自覚の手前

「…だけど俺は、スタクとどうこうなりたい訳じゃないんだ」


 手首を掴んでいたヤードの手から力が抜けて僕の上から身体が退く。


「…無理だって、わかってるんだ。スタクが俺に興味がないなんてこと、俺が、一番良くわかってる。だからこれは俺の自己満足で、俺がすっきりしたくてやったことなんだ」


 ベッドに座り、両手で顔を覆いながらこぼれる言葉たちは僕に向けたものというよりも、ヤード自身を納得させるようなものだった。

 肘をベッドについて上半身を起こす。少しだけヤードと距離を取って座り、未だに少し痛む手首をさすりながら動向を見る。そんなふうに冷静なのは頭の一部分だけで、心臓はずっと早く脈打っているし、今でも呼吸が浅い。瞬きも、意識しないと出来ない。


「…本当にずっと好きだったんだ」


 声が震えていた。


「一生懸命ルーヴに追いつこうって勉強してるとこも、何回怪我しても実技訓練でめげなかったとこも、たまに見せるちょっと気が抜けた顔も、全部かわいくて、ずっと目で追ってた」


 多分今、ヤードの中で僕の思い出を辿っているのだろう。


「だけど側にはずっとルーヴがいて話し掛けることも出来なくて、それなのにずっと好きで、諦め切れなくて、……でも環境が変わったら、赴任先が同じでも学園よりはずっと世界が開けるって思ってた。実際、開けてたんだ。忘れられるって、思ってたのに」


 短く息を吸ったヤードの顔から、手が離れた。

 濡れた目が僕を見ていた。酷く優しい光を灯した目が水の膜を張って僕を見ている。


「…スタクと、ルーヴがいないスタクと過ごす時間が出来て、もうダメだった」


 力無く肩を落として笑う。


「忘れるなんて無理だって思い知った」


 泣いているのにどこか吹っ切れた様子で言い切る姿に、目を見開く。


「…スタク、好きだよ」


 さらりと、流れる風のように紡がれた言葉に中途半端に開いた口から酸素が漏れた。

 ヤードの表情は柔らかい。ひだまりのような、そんな。

 ああ、わかっているのか。そう漠然と思った。

 ヤードはわかっているんだ。この後僕がいう言葉を。それをわかっていて、それでもこんな顔をしていられるんだ。


「……っ」


 心が、引き裂かれそうなくらい痛い。


「…ごめん」


 辛うじて音になっている、そんな細い声が出た。


「こたえ、られない」

「──うん、ありがとう」


 いつもと同じ顔でヤードが笑った。


「…酷いことしてごめん。ルーヴに詰められたら俺のせいだって言って」


 視線が手首に向けられた。それを追って見てみると、そこは赤くなっていて明らかに拘束されたとわかる形になっていた。

 キシ、とベッドが軽く軋んでヤードが降りる。思わず目で追うけれど、ヤードは僕の方を振り返らずにそのまま扉の方に行き、出て行った。

 バタン、と扉の閉まる音がして僕は一人になった。


「……」


 怖いくらいの静寂が訪れる。


「……」


 呆然と扉の方から目を逸らし、また手首を見る。

 両手には赤い痕がはっきりと残っていて、今の出来事が夢じゃないんだと教えて来る。手を開いて、握る。そんな些細な動きに少し痛みが走って、それが一層僕に今起きたことが現実なんだと叩き付けてくる。

 夢じゃないのであれば、あのキスも、首筋に感じた熱も現実なんだ。


「!」


 途端に走った寒気に、僕は急いで立ち上がって洗面所に向かった。

 一心不乱に顔を洗って、首筋を水で濡らして擦る。シャツが水で濡れて張り付いた頃、僕はようやく水を止めて鏡を見た。息が上がっていた。髪が額や顔に張り付いて酷い有様だった。


 だけど僕が愕然としたのは、そこじゃない。

 首筋に赤い痕が残っていた。

 僕はそれが虫刺されなんかじゃないって知っている。だって僕は、前にもこれを付けられた。

 首筋どころか体中の至るところに残されていたから知っている。


「…ぁ、あ…」


 シリウス以外に、痕をつけられてしまった。


 鏡の中の自分の顔が絶望に染まるのがわかる。

 爪で痕を引っ掻いても消えるわけがなくて、なら魔法で消せばいいと思うけど、僕は傷を治す魔法を使えない。それにこんなもので医務室にだって行けない。


「ど、しよう…」


 首筋を手で覆ったまま、僕はふらふらとベッドに戻った。

 さっきまでヤードに押さえつけられていた場所だと思うと心の奥底が冷えていくような感覚がするけど、今僕の安全地帯はここにしかないんだと確信していた。

 でもどうしても横になるのは出来なくて、枕を掴んでソファに向かった。


 そこに腰掛けて、一番濃くシリウスの香りがするものに顔を埋める。頭の、どこか冷静な部分が僕に文句を言ってくる。

 たかが同性に告白されて接触があった程度で心を乱すなんて軟弱者め。

 その通りだと、そう思うのに、僕はシリウスの気配があるものから離れられなかった。


「……シリウス」


 ぽつ、と名前を呼ぶ。

 当然返事がある筈もなく、僕の声は枕に吸い込まれた。

 シリウス、シリウス。何度も名前を呼びながら枕をキツく抱きしめる。

 声がだんだんと掠れていく。湿り気を帯びて、喉が引き攣った。


 今まで隣にいることが当たり前だった。でもそれじゃダメだと思って別れる提案をしたのも、嫌だというシリウスを黙らせたのも自分なのに、今僕はそれをどうしようもないくらいに後悔していた。


 一刻も早くシリウスにあいたい。

 あの声で名前を呼んで欲しい。触れてほしい。

 その理由がわかってしまった今、僕の心はどうしようもなく乾いていた。


「シリウス」


 もう何回目かわからない程名前を呼んで、徐々に瞼が落ちていくのがわかる。

 頭の中はもうぐちゃぐちゃなのにそれでもこのまま寝るのはまずいだとか、せめて着替えないと、なんて思う。だけどアルコールを摂取した体は頑固で、そんな正常な思考が浮かんだ側から霞となって消えていく。


 アルコールを飲んでいなければきっと今日僕は睡魔になんて襲われなかっただろう。そうしてずっと今日のことをぐるぐると考え続けるのだろう。

 でも今の僕はとても眠くて、とても起きてなんていられない。それでもいいやと、どこか楽観視しているのは目が覚めた時、きっと側にはシリウスがいるとわかるからだ。


 だから、今日はもう寝てしまおう。

 僕は迫り来る睡魔に抗うことなく瞼を完全に下ろした。

 次に目を開けた時、僕の前には心配そうな顔をしたシリウスがいた。僕はおはようもお疲れも言うことなく両腕を伸ばした。

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