香さんと同じように身を乗り出す。

 第三者から見たぼくらは、さぞ滑稽に見えたことだろう、とぼくは想像する。


 そして、そんな想像を吹き飛ばす遙香さんの言葉が――。


「お願い、わたしと恋人のふりをして」


 今、ぼくに炸裂した。


「な、なんだって?」


 驚いた拍子に、ぼくはメロンソーダーが入った自分のグラスを倒してしまった。


「あわわ……」


 グラスに入っていたメロンソーダーは、瞬く間に中身をぶちまけた。

 最悪だ。


 もっと最悪だったのは、ぶちまけられた中身がすべて遙香さんのほうに流れてしまったことだ。

 最低だ!


 ぼくの後悔もむなしく、メロンソーダーは遙香さんの体に容赦なくかかった。

 当の遙香さんはショックで身体が動けずにいるのか、ただただ虚ろな目でぬれていく体を眺めていた。


 メロンソーダーの甘い香りが漂い、それを機にぼくは動き出した。


「ご、ごめん」


 ぼくは謝るなり、椅子から立ち上がると、大慌てで遙香さんのほうに近付いた。

 不運なことに、ぼくは勢いあまって何もないところで転倒した。


 まずい、と思う暇もなく、ぼくはテーブルに倒れた。

 これまた不運なことに、ぼくはテーブルに倒れた挙句、遙香さんのミックスジュースが入ったグラスを見事に倒してしまった。


 こうして、ミックスジュースは遙香さんの体を甘くぬらしていった。


 最初、遙香さんはうなっていたが、数秒も経つと、彼女は顔をくしゃくしゃにさせ、とうとう泣き出してしまった。


 ぼくはすべてが恐ろしくなった。


 店員が駆け付けると同時に、ぼくはスクールバッグをつかみ取り、ふらふらとこの場を離れ、なんてことだろう、「カレス」から出てしまった。


 そんなぼくを待ち受けていたのは、顔を真っ赤にさせて激怒している太陽だった。

 太陽は「お前は薄情者だ」と言わんばかり、罰の代わりである日光をこちらに降り注ぎ、ぼくを責めた。


 そうだ、ぼくは薄情者だ。


 きょう一日、遙香さんはぼくにあの話をするため、壁に頭をぶつけるほど、精神を不安定にさせていた。

 葛藤の末、彼女は恥を忍んで恋人のふりをするよう、ぼくにお願いをしてきたのだ。

 そんな彼女のがんばりと努力を、ぼくはつまらぬことで台無しにしてしまった。


 それだけではない。


 彼女を辱め、泣かした挙句、ぼくは逃げ出してしまったのだ。


 ああ、そうさ。

 ああ、そうだ。


 ぼくは薄情者。

「カレス」には戻らない。

 後ろを振り返りもしない。

 たとえ好きな人だろうと、好きな人からのお願いだろうと、ぼくは遙香さんと恋人のふりなんて絶対しない。


 だって、ぼくは恋愛反対運動のメンバーなのだから。


 薄情者? クズ? 残念ながら、ぼくにとってそれらは褒め言葉だ。

 絶交? 無視? なるほど、上等である。


 とめどなく流れる汗と涙をそのままに、ぼくは我が家を目指して、ふらふらと町の中を歩き続けた。

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