第22話【朝日奈雫は闖入する】
――――カチャ。
大きな曇りガラス張り扉を開くと、そこそこ良いところのホテルもかくやとばかりの、ユニットバスが広がっていた。
風呂、トイレ別な上に入居後に
大理石だろうか。白を基調とした石材を壁前面につかっており、小さなまどから差し込む僅かな光が反射して、灯りを点けていないのに十分な明度が保たれている。
それに加えてアメニティの多さ!
シャンプーにリンス、洗顔料、メイク落とし諸々……。
この部屋の主が女性であることを加味しても、相当な数のボトルが風呂用のラックに並んでいた。
「風呂に懸ける情熱スゲェな……。そりゃあんなけ綺麗でいられるわけだ」
得心いった俺の呟きは、浴室ということもあって予想以上に木霊した。
俺が昼食をご馳走になった後も先輩の家にいて、まして風呂場を借りているのには、深いふかーい事情があるわけ…………もなかったりする。
なんなら借りているというか、押し込まれたと言うか……。
先刻、不運にも来ていたシャツにべっとりとケッチャプを受けた俺は、身体も汚しちゃっただろうからと、半ば強引に風呂場を貸し与えられたのである。
別に俺はどてっ腹を銃で撃たれたような真っ赤な服で帰っても気にしなかったのだが、脱いだシャツを先輩に没収され、現在洗濯機の中なのでお言葉に甘えることにしたのだ。
「湯も張って良いとも言われたけど、さすがに気が引けるし……けど先輩の性格的に遠慮するの嫌うだろうなぁ」
受けた恩は必ず返すし、義を重んじる。
変な所で遠慮すれば、また別のところで帳尻を合わせようとする先輩の姿が容易に想像できた。
今どき律儀というか不器用な人だ。今回だって一言「ごめーん」とおふざけ混じりにでも謝ってくれるだけで、俺は許していた。否、そもそも怒ってすらいないのであるが。
むしろ普段の我儘な一面を知っているからこそ、てっきり茶化して終わるモノだと思っていたけど、俺の予想に反して先輩の対応は実に真摯的であったのだ。
きっと今までもそうしてきたのだろう。
先輩の、あの可愛さと大人な雰囲気の良いとこ取りのような容姿で頼まれれば、大抵の男は彼女の下僕よろしく、小間使いに成り下がる。
なのに朝日奈先輩は己の容姿の良さを自覚していてなお、ソレを笠に人に媚びるような真似は絶対にしない。
もちろん俺との
仮に色目を使われたなどとほざく奴がいたとしたら、そいつは先輩の真剣さなど見ずに己が欲望に走ったゲスやろうってだけである。…………2つ返事で転職してまでのこのこついていくどこかのバカとか。
「まぁ、それにしても風呂貸すほどではないと思うけどさ」
閑話休題。
雨に濡れたとかならまだしも、局所的に汚れた程度でコレは少々大袈裟なきらいがある。
…………っと、いつまでも棒立ちだと風邪引くよな。
いくら夏前とはいえ、すっぽんぽんでいたらバカを見る。
俺は借りたタオルを片手に風呂場へと足を踏み入れた。
肌に吸い付くような滑らかさな肌触りと、無機物故の冷たさを訴えてくるタイルの上を歩きながら、シャワーヘッドと蛇口のある混合栓の方へ。
しかし俺の足はあと数歩というところで、急に止まった。
「本当に使って良いんだよな……?」
今さらになって覚悟が鈍る。
よく掃除されて清潔感が保たれているが、この風呂場は普段、朝日奈先輩が使っているのであって。つまり毎日ここでは先輩が一糸まとわぬ姿でいる。あの男好みの肉感溢れる先輩の肢体が、この場では何物にも妨げられず解放されているのだ。
なんとも気持ち悪い発想と妄想だが、男とはそういう生き物なので仕方がない。
劣情と背徳感、それと興奮がない交ぜになった心持ちで、先輩が愛用してると思しき風呂用のイスへと腰掛ける。
いつもお疲れさん。
あのデカい尻に毎日敷かれているであろう、少し高めの椅子に自然と胸中で労いの言葉が出てしまった。
まずは頭から洗おう。
「おっ、結構強いな」
混合栓を捻ってシャワーヘッドから水を出す。いつもとは異なる水圧に驚きながら髪を湿らせた俺の手は、シャンプーの方へ。
女性モノのシャンプー。それも一目でオシャレなボトルからして中々に値が張りそうなくらいは俺でも想像がついた。
だから出すのは1プッシュ。必要最低限の量で済ませる。
それでも香りが際立ち、自分の頭から普段先輩が近くを通るたびに鼻孔をくすぐる匂いが自分の頭から香ってくることに、再び心臓が早鐘を打ち始めてしまった。
心を無に勤めてシャワーで頭の泡を洗い流す。
しかし、そこでまたも問題発生。
「あれっ? タオルどこ行った?」
タオルが見当たらない。いや、濡れてるせいで目が開かないから、そもそも見えてないんだけどさ。
人ん
あまり気は進まないが手で拭うしかないか。目に傷が入りそうで嫌なんだよなぁ。
そんな風に思った時だった。
「はいタオル」
「あざっす」
グッドタイミングでかけられたフランクな声色。声のした方へと手を伸ばすと、まるでタオルの方から俺の下へとやって来たかのように、手に収まる。
シャワーヘッドの持ち手から水を止めて、手に入れたタオルで濡れた顔を拭き拭き。触れた瞬間、優しい肌触りが顔面を包み込み、どこか嗅ぎ覚えのある香りが鼻孔をくすぐる。
柑橘系とはまた少し違った、フルーティーな香りのするタオルから顔を離し、続いて身体を洗おうと閉じていた瞳を開くと――――。
「このタオルめっちゃ肌触り良いでしょ?」
一瞬、俺は目の前の状況を理解できなかった。
否。把握しようとすることを本能的に拒んだ。
浴室という衣服を脱ぎ捨てた人間がもっとも無防備になる空間で、自分以外の誰かが、断りもなくいつの間にか侵入していたのだ。
だが俺が思考を停止させたのは恐怖によってではない。だってここは俺の家ではないのだ。他の第三者……例えばこの家の家主が入って来る可能性は十二分に考えられるから。
故に俺は真実を知る前に考えることを放棄した。
しかしそんなことは一刻凌ぎにもならない。
1度開いてしまった瞳が。その声を拾ってしまった耳が。それらの情報を流し込まれた脳が、否応なく事態を把握しようと働くのだから。
大きなタオル……バスタオルを巻いた女性らしい丸みを帯びた身体。特に胸部装甲の膨らみが素晴らしい。
そのまま視線を一旦下げると、胸に負けず劣らずのボリュームを誇る臀部。そこから伸びるむっちりとした足は、太腿がどうして“太”と付けられているのかを証明するに足る魅力を備えている。
視線が再びやや上部……見えそうで見えない足の付け根の方へと向かったところで、俺はようやく理性を取り戻した。
「せ、せせせ先輩!? なんでいるんだよ!!」
そこにはいったい、いつからそこにいたのか……俺を風呂に入るよう促した“朝日奈雫”の姿があった。
「フフッ、ビックリした?」
「ビックリどころじゃない!」
なんで入って来てるんだ。
こちとらフルチ――――っ。
「シャワー中に侵入とかセクハラもいいとこっすよ!?」
「アタシのバスタオル姿ガン見してる明斗くんに言われても説得力無いなぁ」
「…………っ」
指摘されてバッと首ごと先輩から視線を外す俺。
これはアレだから。見たいとかそう言ったモノではなく、人と話す時は相手の目を見てと言う、至極常識的で社会人であるならやって当然のことであって――――。
などと胸中で誰に言うでもない言い訳を言い募っていると、不意に俺はあることに気が付いた。
すなわち…………先輩から恥じらいというものを一切感じられない。
今一度、先輩の格好を整理する。
バスタオル1枚。馬鹿だろ。
例えばそう――――バスタオルの中に水着を着こんでいる、とか。
大方、動揺する俺を揶揄って散々楽しんだ後、「中に水着来ていましたぁ!」と兼ネタ明かしする腹なんだろう。
そうはいくものか。
「読めだぞ、先輩の魂胆」
「え?」
ネタが割れればこっちのもんだ。
俺は改めて先輩に向き直る。こっちは素っ裸なもんだから下半身を限界まで内股にしながらという、アホみたいな体勢だがそこは今は考えないように努める。
「そのタオルの下……何か着てるだろ?」
「さすが明斗くん。残念っ、不正解!」
「ふっ……伊達に先輩と長くいるわけじゃないからな。先輩の魂胆くらい手に取る様に――――――――は?」
今、この人なんて言った?
ふせい……かい……?
俺が浴びていたシャワーのとばっちりで、身体に張り付いてそのスタイルの良さを強調させているバスタオルの下には、それ以外何も身に纏っていないと?
予想外の返答に、俺の思考は吹き飛んだ。
「そんなバカな!? 不正解って、それじゃバスタオルの下は…………」
「あ、うん……に裸……だよ?」
「痴女じゃん!」
思わず俺は叫んでしまった。
「だ、誰が痴女よ!」
「バスタオル1枚で男の入ってる風呂場に来るのは十分痴女だろ!」
「だって大学卒業してから海もプールも行ってないし……水着持ってなかったんだから仕方ないじゃないっ」
「仕方ないとかで許される問題じゃないんだって……」
どういう理由があれ、普通は他人が使っている風呂場に入ってきちゃ駄目なんだよ。
まったくこの人は、危機管理の力が無さ過ぎる。
「俺が悪い奴で警戒心を緩めていた先輩を襲う……とか考えないんすか? 昔からよく言うでしょ。男なんて結局どいつもこいつも下心持ってるんだってさ」
「それはつまり……明斗くんもアタシのことエッチな目で見てるってこと……?」
「……………………」
その時、俺は反射的に否定することができなかったことを悔いた。
嘘でも否定するべきだったのだ。
しかし先輩が言葉を紡いだ刹那に躊躇した。ソレはおそらく先輩に対して劣情をただの1度も抱いたことがないと、胸を張って言えない事への後ろめたさがあったが故。
そしてその刹那にも等しい逡巡を彼女は見逃すことがなく、
「へー……そうなんだ。ふーん……」
その目つきを変容させた。
先刻までは見受けられなかった得物を前に、十二分に狙いを定める狩人のような鋭く、されど自身の絶対的優位性を噛みしめている双眸。
一方でタオル越しの胸元を右腕で抱え込むよう覆い、大胆に露わになっている太腿を少しでも隠そうと空いている方の手でタオルの裾を引く姿は、今さらながら自身の格好を恥じらっているように見えた。
「そそ、そういうことなら今日の所は引き下がろうかな、うん。背中流してあげようかなって思ってたけど、明斗くんがケダモノになっちゃうと、困る……ていうか、もうちょっとロマンチックなシチュが良いしね!」
と、俺の言葉を待たずして、先輩は急いで浴室から出て行った。
「一体何だったんだ……」
ただ上司の考えを理解できない俺は呆然と素っ裸で立ち尽くした。
**********
【あとがき】
拙作をお読み頂きありがとうございます。
ただいま本作はカクヨムコンテスト10に参加中でございます。
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