moonlight6(永香)

 挫折感でいっぱいだった。






 綺麗に平らげた焼きそばは腹の中でこなれず、食べた時間が遅いこともあって胃もたれだ。


 俺は何をしているんだ。


 かつての上司は異性関係も清らかなもので、結婚している当時も新人に手を出した話など聞いたことがない。当然男に興味があるわけもない。


 開店前に全部の酒瓶を磨いた。バーと言ってもうちは音楽もやる。酒を純粋に楽しむ場所や、ピアノのみの店内ほど洗練されてはいない。


 少し上等なクラブにでもなれば、ずっと静かで客も少なく、代わりに酒の値段が跳ね上がった。女がいるからだ。


 こちらから勧めなくても呑んでくれる客をつくるため、どんな細かなことにも妥協しないでやる。単調な作業のおかげで、気が楽になった。




 ただ食事をして帰った。


 約束もせずに。




 作業中に携帯電話がなった。この時間なら、スタッフの誰かだろう。完全に油断していた。



『私だが』



 どちらさまですかと言うわけがない。しかし番号は変わっている。教えてない。



『波多野。私だ』

「はい。聞こえています」



 自分の声が反響していた。アンテナを立ててもらったが、地下ではほとんど繋がらないからだ。


 上へ出ますと答えかけるのを、また遮って言われた。



『帰りは何時だ』

「え……あの。いま、店で」

『知っている。何時だ』

「あ、五時五十」

『あがりの時間だ。時計は見えてる』



 俺はいくつなんだ!学生時代でももう少しマシな応対をしたぞ。つい舌打ちをしたのが届いたらしい。『切る』という声に縋り付いた。



「翌日です。二時半か三時」

『――――いつもそれくらいなのか』

「まさか。いや、そういう日もありますが」

『わかった。迎えに行く』



 すぐに切れた。迎えに。行く?店に来るではなく?


 俺はカウンターの前で長いこと放心していたらしい。気づくとスタッフが出勤していて、店も開店間際だった。


 歌姫が来る。重役出勤者の襟首と腕を掴んだ。



「ちょ、っと。なにっ?」

「――――イタズラはこれまでだ!悪趣味にもほどがある」

「え。なんのことよ」

「とぼけるな」



 声を張り上げすぎた。何人かの気をひいてしまう。店を開ける前にすべきだった、と歯を食いしばった。


 彼女はキョトンとしている。



「番号を教えたな」

「番号?なんの。ああ、携帯……って誰に」

「父親だ!」



 歌姫は周囲を見回して、逆に俺の手を取ると壁に押し付けた。順を追って説明なさい、と母親のような口を利く。


 俺は睨みつけたまま、かかってきた内容を話した。


 彼女は唇に拳を当て、小首を傾げる。急ににやっと笑った。



「ははぁん。なるほどね」

「謝ってもらおうか」

「誤解よ。私は教えてない。名刺渡したんでしょ。違う?」



 今度はこちらがキョトンとする番だった。名刺。渡したか?渡したわけがない。いや……


 赤面は抑えられなかった。つねる膝が遠い上に、スポットライトの真下にいるせいで余計に目立っただろう。



「さあ。謝ってもらいましょうか」

「……すまん」



 歌姫はくすくすと笑い、楽屋に消えた。


 最初の客が来ても顔の赤いのは消えない。熱でもあるのかと一晩中いろんな人間に聞かれた。


 彼女はすべての出番を終えて、カウンターに座った。


 俺は使い物にならず、店をただ見て回っていては新規の客は落ち着けないだろうと、裏口から外へ出た。


 煙草を差し出してくる。火をつけてやると旨そうに煙を吐き出した。仕草に品がある。粗雑なふりをしても駄目だ。育ちが良すぎる。


 俺と同じだった。夜の世界では白すぎて、何をしても浮くのだ。



「パパはなんて言ったって?」

「迎えに……くるとかなんとか」

「じゃあ今日は車ね」

「断ろうとしたら切れた」

「じゃあ乗っていけばいいんじゃない」



 まだ何か言うだろうと待ったのに、彼女は先にあがると言い残して下へ降りて行った。


 それからの時間は長すぎて、何をしていいか困るほどだった。待ち遠しいのとは違う。不安なのだ。




 どういうつもりなんだ。


 まだ先があるのか。


 気持ちに句切をつけたはずだろう。


 期待するな馬鹿。




 決算の票をかき集めて、首を強く振る。顔が浮かんだ。過去ではなく、いまの顔が。


 来たぞ、と言う姿を見るまで、ほかのことは目に入らなかった。


 なにもだ。どういう風に戸締まりしたか、覚えていない。


 俺は狭い道路に置かれた車の助手席に乗り込み、昔何度も聞いた台詞に奮えた。






「ご苦労さん」







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