第40話 秀長死す
**材木着服事件と責任問題**
天正16年(1588年)、紀伊の雑賀で材木の管理をしていた代官・吉川平介が、秀吉の命令で熊野の材木2万本を売却した際、代金を着服するという事件が発生した。この不正は迅速に秀吉の耳に届き、吉川は処刑されることとなった。この事件の責任は、吉川の上司である秀長にも及び、秀長自身も秀吉から厳しい処分を受けることとなった。翌年の年頭の挨拶も拒否されるなど、秀長の地位は一時的に揺らいだ。
**秀吉の側室茶々の産所としての淀城改修**
天正17年(1589年)1月1日、新年祝賀のために大坂城で秀吉に太刀を進上した秀長。その後、同年の3月には、秀吉の側室茶々の出産場所として淀城の改修を担当することになった。この改修は、秀吉の子どもである鶴松を無事に出産させるための重要な任務であった。高名な城郭技術者としての秀長の手腕がここでも発揮された。
**病気と小田原征伐**
天正18年(1590年)1月頃から秀長の健康は悪化し、彼は小田原征伐には参加できず、畿内の留守居を務めることとなった。病状の悪化は、彼の政治的活動にも影響を与え、実質的に政務から退くことを余儀なくされた。10月頃には、秀次が秀長の病気回復を祈願するために談山神社を訪れており、両者の関係は良好であったことが伺える。
**秀長の死と家督の継承**
天正19年(1591年)1月22日、秀長は郡山城内で病死した。享年52。男子がいなかったため、家督は養嗣子であった甥の秀保に継がせることとなった。秀保は姉・智の息子であり、秀次の弟であった。秀長の死後、郡山城には金子56,000余枚、銀子が満杯になるほどの金銀が備蓄されていたという(多聞院日記)。
**戒名とその後の祀られ方**
秀長の戒名は「大光院殿前亜相春岳紹栄大居士」であった。現在、彼の墓は大和郡山市箕山町にある「大納言塚」として伝わっている。また、大阪市中央区の豊國神社には、秀吉と甥・秀頼と共に祀られている。
**秀長家系の断絶**
秀長の家系は、4年後の文禄4年4月16日(1595年4月16日)、養嗣子である秀保が17歳で死去したことにより断絶した。秀保の死により、秀長の家系は完全に途絶えることとなった。
秀長の業績とその後の影響は、豊臣政権の形成と維持において重要な役割を果たしたが、彼の死後、その家系が途絶えたことは、豊臣家の後継問題と併せて、時代の変遷を象徴する出来事となった。
**高虎の視点から見た秀長の晩年**
**秀長との関係と淀城改修**
天正17年1月1日(1589年2月15日)、大阪城での新年祝賀において、秀長とともに秀吉に太刀を進上した高虎。高虎は秀長と共に政務を行っていた時期もあり、その貢献と忠誠心は秀吉から高く評価されていた。この年、秀吉の側室茶々の産所として淀城の改修が進められることとなり、高虎はその改修に関わった。彼の経験豊富な技術が、改修工事においても重要な役割を果たしたと考えられる。
**秀長の病気と政務の変化**
しかし、天正18年(1590年)1月頃から秀長の健康が急激に悪化し、小田原征伐に参加することができなくなった。高虎はこの時期、秀長の病気を気遣いながらも、政務や軍事の指揮を引き継いでいた。秀長が畿内の留守居を務める中、彼の不在は高虎や他の家臣たちにとっても大きな負担となっていた。
**秀次との関係と談山神社**
秀長の病気回復を祈願するために、秀次が談山神社に訪れるという行動も見られた。高虎は、この祈願の動きや秀次との関係を把握し、秀長の回復を心から願っていた。秀長と秀次の関係が良好であったことは、高虎にとっても安心材料であり、政務の安定を保つための重要な要素となっていた。
**秀長の死去とその後**
天正19年1月22日(1591年2月15日)、秀長が郡山城内で病死したことは、高虎にとっても大きな衝撃であった。享年52、秀長の死により、家督は養嗣子である甥の秀保に継承されることとなった。郡山城には膨大な金銀が備蓄されており、その富は秀長の政務の成果を物語っていた。
**戒名とその後の祀り**
秀長の戒名は「大光院殿前亜相春岳紹栄大居士」であり、彼の死後もその功績を称えるために、大和郡山市箕山町に「大納言塚」が建立された。また、大阪市中央区の豊國神社には、兄・秀吉および甥・秀頼と共に祀られており、秀長の功績は今なお讃えられている。
**秀長家系の断絶**
秀長の家系は、文禄4年4月16日(1595年4月16日)に甥の秀保が17歳で死去したことにより断絶した。高虎は、家系の断絶を受けて、その後の豊臣家の動向に影響を与える人物として、政務に引き続き貢献することとなった。
秀長の晩年とその死後の状況は、高虎にとっても複雑な感情を呼び起こすものであり、彼の生前の功績やその影響は、戦国時代の政治や軍事の風景に大きな印象を残した。
**会話シーン: 高虎と秀長の側近**
**場所**: 秀長の郡山城内、天正18年(1590年)の冬
**登場人物**:
- **高虎**: 秀長の側近、軍事と政務を担当している。
- **竹内**: 秀長の信任を受けた家臣、医師でもある。
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**高虎**: 「竹内殿、秀長公の具合はいかがですか?」
**竹内**: 「おお、高虎殿。残念ながら、病状は悪化しています。いまはただ安静を保つようにとの指示しか出せません」
**高虎**: 「そうですか…。これから小田原征伐が控えておりますが、秀長公が参加できないのは大変な痛手です。お身体が一刻も早く回復することを祈るばかりです」
**竹内**: 「おっしゃる通りです。秀長公の病気が一日でも早く快方に向かうよう、最善を尽くしております。ただ、ここにいると焦りばかり募るばかりで…」
**高虎**: 「焦りは禁物です。病状がこれ以上悪化しないように、しっかりと見守ることが重要です。私も一緒に祈ります。さて、秀次殿が談山神社に訪れたと聞きましたが、その件について何か情報はありますか?」
**竹内**: 「はい、秀次殿の訪問は、秀長公の回復を祈るためのものでした。神社では特別な祈祷が行われ、周囲の者たちもその祈りに加わっております。秀長公と秀次殿の関係は非常に良好で、秀次殿の思いやりが伝わってきます」
**高虎**: 「それは良い知らせです。秀長公が回復し、再び政務に復帰できることを心から願っています。もし何か新しい情報があれば、すぐに私に知らせてください」
**竹内**: 「かしこまりました。高虎殿も、政務や軍事でご多忙かと思いますが、お体を大切に。私たちも引き続き最善を尽くします」
**高虎**: 「ありがとうございます。秀長公のために、一層の努力を重ねましょう。では、また後ほど」
**竹内**: 「はい、失礼いたします」
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**会話後**: 高虎は城内の他の家臣や軍事の準備を整えながら、秀長の早期回復を心から祈り続けるのであった。
**会話シーン: 秀長の死の間際、高虎を呼ぶ**
**場所**: 秀長の病床、郡山城内、天正19年1月22日(1591年2月15日)
**登場人物**:
- **秀長**: 末期の病に苦しむ大名。
- **高虎**: 秀長の側近、彼の最後の瞬間に立ち会う。
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**秀長**: *(弱々しく高虎を呼ぶ)* 「高虎殿…」
**高虎**: *(急いで駆け寄り、ひざまずく)* 「はい、秀長公。お呼びでしょうか?」
**秀長**: *(かすれた声で)* 「お前に、最後のお願いがある…」
**高虎**: *(心配そうに)* 「どうぞ、何でもおっしゃってください」
**秀長**: *(深く息を吸い込み)* 「私がこの世を去った後…、この城と家族を頼む。秀保には、私のように家を支えられるように育ててやってくれ」
**高虎**: *(目に涙を浮かべて)* 「もちろんです、秀長公。お約束いたします。秀保殿が良き後継者となるよう、全力で支えます」
**秀長**: *(微弱な笑みを浮かべて)* 「また…、私がやり残したことがあれば、きっと…、お前が…引き継いで…」
**高虎**: *(強い決意を見せて)* 「はい、秀長公。おっしゃる通りにします。お体が楽になるように、最後までお手伝いします」
**秀長**: *(ゆっくりと目を閉じる)* 「…ありがとう、高虎殿。長い間、共に戦い…、支えてくれて…」
**高虎**: *(涙をこらえながら)* 「どうか安らかに…。私たちは、秀長公の遺志を必ずや引き継ぎます」
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**会話後**: 高虎は秀長の手をそっと握り、彼の最後の瞬間に立ち会いながら、彼の遺志をしっかりと受け止め、これからの役目に心を新たにするのであった。
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