閻魔ちゃまのお仕事
矢吹准
プロローグ
ぼんやりとした意識が浮上する。佐藤正太郎は、草むらの中で大の字になって倒れていた。
「なんだ、ココ…?」
記憶の中を探る。さっきまで正太郎は高校時代の同窓会に参加していて、毎日の激務を忘れるために久しぶりに酒を飲んだところまでは覚えている。
「い、いたた…」倒れたときの衝撃だろうか、全身の骨が軋むように痛い。
正太郎が倒れていたのは森の中のようだった。至る所に草木が生えている。だが、手付かずの森なのか、草木は生え放題で、正太郎が倒れていた場所の草がしおれている。もちろん、人影も見当たらない。正太郎があたりを見回すと、一筋の光が目に入る。
森からでる出口だろうか。正太郎は軋む体をゆっくり動かしながら光の方を目指した。右足を捻ったのか、引きずりながら歩みを進める。
出口からは霧が出ている。正太郎は一瞬足を止めるが、霧が頬に触れると、心地良い温度が正太郎の頬を撫でる。
「これ、湯気…?」
首を傾げながらも、再びゆっくりと歩き始める。だんだん熱い蒸気と硫黄の匂いが濃くなっていく。やっと森を抜けたところで、正太郎は目を疑った。
「…うわ、マジの温泉じゃん!」
森を抜けた先にあったのは、大きな温泉だった。それも由緒ある旅館にあるような露天風呂だ。水面は、ピンクと赤の花で埋め尽くされている。草むらの真ん中にポツンと、不揃いの岩で囲まれていて、5、6人が入れる大きさだ。目と鼻の先に脱衣所と思しき建物が見える。
「同窓会会場の近くにこんなところあったんだな……あれ?」
正太郎は濃い湯気の中から、ぷかぷかと何か大きな物体が浮いているのを見つけた。花にしては大きく、正太郎は目を凝らした。
「なんだあれ?」
足を気にしながら、ゆっくり歩いてソレに近づいてみる。
物体は、人の後ろ姿のようだ。豪奢な着物を纏っていて、手足と思われる部分も湯の表面からだらりと力なく浮いている。温泉に入っているのだから人なのだろうが、のぼせているのか血のような赤い肌をしていた。
「そ、そこの人ー!大丈夫ですかー!」
大声で呼びかける。しかし、反応はない。正太郎は、森を抜けて岩陰に寄りかかりながら、何度か「大丈夫ですかー!?」「聞こえますかー!?」と声掛けを続ける。しかし、反応はない。正太郎は自分のケガのことを忘れて、バシャバシャとお湯を暴れさせながら赤い人肌に向かって歩いて行く。
温泉のお湯は想像していたよりも熱い。倒れた時に擦り傷でも作ったのか、傷口に染みている。
「…あの、大丈夫ですか!」
目の前で触れる距離まで近づいて、初めて正太郎は、それが水分を含みブヨブヨになった着ぐるみであることに気づいた。よく見ると、それは着ぐるみの背中部分で、銀色のチャックが見える。
(これ、人が入ってる…!?)
着ぐるみの中に入っているのかは不明だが、着ぐるみを着たまま温泉にダイブは、なかなかの命知らずである。正太郎は、着ぐるみのふわふわの毛の中をかき分けながら、やっとの思いで着ぐるみを開けた。
着ぐるみからは、華奢な少女の後ろ姿だ。白い襦袢を着ていて、やや赤らんだうなじが見える。黒髪は濡れていて、着ぐるみに入るためか頭の上でくるりと纏められていた。
「お、女の子!?」
一瞬この場を去ることを考えたが、すぐにその考えを追い払うように頭を左右に振った。明らかに女子用の風呂場に男がいるのはまずい。ただ、妹に似た少女に死なれるよりはマシであった。彼女を救出して、すぐこの場を離れることを決意し、急いで担ぎ出す。脱衣所から温泉へは整備された道が続いていたので、ひとまずはそこに少女を横たえる。
(…綺麗な子だな)
着ぐるみごと温泉に浸かり、気を失っていた少女は、中学生くらいの年頃のようだった。ただ、信じられないくらい整った顔立ちをしている。高貴さが漂うつんと高い鼻やシャープな輪郭。正太郎がまだ実家にいた頃、妹がお風呂上がりに顔をマッサージしていたのは、こういう顔立ちになりたかったからだろう、と理解した。火照った肌は陶磁器のように白く、長いまつ毛は細くしなやかなカーブを描いている。
「…うん?」
長い睫毛がゆっくりとあがる。その場を早く離れないといけないのに、ルビーのような赤く煌めく瞳に、全身を縫い付けられたように引き込まれていた。
「…お」ふっくらと小さい唇から、鈴のような凜とした声色だ。
「…お?」
「…お前、…」
「え、何?」
「お前、何でここにいる?」
やっと少女の声が聞き取れたと思った瞬間、バァン、と力強く扉を開ける音。音の方向に目を向けると、長身でガタイいい男女が現れた。
「…閻魔様!」女の叫び声。目線は少女に向けられている。
「閻魔様?」
正太郎は頭の中で閻魔大王の姿を思い浮かべる。威圧感のあるどっしりとした体躯、身長は人間をゆうに超え、血のように赤い肌をしている。正太郎の中の閻魔大王と目の前の少女のイメージが一致しない。むしろ正反対である。
女の声と同時に、男がこちらに走ってくる。男の形相は恐ろしく、まさしく鬼のようだった。あまりの恐ろしさに正太郎は森の中に逃げ込もうとする。正太郎の命が消し飛びそうなくらい鋭い視線を向けてくる。
「ちょ、ちょっと、まって…!俺、助けたんだけど…!」
正太郎の静止の声にもとまらず、男は勢いよく走ってくる。一応距離は取ったはずだが、男はがっしりとした体で軽やかに跳躍し、正太郎の目の前に降り立つ。
「待て!」
意識がはっきりとした少女の静止の声に、男の視線は一瞬だけ正太郎から逸れた。しかし、拳は止まらない。
「ぐぼぉッ」
距離を詰められた、そう気づいた時には殴られていた。腹部に重い衝撃と、スローモーションのように宙に浮く感覚。多分、数メートルは飛んだ。口からは唾液が漏れ、数時間前に同窓会で食べたローストビーフの欠片が見えた。幼馴染の貴之と喧嘩したときに殴り合いに発展したことがあるが、この拳に比べたら赤ちゃんのじゃれ合いに近いものだ。
正太郎は、生い茂る草むらの中に大の字になって叩きつけられた。怪我をした足首の痛みなど、もう覚えていない。
(…俺、これからどうなっちゃうんだ…)
正太郎の意識がぷつりと消えた。
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