第2話 師匠

 高虎が稲葉一鉄の推薦で次に仕官したのは、**細川藤孝(演:堺雅人)**でした。藤孝は、教養高く文武両道の武将として知られ、高虎にとっても憧れの人物。藤孝のもとでさらに多くの知識や戦術を学び、特に築城術の腕を磨いていきます。この頃、彼は若いながらも「冷静沈着で知略に長けた武士」として周囲に認められるようになっていきます。


 藤孝は天文3年(1534年)4月12日、三淵晴員の次男として京都東山にて誕生。のちに、晴員と共に12代将軍・足利義晴の近臣であった細川晴広の養子となる。天文15年(1546年)、13代将軍・義藤(後の義輝)の偏諱を受け、与一郎藤孝を名乗る。幕臣として義輝に仕え、天文21年(1552年)に従五位下兵部大輔に叙任される。


 永禄8年(1565年)に義輝が三好三人衆に討たれ(永禄の変)、その弟の一乗院覚慶(後に還俗して足利義昭)が興福寺に幽閉されると、兄三淵藤英を始め一色藤長、和田惟政、仁木義政、米田求政らと協力してこれを救出し、近江国の六角義賢、若狭国の武田義統、越前国の朝倉義景らを頼って義昭の擁立に奔走した。当時は貧窮して灯籠の油にさえ事欠くほどで、仕方なく社殿から油を頂戴することもあるほどだったという。


 その後、明智光秀を通じて尾張国の織田信長に助力を求めることとなる。永禄11年(1568年)9月、信長が義昭を奉じて入京し、藤孝もこれに従った。義昭が征夷大将軍に任じられた後(つまり10月18日より後)藤孝は9月29日に岩成友通から奪還した山城国勝竜寺城を与えられ(言継卿記)、天正9年(1581年)3月24日まで統治した、その翌日には猪子兵助が点検のために入城している。


 義昭と信長の対立が表面化すると、元亀4年(1573年)3月、軍勢を率いて上洛した信長を出迎えて恭順の姿勢を示した。義昭が信長に逆心を抱く節があることを密かに藤孝から信長に伝えられていたことが信長の手紙からわかっている。義昭が追放された後の10月10日に桂川の西の一職支配権を許されのを機に名字を改めて長岡藤孝と名乗った。


 8月には池田勝正、三淵藤英と共に岩成友通を山城淀城の戦い(第二次淀古城の戦い)で滅ぼす功を挙げ、以後は信長の武将として畿内各地を転戦。高屋城の戦い、越前一向一揆征伐、石山合戦、紀州征伐のほか、山陰方面軍総大将の明智光秀の与力としても活躍した(黒井城の戦い)。天正5年(1577年)、信長に反旗を翻した松永久秀の籠る大和信貴山城を光秀と共に落とした(信貴山城の戦い)。


 天正6年(1578年)、信長の薦めによって嫡男忠興と光秀の娘玉(ガラシャ)の婚儀がなる。光秀の与力として天正8年(1580年)には長岡家単独で丹後国に進攻するが、同国守護一色氏に反撃され失敗。後に光秀の加勢によってようやく丹後南部を平定し、信長から丹後南半国(加佐郡・与謝郡)の領有を認められて宮津城を居城とした(北半国である中郡・竹野郡・熊野郡は旧丹後守護家である一色満信(義定)の領有が信長から認められた)。甲州征伐には一色満信と共に出陣。


 同年正月12日付の信長から藤孝宛ての黒印状にて、尾張国知多半島で取れた鯨肉を信長が朝廷に献上したうえで、家臣である藤孝にも裾分けする旨を述べている。


 天正10年(1582年)に本能寺の変が起こると、藤孝は上役であり、親戚でもあった光秀の再三の要請を断り、剃髪して雅号を幽斎玄旨(ゆうさいげんし)とし、田辺城に隠居、忠興に家督を譲った。同じく光秀と関係の深い筒井順慶も参戦を断り、軍事力的劣勢に陥った光秀は山崎の戦いで敗死した。『 老人雑話』には「明智(光秀)、始め(は)細川幽斎の臣なり」とあり、両者の出自の上下関係は歴然としていることから、幽斎には光秀の支配下に入ることを潔しとしないところがあったとする説がある。


 その後も羽柴秀吉(豊臣秀吉)に重用され、天正14年(1586年)に在京料として山城西ヶ岡に3000石を与えられた。天正13年(1585年)の紀州征伐、天正15年(1587年)の九州平定にも武将として参加した。また、梅北一揆の際には上使として薩摩国に赴き、島津家蔵入地の改革を行っている(薩摩御仕置)。この功により、文禄4年(1595年)には大隅国に3000石を加増された(後に越前国府中に移封)。


 幽斎は千利休や木食応其らと共に秀吉側近の文化人として寵遇された。忠興(三斎)も茶道に造詣が深く、利休の高弟の一人となる。一方で徳川家康とも親交があり、慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると家康に接近した。


 高虎(藤堂高虎)が細川藤孝(幽斎)に仕えていた時期は、彼の初期の武士としてのキャリアにおいて重要な時期でした。高虎は後に大名として知られるようになりましたが、若い頃はさまざまな主君に仕えて武士としての経験を積んでいきました。


### 藤堂高虎と細川藤孝の関係

藤堂高虎が細川藤孝に仕えたのは、彼が仕官先を転々としていた時代の一つです。細川藤孝は文化人としても有名な教養人であり、また織田信長や豊臣秀吉に仕え、武将としても名高い存在でした。藤孝は戦略家としての才覚もあり、その元で高虎は多くの戦略や政治的な手腕を学んだ可能性があります。


### 高虎が細川藤孝に仕えた背景

高虎は若い頃、父を亡くした後に母親の再婚先で育てられ、藤堂家としての名跡もまだ確立していませんでした。彼は最初、浅井長政に仕え、その後、戦国時代のさまざまな武将に仕えることになりますが、その一環として細川藤孝のもとでも一時期仕えていました。


高虎が仕えた時期は、藤孝が織田信長に従属し、信長の権力基盤を支える中で、各地を転戦していた時期であったと考えられます。この間、高虎は軍事的な知識や作戦の立案、そして藤孝からは教養や礼節、さらには政務の運営方法など、多くのことを学んだと推測されます。


### 細川藤孝の影響

細川藤孝は、和歌や連歌、能楽に造詣が深く、文化的な面でも非常に優れていました。そのため、高虎も単に武術だけでなく、文化や教養にも触れる機会があったかもしれません。また、藤孝は政治的手腕にも長けており、戦国大名として生き抜くための知恵や計略をも高虎に教えたと考えられます。特に、主君に対する忠誠心や、時には主君を変えることもやむを得ないという現実的な判断力は、後の高虎の政治的柔軟性にも影響を与えたでしょう。


 しかし、その平穏な日々は長くは続きません。藤孝の息子、**細川忠興(演:綾野剛)**の登場によって物語は一気に動き始めます。忠興は高虎と同年代で、戦場でのライバルとも言える存在。二人は互いに切磋琢磨し、次第に友情が芽生えていきますが、戦乱の激化とともにその関係も変わっていきます。


 

### 藤孝との別れとその後の影響

高虎は最終的には細川藤孝のもとを離れ、その後、豊臣秀吉に仕えて大成していきますが、藤孝から得た教えや経験は、その後の高虎の大名としての活動に大きく影響を与えたことは間違いありません。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る