第29話

 控え室で立派な漢服かんぷくに着替え、髪を整えてもらい。

 いざ、けいへ。


 * * *


 その先生は、楊カクさんの妹で、じょとして働いていた経験もある女性の楊鶯ようおうさんだ。

 この手配も全て楊明さん。本当に恐ろしいよ……。


 まあ、簡単に言えばはくとなる人に教わるわけです。

 優しい人であることを祈る……。


 扉を叩くと、中から「どうぞ、お入り」という貴婦きふじんに似た上品な声が聞こえてきた。

 恐る恐る開けて中に入る。


「初めまして」


 うわぁ、綺麗。

 それが第一印象だった。

 様々な濃淡の桃色の漢服と、金色の鳳凰ほうおうのような頭飾り。長い黒髪は三つ編みにしていて肩にかけていて、赤いせんを広げてゆうに口元を隠していた。


「は、初めまして……り、りくぎょくらんと申します……」


 ガチガチで揖礼ゆうれいをすると、楊鶯さんは静かに「そんなに堅苦しくならなくてもいいわ」とおっしゃった。


わたしも完璧ではないから、あくまで参考程度でいいわ」

「………」


 微笑む姿は、天女てんにょのように見える。本当に綺麗で優雅だ。

 それに、顔が母親というか……穏やかで、せいのよう。

 ……あれ? わたし、聖母なんて言葉、どこで知ったんだろう?


「さあ、ここに座って」


 言われた通り部屋の中にある椅子いすに座り、背筋をピンと伸ばして楊鶯さんの方に向き直った。


「陸なんて苗字をていで聞いた覚えがなかったから、新勢力なのかと思ったんだけど」


 そ、そりゃ、聞いたことあるわけが、な、ない……。

 何て言ったって私の実家は、どこにでもいる、平凡で変わったところのない一般家庭だ。この大陸で一般家庭と言うと、貧しいという先入観が等号とうごうで結ばれる。


「あ、あの……わ、私……」

「ああ、ごめんなさい。まずは楽器に触らないとね」


 楊鶯さんは私の目の前に、琵琶びわをコトッと置いた。


「琵琶です。この楽器のげんを弾いて音を出します」

「は、はい……」

「では、まず私が弾きますね」


 楊鶯さんは琵琶の弦を弾き出した。なめらかで美しい旋律せんりつが流れる。思わず聞き入った。


「ここの白いところを弓で弾いて、音を出す。そしてこの弦を弾く」


 楊鶯さんが弾いたように、私も琵琶を弾く。

 ……が、弦を上手く押さえられず、変な音が出てしまう。


「あ、あれ?」

「大丈夫よ。初めてなら、誰でもそうなるわ。さあ、もう一度やってみましょう」


 楊鶯さんの指導のもと、私は何度も琵琶を弾き続けた。


 * * *


「今日はこれくらいにしましょう」

「はい」


 お天道てんとう様が少し西にかたむき始めた頃。お稽古はお開きとなった。


「初めてにしては上出来だったわ。これから一緒に練習しましょうね」

「はい、よろしくお願いします」


 私も椅子から立ち上がる。

 と、その時。楊鶯さんが「あ、そうそう」と言って、私を呼び止めた。


「これからしばらく、よろしくね。陸さん」

「は、はいっ……こちらこそ!」


 * * *


 部屋を出たら、そこにはみんなが待っていた。


「大丈夫だったー? 玉蘭〜」

「い、一応……」


 小鈴の心配そうな言葉に答えるように、私はうなずいた。

 実際、琵琶のお稽古は大変だった。上手く弾けず、私が出した音は不協和音とでもいうべき悲惨な音色。最後は数音だけまともな音が出たけど、まぐれのようなものだ。


「玉らーん、大丈夫〜?」

「だ、大丈夫……だよ」


 せいちょうは心配そうな目で、私を見つめる。


「琵琶の稽古は大変だったけど、楊鶯さんはとても優しい方!」

「そっかぁ〜よかった〜」


 しょうりんは安心したのか、ホッと胸を撫で下ろす。


「でも、お稽古はこれからだから」

「頑張れ〜!」


 みんな、本当にありがとう。

 私は心の中で、そうつぶやいたのだった。


 * * *


 琵琶の稽古が終了し、蘇菲そひたちに連れられて控え室に戻る最中のこと。

 回廊を歩く楊明さんとすれ違い、突然話しかけられた。時間があるなら来てほしい、という。

 別に用事はなかったので、彼について行った。


「楊明様、一体?」

「玉蘭殿は、無論知っているな? 俺の正室になったこと」


 はい、もちろんですと私は頷く。そうでなければ琵琶の稽古など受けるわけがない。

 楊明さんはこくこくと頷いてから、突然近寄ってきた。

 ひっ……!? もう少しで体が密着しそうなくらいの至近距離だ。


「ならば、儀式は……」

「あ、婚礼こんれいは大丈夫です」


 私はあっさり断った。


「えっ、だが」

「婚礼の儀を開くにはお金もかかるだろうし準備も何日か必要です。また面倒な事件が起こるのも嫌だし……」

「そ、そうか……」


 楊明さんは、少し残念そうだった。

 でも……婚礼の儀は、まだいい。


 私が毒を盛られて倒れたのは、婚礼の儀のときだ。またあんな陰湿な事件が起きる可能性は、十分にある。

 後宮には、私の結婚をねたむ人もいるだろうし……。


 それに、あんな高級料理や上等衣服を大量に出すには費用がかかる。わざわざ大量出費をしてまで、式典を開こうとも思わなかった。


 本来なら永遠に最下層庶民だったはずの私が、後宮で働けただけで奇跡に等しい。

 それなのに、支配者の正室にもなったのだ。

 どうこう口を出すわけにはいかない。

 それに、見違えるように良くなった生活なのだ。これ以上は望まない。


「あの……私は、楊明様の隣にいられれば、それで十分ですから」

「玉蘭殿……」


 楊明さんは、私の肩を抱き寄せた。


「あ、あのっ……」

「……すまない。嬉しくてな」


 ふふっ、楊明さんにも子供らしい一面があって可愛いや。


 * * *


 翌昼。何気に庭園を散歩していると、楊明さんと出くわした。


「玉蘭殿……久々に亭台ていだいに行こう」

「はいっ」


 その亭台は、楊明さんの亡き母が建てた思い出の亭台。

 私がほうしょうぐうに来て間もない頃に連れてきてもらって以来の場所だ。

 池のほとりに建っていて、周りには春の花々が咲き誇っている。

 綺麗だなぁ……。


「前来たときは、秋でしたね」

「ああ」


 池の水面に浮かんだ紅葉と、澄んだ青空の姿。今も瞼の裏に焼き付いている。

 今は桜の花が五分咲ごぶざき、色鮮やかな草花が景色に散っている。視界の中に様々な色彩が映っていた。


「美しい景色ですね……」

「そうだな」


 ここに蘇菲たちもいればよかったのに……。

 私の頭の中を、そんな思いがよぎった。


 私は楊明さんの隣に腰掛ける。やはり、まだ緊張してうまく話せない。

 本当は、色々と話したいことがあるのにな……。

 そうこうしているうちに、楊明さんが先に口を開いた。


「玉蘭殿」

「は、はいっ」

「もう少し近づいてくれるか」

「い、いいですよ……」


 私は楊明さんのそばに寄ってみる。肩と肩がくっつきそうなくらいに、顔を真横に持ってきた。


「玉蘭殿は、俺の正室になってよかったと思うか」

「……はい、もちろんです。楊明様は、とてもお優しい方ですから」

「それはよかった」


 楊明さんは、私の頭を抱き寄せた。すると、くいっと顔を近づけてきたのだ。


「!!」


 ひゃっ……な、何……!?


「すまない、突然。玉蘭殿の顔がすごく……」

「だ……大丈夫ですっ……」


 楊明さんの前髪が私のひたいをくすぐる。彼の細い髪と、私の髪が絡み合うように触れ合った。

 目がカチッと合って、もう離せない。


「玉蘭殿、俺は」

「……はい?」


 楊明さんは、私の頬に手を触れた。そして、ゆっくりと顔を近付けてくる。

 私は。そっと目をせる。


 空気が少しずつ甘く、熱くなるのを感じた。

 顔をくっ付けて、くいっとさらに近づける。


 ……ち、近い……。

 ここまで近くで、彼を見たことは……ど、毒で倒れたとき以来だと思う。


 端正な顔立ちと綺麗な瞳。ただでさえ綺麗なのに、仕草とか物言いが、よけいその美しさを際立てる。


 そっと、鼻先が触れて。


 そして、柔らかなくちびるの感触を、肌で感じた。


 今まで経験のない私には、甘すぎるくらいのとう

 このままでは沸騰ふっとうする、その寸前で口を離して首を振る。


「もう……恥ずかしいです……」

「すまない」


 楊明さんは耳まで真っ赤にして照れていた。私も同じくらい赤いけど。

 それこそ、ゆでダコみたいな。


「……でも、嬉しかったです」


 楊明さんは私の体をぎゅっと抱きしめた。

 その体は、とても温かくて……私は、思わず目を閉ざした。









 「宝晶宮のカリスマ太守は、貧しい物売りの娘を寵愛希望?」本編 完

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